聖帝さまの小話

基本、思い出。

『ねぇ千秋』

 

ホテルの外は雨が降っているらしい。

ベッドシーツに裸のまま寝転がり、

左手のタバコに火をつける。

ゆらゆらと立ち上がる白い煙は、

私の身体を過ぎて窓の方へ流れていく。

 

ホテルの部屋で吸うタバコは、

いつも苦い背徳の味がする。

 

その白い煙の向こうでは、

千秋が下着も付けないで

裸のままペットボトルの水を飲んでいた。

 

ホテルの窓からは青白い月が見えて、

その光が梅雨のムワッとした

重たい熱気に差し込んでいる。

 

レースのカーテンから漏れる月の光が、

彼女のツンと膨らんだ乳房を照らしていた。

 

どこまでもサラサラに洗濯された

ホテルのベッドシーツは、私たちの汗で

そこだけ雨が降ったように湿っている。

 

私はベッドの上から、彼女に話しかける。

 

私『ねぇ千秋』

 

千秋『ん?なに?』

 

私『俺さっき、夢を見たんだよ』

 

千秋『そう、』

 

私『狭くて暗い部屋でさ、千秋が泣いてたんだ。

      あれは、あんたがまだ小さい頃だったと思う。』

 

千秋『やめてよ、そんな夢の話。』

 

私『それでね?うまく思い出せないんだけど、

       黒い影の男がいたんだ…背が低くて、』

 

千秋『もう!やめてってば!』

 

突然、彼女は声を荒げて

持っていた空のペットボトルを私に投げつけた。

いつもクールな彼女らしくないと思った。

 

ペットボトルに少しだけ残っていた水が、

シーツに滴って、なんだか泣いてるように見えた。

 

千秋『私も見たの、夢。』

 

私『え?どんな夢?まさか同じ夢とか?

       なんだか不思議だね、』

 

千秋『違うの。もっと不思議なの。』

 

私『…どういうこと?』

 

千秋『『あなたの夢』を見たのよ。』

 

私『俺の夢?どういう事?』

 

千秋『……』

 

歌舞伎町の汚れを洗い流すかのように、

雨の音だけが、この部屋に響いていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

2019年、6月某日。

 

今年の梅雨は、

連日の真夏日が続いていた。

 

梅雨の西陽に照らされる電車内は

かなり冷房が効いているはずなのだが、

それでもまだ暑い。

私は紺色のジャケットを脱いで、

長袖のシャツ一枚になると、

汗ばんだ首元をパタパタしながら

新宿へと向かう総武線に揺られていた。

 

大都会『新宿』はいつものように

人の群れでごった返していた。

 

JR 新宿駅 東口改札

 

6月とは思えない暑さに、

街を歩く若い女性たちは

春とも夏ともつかない服装で

新宿ルミネエストの中へ歩いて行く。

 

服装の自由がきかない

汗だくの中年サラリーマン達は

グレーのハンカチで額の脂汗を拭きながら、

公害さながらの臭気をまとって

改札の中へ吸い込まれていく。

 

少し耳を広げると、

どこかで中国人家族の大きな声が聞こえる。

あれは怒鳴っているのだろうか、

それともあれが、彼らの普通なのだろうか。

 

とにかく新宿は不快指数の高い街である。

丸の内や日比谷、青山はこうではない。

 

誰かが言った、

 

『新宿はどんな人間も拒まない』

 

金持ちも貧乏人も、容姿の美醜も問わない。

ホストも風俗嬢もいれば、オカマもゲイもいる。

騙す奴がいれば、騙される奴もいる。

 

確かにそうだ、この街は誰も排除しない。

同時にそれこそが、

この街の功罪そのものだろう。

 

かくいう私も、

新宿のそんな部分を便利に愛しているし

また、しばしば助けられてもいる。

 

待ち合わせの時間が迫っていた。

今日の相手は時間にうるさい。

遅刻すると少々、面倒なことを言われそうなので

私は足早に新宿東口交番前を

歌舞伎町方面へまっすぐ進み、

新宿大ガード近くの珈琲店に入った。

 

待ち合わせの時間には間に合った。

あと2分はある、

制服を着た若い女性の店員に

『禁煙、喫煙どちらになさいますか?』

と聞かれ、私は迷ってしまった。

 

今日は、彼女はどちらを選ぶだろう。

 

少し迷って喫煙席に通してもらった。

 

2人がけのテーブルにガラス窓を背にして座る。

すぐに先ほどの店員に注文を聞かれたので、

メニューも見ずにアイスコーヒーを頼んだ。

 

タバコに火をつけながら辺りを見回すと、

19時前の店内には、

先ほど化粧を直したであろう仕事帰りのOLや、

やたら声の大きな大学生たちが目立った。

 

考えてみれば今日は金曜の夜だ。

この後、新宿で飲み会でもあるのだろう。

 

私がテーブルで煙を燻らせながら

アイスコーヒーを待っていると、

ふいに、さっきまで大声で話していた

学生たちの声がピタリと止まった。

 

階段をのぼってくるヒールの音が聞こえる。

ウェーブがかったダークブラウンのロングヘア

こちらがちょっと恥ずかしくなるぐらい

丈の短いオフホワイトのドレスワンピには

ピンクベージュのビジューがあしらってある。

新宿に照りつける西陽を

彼女の両耳にぶら下がった真珠が反射して、

キラッと光る。

 

時間ぴったり、

『千秋』が来た。

 

f:id:seiteisama:20190709213755j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私が彼女に向かって合図を送ると、

彼女はすぐに気づいてこちらに歩いてきた。

 

静まり返った大学生のグループは

通り過ぎる千秋の姿をまじまじと見つめている。

 

彼女は席に着くと、

おしぼりをうちわがわりにパタパタとさせて

『暑いわね、待った?』と私に聞くので

『うーんちょっとだけね、2分待った。』と答えた。

 

『待った』と言ってもほんの2分である。

この程度、待ったうちには入らない。

 

自分でも、なぜそう言ったかよく分からない。

『全然待ってないよ』

今からデートをする男女にとっては、

普通に考えたらこう答えるのが定番だ。

馬鹿正直に2分待ったと答える方がおかしい。

頭では分かっているのに、

それでも私は『2分待った』と言った。

 

もしかして、自分でも気付かないうちに

彼女の前では正直であろうとしているのかも、

ふと、そんな他愛もない事を思った。

 

彼女はアイスティーを頼むと、

肩にかけていたジミーチュウの

小さなカバンの中から

薄いタバコの箱を取り出す。

 

私『今日はどう?喫煙席でよかった?』

千秋『そうね、この後も別に仕事とかないから』

 

私は彼女のタバコ入れに手を伸ばすと、

黒いジッポライターを取り出し、

ダイヤルを回して火をつけた。

 

千秋『ありがと』

 

彼女が顔を近づけて、タバコに火をつける。

 

かすかにイチジクのフレーバーが香る煙は、

彼女の後方のテーブルにいる

大学生グループの席へと流れて行く。

 

千秋『あっそうそう、はいこれ』

私『なに?もしかして誕生日プレゼント?』

千秋『そう、伊勢丹の』

私『あんた本当に伊勢丹好きだねぇ、ありがと。』

千秋『今日ちょうど買い物したついでにね、

          ねぇ、開けてみて?』

 

紙袋から細長い箱を取り出す。

中にはネクタイが入っていた。

紺地に紫の、光沢があるダマスク柄、

 

私『さすが、俺の趣味よく分かってるね』

千秋『これで完璧でしょ?』

私『そう、完璧。

     俺も今日はネクタイ締めてこなかったよ。』

千秋『なに?私が買うって思ってたから?』

私『それは流石に偶然だけどね、』

 

私はネクタイを取り出しながら

どこかに値札がないか探す。

プレゼント用なので、当然取り除かれてる。

さすが、抜かりがない。

 

私『じゃあ、トイレで付けてこようかな』

千秋『ついでに髪でも直してきたら?』

私『え?髪?』

 

私が目線を上にやると、

前髪が1束だけ、びょんと前に倒れていた。

 

自分のアイスコーヒーを飲み干し、

ネクタイを持って奥の化粧室へ向かう。

 

洗面台の鏡の前で、シャツの襟を立て

貰った紫のネクタイを締める。

今日の濃いネイビーのジャケットにもよく合う。

そのついでに前髪も直す。

これでバッチリ、キマッた。

 

今日は彼女との楽しい夜になるはず。

それは確かにそうなのだが、

何故か、不安なのだ。

 

今夜、私と彼女の何かが変わってしまう気がする。

 

私は少しの間、鏡の自分を見ながら

『今日は俺たち、どうなるんだろう…』と呟いた。

 

その理由が何なのかは自分でも分からないが、

私の心のずっと深いところで、

何かが静かに、さざ波を立てていた。

 

f:id:seiteisama:20190709221529j:image

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

トイレを出て席に戻ると、

彼女はタバコ片手に足を組んで席に座り、

誰かに電話を掛けているようだった。

 

不意に彼女の短いワンピースと生脚に目がいく、

 

女という生き物は、恥ずかしくないのだろうか。

男だったらとてもじゃないが、

恥ずかしくて、そんな風に肌を出せない。

まず男と女を同じに考えること自体、

間違っているのかもしれない。

 

私は黙って席に座り、

自分のタバコを一本取り出しておいて

火は、まだ付けないでおいた。

 

彼女は電話を切ると

『お店の予約取れたよ』と明るい声で私に言う。

 

言い忘れていたが、

今日は私の誕生日のお祝いである。

 

私『今日は高いお店連れてってくれるんでしょ?』

千秋『そんなに高くはないけど、

          今日はね。割烹料理のお店、いいでしょ?』

私『へぇ、割烹料理?珍しいね』

千秋『誕生祝いなんだから、

          なんか変わったことしないとね。』

私『何時から?』

千秋『19時30分、もうすぐね』

私『じゃあ、もう出ていい頃だね。』

 

私は黙って、取り出したタバコを箱にしまった。

 

普通、こうやって何かを祝われる時などは、

店の名前でも聞こうものなら、

嘘でも大げさに喜んだりするものなのだが、

私はそういうことはしない。

彼女も比較的、似たようなところがある。

 

無論、嬉しくないわけではない。

でもわざとらしく喜んだりはしない。

無理にありがとう、とも言わない。

お互いに無頓着を装って、クールにやり過ごす。

そうしないと、私たちの間にある

何かが壊れてしまいそうで不安なのだ。

 

それが人との付き合い方として正しいのか、

正直それは分からない。

でも私と千秋は長い間、

そうやってお互いと付き合ってきた。

あるいは自分自身に対しても。

 

千秋は『じゃあ行こっか』と言って、

灰皿でタバコを消して席を立った。

 

私もスマホを胸ポケットにしまって席を立つ、

 

千秋は元から背の高い女だが、

今日は一段と高いヒールを履いているらしく、

私と並んでも、さほど変わらないように見えた。

 

茶店の急な階段で、

ふと千秋のことが心配になって振り返る。

ハイヒールの彼女は手すりを掴んで、

身体を少し斜めにして降りてきた。

 

私が『大丈夫?』と聞くと

彼女は『大丈夫』と答えた。

 

階段の下から見上げると、

彼女の白い太ももが見えた。

パンツも見えるかな?と思ったが見えなかった。

 

それでふと思い出したのだが、

彼女の右腰には薔薇のようなタトゥーがある。

 

6月のむっとした空気が

新宿の路地裏を吹き抜ける。

 

彼女と初めて会った夜も、

確かこんな風に蒸し暑い夜だった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

今から6年前の2013年 夏 渋谷

 

あれは私がまだ大学一年生で19歳の頃。

巷では脱法ハーブが流行っていて、

当時の渋谷では、クラブはもちろん

居酒屋の個室、カラオケボックスなどで

若者達が毎晩、それに興じていた。

 

道玄坂やセンター街では毎晩のように

どこかの大学生が酒とドラッグで倒れ、

救急車はサイレンを鳴らし、

警察が事情聴取しているというのが日常茶飯事で、

それこそが私にとっての渋谷の原風景だった。

 

その頃、ナイトクラブの入場規制は

今とは比べ物にならないほど緩く、

当時19歳だった私は、なんの不思議もなく

夜の社交場に出入りすることが出来た。

 

atom』『vision』『womb』

そして『T2』(現在のTK)

渋谷のクラブは数え挙げればきりがないが、

大きくはこの4つ、

私は比較的、センター街地下の

『T 2』に行くことが多かった。

 

地下にある暗い店内は、

腹を打つような重低音のビートに合わせて、

『大人』達が男女入り乱れ、

色とりどりの酒が入った小瓶を片手に踊っていた。

もくもくとタバコの煙が立ち上がり

それがライブ会場でいうところの

スモークの役割を果たして

クラブ内を走る極彩色のビームライトを

より一層鮮やかに映し出した。

 

レディーガガ、テイラースイフトマルーン5

終電前の渋谷のクラブはどこも

これらのゴールデンチューンを流して

若者達を一晩の色恋へと誘い、

あの街の誰もが、その要請に応えていた。

 

私はその日、少し思うことがあって

一緒にいた大学の友人達が帰った後、

誰にも話しかけずに1人で奥のソファーに座り、

テキーラとビールを交互に煽っていた。

 

おそらく、あの場にいた者の半数近くは

法の合否を問わず、

何かしらのドラッグに興じていたと思う。

トイレの個室を開ければ、

誰かがドラッグセックスに興じている。

そんな時代だった。

 

突然、向こうから凄い勢いで

ハイヒールが飛んできた。

あわや目を直撃しようかというその放物線は

少しそれて、私の額を直撃した。

 

ペタペタと裸足の女が歩いてくる。

彼女は私の膝の上に腰掛けると、

私の耳元に口を寄せ、話しかけてきた。

 

『ごめんね?痛かった?ねぇあんた何才?』

と聞かれたので

私は正直に『19』と答えた。

 

女『え?19!なんだ、まだ赤ちゃんじゃない!』

 

彼女は自分の方が年上だと分かって

気が大きくなったのか、私の肩に手を回してきた。

 

丈の短いワインレッドの

タイトなワンピースを着た、

香水の匂いをムンムンと振りまく都会の女。

でも何故か、懐かしい感じのする女だった。

 

彼女が図々しく、

『ねぇタバコ一本ちょうだい?』というので、

仕方なく2人で吸った。

 

女『あんたセブンスターなんて吸ってんの?

      たぶん、早死にするわよ。』

 

もらいタバコしておいて、図々しい女だ。

と私が呆れた瞬間

彼女は私のテキーラを手にとって口に含むと、

勢いよく口移しで私の口に流し込んできた。

 

私があっけにとられて彼女を見つめていると、

彼女は顔を私に近づけたまま、

諭すような声で言う。

 

『あんたね、眼が赤ちゃんなのよ。

   そう、そうやって何でも見ちゃうの。

    良いものも悪いものも、何にも考えないで。

    目の前にあるものぜーんぶ見て、

    そして吸収しようとしちゃってるの。

    自分では大したことないよって

    ポーカーフェイス気取ってるけど、

    心の中では、ちゃんと傷付いてるのよ。』

 

彼女は私の胸に手を当てる。

白くて華奢な手、人差し指のネイルが欠けて

少し血が出ている。

 

彼女はかなり酒に飲まれているようだが、

言うことだけは冴えていた。

 

唐突に、彼女はその白い手で

私の顔をぐしゃぐしゃにした。

私の口からこぼれたテキーラと混ざって、

彼女の手からなんとも言えない、

女のいい匂いがした。

俗に『いい女の匂い』ともいう。

それが新宿にある伊勢丹百貨店の

化粧品売り場の匂いだと分かったのは、

それから何年も後のことだ。

 

いつのまにか彼女は私にまたがるように座り、

私の顔や髪をもみくちゃにしながら、

キスまでし始めた。

 

大股を開いた彼女の短いスカートはめくれ上がり

ほとんどパンツまで見えてしまっている。

 

すると、彼女の右のふとももの辺りに、

花の絵のようなタトゥーを見つけた。

私がそれをじっと見つめる。

 

『なに?気になるの?』と彼女に聞かれたので

『うん、』と答える。

 

彼女は少し困ったような顔をして

『見なかったことにして?』と囁いた。

 

だから私も、それ以上詳しくは聞かなかった

 

私が『もう片方の靴は?どうしたの?』と聞いて、

ビームライトが走るクラブ内を2人で探した。

 

思えばあの頃の渋谷は、何か変だった。

私や彼女を含めた渋谷の若者達は

そんな都会の狂乱の真ん中で、

人間でも獣でもない『何か』になろうと、

閃光と爆音の中に、両手をかざしていた。

 

その夜、私は初めてタトゥーのある女と

渋谷の安いホテルでセックスをした。

 

いま思い返せば、

千秋とあんなに眼を合わせて向き合ったのも

あの夜だけだったように思う。

 

f:id:seiteisama:20190710171523j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ずっと昔の事を思い出してしまった。

最近、こういうことが多いように思う。

 

私たちが珈琲屋の階段を降りると、

あたりはすっかり暗くなっていた。

 

新宿通りのタクシーは赤いランプを灯して

飛ぶように走り抜けていく。

 

ビックカメラやマルイのビルは

梅雨の夜空に巨大な光の塔となってそびえ立ち、

地上では風俗や居酒屋の客引きが

形式化された文句と決まりきったトーンで、

道行く大衆の足をとめている。

 

あたりはすっかり、我々の慣れ親しんだ

夜の新宿を演出していた。

 

私たちは予約していた

割烹『中嶋』へと向かうことにした。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

店内に入ると

少し柔らかにオレンジがかった

明るい木材のL字カウンターがあり、

その向こうが調理場。

カウンター席と調理場は、

大きなガラスで仕切られてある。

 

さすが、名のある割烹だけあって

掃除が行き届いている。

目の前の大きなガラスを見渡しても、

水垢ひとつ見当たらない。

 

瓶ビールを注文して乾杯する。

グラスも上品な大きさ。

表面を磨きあげたかのような徹底洗浄で

サッポロ黒ラベルの星まで輝いて見える。

 

お通しで出された

『鱧(はも)の煮こごり』をつまみながら

 

彼女が先に口を開いた。

 

千秋『あっ、お誕生日おめでとう』

私『ありがとう。まだちょっと先だけどね』

千秋『いつなの?』

私『20日

千秋『なんだ、じゃあまだ24歳?』

私『そうだね。あと少しで25歳。』

千秋『まだまだ、赤ちゃんね』

私『そういうあんたは?何歳なの?』

千秋『教えない。』

 

実のところ、私は彼女の年齢を知らない。

おそらく2つか3つ上だと

何となくアタリは付いているが

正確なところはよくわかっていない。

そして不思議と、その事を彼女に

突き詰めて聞こうとも思わなかった。

 

互いの関係をできるだけ曖昧にしておきたい、

私と千秋がよくやる距離の取り方だ。

 

私『この煮こごり、美味しいね』

千秋『そう?ここは天ぷらも美味しいの。』

 

千秋はこの店の常連らしく、

ほとんどメニューを見ないで注文していた。

 

私『知り合ってから、もうかなり長いよね。』

千秋『そうね、もう5、6年は経つ?』

私『そう、そのぐらいだね。

       あのさ、初めて会った時のこと覚えてる?』

千秋『ごめん悪いけど覚えてないわ。最近はもう、

          1週間前のことだって忘れちゃうから。』

 

千秋はそう言ってビールグラスに逃げた。

頭のいい彼女のことだ、覚えてないはずがない。

でも確かに、その日の出来事に関しては

私も恥ずかしいので、その話はやめておいた。

 

私『そう、こないだ部屋を掃除してたらさ

       面白いもの見つけたんだ。ちょっと見てよ。』

千秋『なに?』

 

私は財布の中から、一枚のコインを取り出した。

大きさは500円玉ぐらいで、

裏面には『双頭の鷲』があしらってある。

 

千秋『なにこれ、外国のお金?』

私『そう、ルーブル。ロシアの貨幣だよ。』

千秋『へぇー、初めて見た』

私『昔ね、ナスタが部屋に置いてったんだ。』

千秋『あぁ、ナスタ。あの子ね』

私『なんだよ白々しいな、

       何回か一緒に飲みにも行ったろ?』

千秋『そうだっけ、あんまり覚えてない

          あの子、ロシアで元気にしてるの?』

私『この前、手紙書いたんだけどね。

      まだ返事は来ないんだ。』

千秋『ふーん』

 

 

『ナスタ』とは、

当時、四ツ谷にあった私の部屋に

一時期、居候していたロシア人の女性である。

本名は確か

『ナスティア=リュキーニシュナ=ヴォルチコワ』

そんな感じの長い名前で、略してナスタである。

 

私は最初、上海で彼女と出会って、

それから何年かした後、

たまたま日本に来ていた彼女と再び知り合った。

 

当時、彼女は日本に家がなかったようなので

しばらく私の部屋に泊めて、

面倒を見たりしていた。

その後、日本での生活に慣れた彼女は

歌舞伎町で我々の仲間の一人として

過ごすことになるのだが、

突然、仲間の輪に飛び込んできたナスタを

千秋はあまり心良くは思っていないようだった。

 

2017年の春、

彼女は突然、ロシアへと帰っていった。

   

         ブログ   『ウラジヴォストクのナスタ』を参照

 

割烹着の女性店員が私たちのテーブルに

あんこうの唐揚げ』を運んできた。

 

千秋『そうそう、これも美味しいの!』

私『あんこうって冬のイメージだけどな』

千秋『この時期が一番美味しい

         あんこうだっているのよ。知らないけど、』

 

千秋は女性にしてはよく食べる方で、

彼女のキツい性格の割には、

食べ物の好き嫌いもない。

 

大根おろしと生姜をのせて食べる

あんこうの唐揚げは確かに美味しかった。

 

その後も次々に運ばれてくる料理は、

一品一品どれも唸るように美味しくて

瓶ビールも2人で4、5本飲んで、

お互い、酔いが回ってきたように思った。

 

千秋は焼酎『青鹿毛(あおかげ)』を

頼むと言ったので、私もそれに合わせた。

 

私『なんか最近、大切な人に限って

       俺達から離れていっちゃう気がするんだ、

       ナスタもそうだし、松田もバイク事故で…』

千秋『そうね、確かに。

         あなたにとってはミッキーもそうね。』

私『あぁ、そうか、千秋も一回だけ

      ミッキーに会ったことあるんだもんね。』

千秋『変な人だったなーってイメージしかない。』

私『まぁ、あながち間違ってはいないけど』

 

『ミッキー』とは、私が田舎から上京してから

ずっと歌舞伎町で私の面倒を見てくれていたゲイで

東京での父のような存在だった。

2014年の年末、彼は風呂場でヒートショックを

引き起こしてそのまま死んだ。

 

それが事故死なのか自殺なのかは

今となっては誰にも分からない。

         

                     ブログ『グッデイ・グッバイ』を参照

 

土瓶に入った肉豆腐は、

最初はとても美味しかったのだが、

時間が経ったせいか、

今は牛脂が、つゆの表面に浮かんできている。

 

カウンターの向こうに見える厨房の

大きな鍋から湯気が立ち上り、

割烹着を来た料理人が長い木の棒で、

そうめんをすくい上げているのが見えた。

白くて細い、絹のような束は

店の柔らかいオレンジの照明に反射して、

黄金色に輝いて見えた。

 

私は焼酎の入ったグラスを傾けながら、

 

私『ナスタの髪も、あんな感じだったね。』

千秋『やめてよ、せっかくシメで頼んだのに

              食べづらくなるでしょ?』

 

私はそのまま、厨房の奥で湯気を巻き上げる

優しいナスタの面影を見つめた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         

                       〜ナスタへの手紙〜

 

『ナスタ、久しぶり。元気にしてますか?

   今年の日本は6月なのに雨も降らないで、

   夏みたいに暑いよ。

   きっと、梅雨が遅れてきてるんだね。

   

   ロシアはどう?

   きっと日本よりずっと涼しいだろうね。

   君が前に見せてくれたロシアの故郷の写真。

    たまに思い出して懐かしくなるよ。

    あの時は言えなかったけど、

    遠くに見える山の形とか、木の色とか、

    家と家の間隔とか、

    俺が生まれた所にすごく良く似てるんだ。

   きっと、山から吹いてくる風も似てるんだろうね。

 

    君が新宿駅前のガードレールに腰掛けてさ、

    確か俺は、その横で缶コーヒーか何かを

    飲んでたと思うんだけど、

    東から吹いてくる風に君のブロンドの髪が

    ふわっとなびいたんだ。

    俺、その時ね?

  『あっ、黄金の風が吹いた』と思ったんだよ。

     

    それがさ、ゴージャスとかじゃ全然なくて、

    それどころか、どこか懐かしいんだ。

    柔らかい手触りでさ、

    傷ついた心にまとわりつくように

    しっとりと俺を濡らすんだよ。

 

    たまに君のことを思い出して、

    あの新宿 駅前のガードレールに座ってみるんだ。

    夕方に、缶コーヒーを開けて

    ひとりで目を閉じて東風を待つんだけど

    あの『黄金の風』は、もう吹かないんだ。

 

    (中略)

    

    ねぇナスタ、俺はどうやって死ぬと思う?

    病気かな?それならまだいいな。

    誰かに殺されるのかな、嫌だな。

    きっと俺のことだから、自殺もあるだろうね。

 

   君はむかし、俺のことを

   『優しい人』だって言ってくれたよね。

   

  今でも自分がそうだって信じてる。

  でもね、俺はたまに、

  自分が誰だかわからなくなるよ。

  自分は何をしにこの街にいて、

  誰を愛していて、誰を憎んでいて

  自分が何をしたいのかも分からないんだ。

  自分の優しさを押し通す『強さ』みたいなものが、

  もう俺には、無くなっちゃったのかもしれない。

 

  不安にさせる事ばっかり言ってごめんね。

  でもどうか安心してほしい。

 

  俺は、何も変わってはいないから。

  君もどうか、あの日のままで。

 

 

                ブログ『from Russia with love』を参照

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ボーッとカウンターの向こうを見つめる私を

千秋がイラついた様子で小突く、

私はそれで我に返って、

また氷で薄まった焼酎に口をつける。

どうもこの焼酎『青鹿毛』の味は苦手だ。

 

私『たまに、生きてるのが不思議な時ってない?

      なんていうか、実感がないっていうか、

       理由もないままに、空虚っていうか…』

千秋『なに?辛気くさい話?

          やめてよね、こういう所でそんな話。』

私『…そうだね、ごめん。』

 

彼女はそう言って

氷で薄くなった焼酎を飲み干すと

黒いプラダの財布からカードを取り出し、

会計を済ませた。

 

f:id:seiteisama:20190710174207j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私たちは割烹『中嶋』を後にして

アテもなく歌舞伎町を奥に、

区役所方面へと歩いていった。

 

靖国通りの交差点で信号につかまる。

タクシーは右へ左へと走り抜け、

その奥のビル群に目をやると

ミスタードーナツカラオケ館など、

チェーン店のライトばかりが眩しく光る。

 

千秋は少し機嫌が悪いようだ。

たぶん、ナスタの話をしたからだと思う。

 

信号が青になって、私たちは歩き出す。

 

千秋『次は?どこいく?』

私『うーん、おまかせするよ。俺の金じゃないし』

千秋『あんたの誕生祝いなんだから、

          あんたが決めてよね。』

私『うーん、とりあえずHUBでさ、

      ビールでも飲みながら考えてみない?』

千秋『えー、HUB?うるさいじゃん…』

 

千秋は文句を言いながらも、

ヒールをコツコツと鳴らして私より前を歩いた。

 

区役所通りのHUBの店の前に着くと、

入り口の階段が目に留まった。

 

高いヒールを履いている彼女に

また階段を上らせてしまう、そう思った。

 

でもすぐに、そんなに紳士ぶる必要もないな。

と開き直った。

 

彼女は期待通り、

HUBの階段を大股でずんずん登っていく。

 

店内はやはり、大音量のBGMと

酔っ払った人々の声でガヤガヤと賑わっていた。

 

彼女の耳元で『俺、先に行って席とってるから』

と言い残し、ちょうど開いていた

樽で出来たテーブルの2人席に座る。

 

バーカウンターで飲み物を買う千秋を尻目に

天井から吊るされたテレビで

エンゼルスの試合を眺めていた。

 

同郷の同級生、大谷翔平

また今日もホームランを打ったらしい。

確か彼の誕生日は7月6日、

私の誕生日と半月も離れてない。

随分と差をつけられたものだと落胆する。

 

ドリンクを持ってきた千秋の姿を見て驚いた。

パイントグラス2つとタワービールを持っている。

 

私『そんなに飲むの?』

千秋『だって、あんたが何飲みたいとか、

         考えるのめんどくさかったんだもん』

 

千秋からタワービールを受け取り、

彼女のグラスに注ぐ、

タワービールの一杯目はこの時、必ずこぼれる。

これはある種、HUBでの『ご愛嬌』である。

 

彼女と再び乾杯して、

しばらくはお互いに黙って、

店内に流れるガヤガヤとした雑踏の中に、

身を任せていた。

 

彼女がタバコの箱から一本取り出して咥える。

私はライターでそれに火をつけた。

 

私も自分のタバコを咥える、

すると彼女がそれに火を付けてくれた。

 

2人の煙は混ざり合って、

茶色い木目の店内をゆらゆらとのぼり、

天井の1番暗いところまで行くと、

そこから先は見えなくなった。

 

千秋『生きてるのが不思議に感じる時

          私もあるわね、確かに』

 

私『な?千秋もあるだろ?

       生きてるなんて、誰に言われたからって

       納得するもんでもないしさ。

       だからさ、俺らたぶん実感が欲しいんだ。

       それは例えば、痛みとか罪悪感とか』

 

千秋『好きでもない男と寝たりした時なんて

          うわぁ気持ち悪いとか、そういう嫌悪感で

          最高に生きてる感覚があったりするわね。』

 

私『そうなんだよ、

      まるで痛みや嫌悪感を味わうために

      生きてるんじゃないのかってたまに思うよね。』

 

千秋『だからって、死ぬ意味も分からないの。』

 

私『そうなんだよ、だから俺、時々ふと

       あいつらを殴ってやりたい時があるんだ。

      『なんで死んだんだ!』って、

       思いっきり殴ってやりたい時があるんだ。』

 

千秋『松田なんかは、

          もう一回轢き殺してあげたい気分よ。』

 

私『ほんとだよね、』

 

気づけばタワービールはもう半分無くなっている。

さすがの千秋も少し酔っ払ってきたようで、

私の足を台がわりにヒールを乗せて

くつろいでいるのだが、これが少し痛い。

私もだいぶ酔いが回ってきたのか、

なんとか黙って耐えていた。

むしろ、朦朧としてきた意識を、

その痛みで覚ましていたのかもしれない。

 

私『ねぇ千秋、俺はね?

       とにかく、死にたくないんだよ。

       どんなに痛くても、辛くても、苦しくても、

       それでも生きていたいんだよ。』

 

千秋『うん、分かってる。』

 

私『そう、ならいいんだけど。』

 

彼女は椅子の下にある足掛け用の金具に

ヒールを叩いてカンッカンッと鳴らしている。

 

これは彼女が酔っ払ってきた合図なのだが、

それは蛇の威嚇にも似ている。

 

前から思ってた。

彼女、きっと前世は蛇なんだ。

 

愛するものを絞め殺すまで抱きしめて

動かなくなったそれを哀しい顔で丸呑みにする。

最後には、何を愛していたのかも忘れて。

 

私もいつか、丸呑みにされて

忘れられてしまうのだろうか。

 

私が『酔ってきた?』と聞くと、

彼女は、また蛇のように細い舌を

ベェーと出してごまかした。

 

その後も取り留めもない話や

収集のつかない精神的な話をしながら

タワービールをなんとか飲みきった。

 

彼女は座っていた丸椅子を私の方に寄せて、

私の右肩にもたれ掛かかると

ビールがこぼれたままの

私の太ももをさすっていた。

 

 

 

2人で席を立ち、店の玄関を抜けると、

彼女はヒールをぐらぐらさせながら、

ふらつく足で、下り階段の方へ歩いていく。

 

私が『千秋、危ないよ』と後ろから呼び止めると、

彼女はくるりとこちらに向き直り、

私の首に両腕を回してもたれるように

抱きついてきた。

 

階段前の踊り場にたむろしていた

酔っ払いの外国人グループに

囃し立てられながら、彼女を受け止め

ワイシャツ越しに彼女の胸の膨らみ感じていた。

 

『大丈夫?歩ける?』と私が聞くと

彼女は何も言わず、頷いた。

 

彼女が階段で転ばないように、

腰に手を回して身体を支えながら

ゆっくりと階段を降りた。

 

ちょうど空車のタクシーが来たので、

それに彼女と乗り込んだ。

 

f:id:seiteisama:20190712035803j:image f:id:seiteisama:20190712035813j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

時刻はすでに12時を回っていた。

タクシーの車内で、

『ねぇ千秋、どうする?帰る?』と私が聞くと

『どこに?』と彼女が言う。

 

どこにも何も、家に帰るしかないだろう。

それかホテルに泊まるか、

彼女はどっちがいいだろうと考えていると突然、

 

『やっぱり降ります』と彼女が言った。

 

タクシーのドアが開く、

車内のフロントミラーの奥からは

タクシーの運転手が迷惑そうな顔で

こちらを睨んでいた。

私は『すみません』とだけ言ってタクシーを去る。

 

千秋はさっきまでの酔いが嘘のように、

歌舞伎町を奥へ奥へと進んでいく。

 

私『待ってよ千秋、

       どこか行きたいところでもあるの?』

 

彼女はそれでも何も答えず、

ヒールをぐらつかせながら、

職安通りの坂もまっすぐ進んでいく。

 

私も半ば呆れながら、

ポケットに両手を突っ込んで、

彼女の5メートルほど後ろをついて行った。

 

私『本当に、昔から勝手だよねあんたは。』

 

つい、ぽろっと出てしまった。

でも彼女は気づいていないみたいだ。

たまに『ねぇ千秋!』と呼んでも

彼女はコツコツとヒールを鳴らして歩くだけで、

こちらに返事もしない。

 

一方的に私が呼びかけてるうちに、

いつのまにかそれは、心の中の独り言になった。

 

『ねぇ千秋、そのワンピースいいね。

   ちょっと短すぎるけど、どこで買ったの?』

 

『髪色かえた?その色の方が似合ってるよ。』

 

『今度さ、ディズニーの映画、あれ観にいこうよ』

 

『そういえば、太もものタトゥーの事だけど、』

 

『最初に出会った日のこと、本当にもう忘れた?』

 

『ねぇ千秋、あんたもいつか、俺に飽きるの?』

 

『ねぇ千秋、いつまで俺と一緒にいてくれる?』

 

心の声は彼女に伝わるだろうか。

いや、伝わらない方がいい。その方がいい。

そんな事を心の中で思いながら

振り返らない彼女の後を付いていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

突然、彼女が振り返ってこちらを見る。

 

『どうしたの?』と聞くと、

彼女は何も言わずに、

そのまま雑居ビルの中へ入っていった。

 

仕方なく私もついていくと、

彼女はエレベーターに乗り込み

五階のボタンを押した。

 

梅雨のムッとしたエレベーターの中は、

呼吸するのがもったいないくらい

歌舞伎町の淀んだ空気が充満していた。

 

こうして2人で立っているだけで、

ジメッと汗をかきそうだ。

 

エレベーターを上がると、

髭の生えた黒人が頰を膨らませながら

年季の入ったサックスを咥え、

ほわんと丸い音でジャズを奏でていた。

店内は暗く、間接照明が照らす先には

多種多様の酒瓶が棚に並んでいた。

そこは確かにバーのようだった。

 

彼女はカウンターの奥から2番目の席に座った。

私も彼女の左側に並んで座った。

バーテンダーが近づいてきて

『お飲み物は?』と私たちに尋ねる。

 

千秋『マティーニを』

私『じゃあ、バランタイン12年。』

 

私たちのカウンターの前に並べられた

その二つは、もうそれだけでいかにも

『男』と『女』の酒といった感じだ。

 

千秋はバーに来てマティーニを飲むのが、

『いい女』だと信じて疑っていないらしい。

 

だから私も必要以上に男くさい酒で応戦した。

本当はジンとかが飲みたかったのだが。

 

千秋は何をイライラしているのか、

『なんか話して?』といった感じで、

バーカウンターに片肘をついて、

片目でこちらを見ている。

 

私『そのワンピースどこで買ったの?』

 

千秋『…。』

 

私『髪色、暗くした?そっちの方が似合うよ。』

 

千秋『…。』

 

私『これからどうしたい?』

 

千秋『…これから?』

 

私『そう、これから。

      今晩のこれからもそうだけど

      もっと先のこれからのこととか話したいな。』

 

千秋『知らないわよ、成り行きでしょうね。

          いつもみたいに。』

 

私『うーん、成り行きねぇ。』

 

千秋『なに?まずい事でもあるの?』

 

私『最近ね?思うんだ。その成り行きってヤツで、

      今度はあんたまでいなくなったらって考えると、

      もう不安なんだよ。ごめんね、変だよね。』

 

千秋『…別に、どこにも行ったりしないわよ。

          なに?もしかして結婚のお誘いとか?

          こんな酔っ払ってる時はやめてよね。』

 

私『そういうんじゃないんだけどさ、』

 

千秋『そもそも付き合ってるの?私たち』

 

私『あんたにそれ言われると、弱っちゃうな。』

 

千秋『なんか不安でもあるの?最近。』

 

私『だってみんな、いなくなっちゃうから

      ミッキーも松田も、ナスタも、リリィだって…』

 

千秋『うーん、確かにね。

          でも前半の2人は死んじゃったけど、

          後の2人はまだ世界のどこかにいるのよ?

           別に一生会えないって訳でもないでしょ。』

 

私『そうだけど、でも俺から離れていったよ。』

 

千秋は『バカバカしい』と言わんばかりに、

マティーニの中に入っていた

オリーブの実をガブッとかじった。

 

私もアーモンドを一つかじって、

ウイスキーを勢いよく飲んだ。

 

そこで自分がだいぶ酔った事に気が付いた。

 

最近、どうも酒に逃げてしまってだめだ。

『言いようのない不安』から逃げたくて、

ワケが分からなくなるまで酒を飲んでしまう。

でも、そうやって飲めば飲むほど、

その不安は鮮明になって浮かび上がり

その不安は巨大になって、私を押し潰そうとする。

 

今日はそうなりたくなかった。

千秋が隣にいてくれるから、大丈夫な気がした。

 

でも、それももう遅いかもしれない。

 

 

私が恐れていた『耳鳴り』がやってきた。

 

 

近頃、こいつによく悩まされる。

最初は『ポーー…』という具合に、

放送を休止した深夜のテレビみたいな音なのだが、

その音がだんだん大きくなる。

徐々に、確実に、無限に、

その音は大きくなっていく。

最後はもう、港で大型客船の汽笛を

至近距離で聴いてるみたいな暴力的な音量で、

周りの音は、なにも聞こえなくなる。

 

ふと隣を見ると、

千秋が何やら心配そうな顔で

何かを私に話しかけているが、

もはや私の耳には何を言っているのか分からない。

 

突然、眼球に黒い幕が貼られたみたいに、

目の前が真っ暗になった。

 

まだ目は開いているはずなのに

私にはもう、何も見えない。

 

バーカウンターに突っ伏した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

気がつくと私はまだ、さっきと同じバーにいた。

少しの間、カウンターに突っ伏して

眠ってしまっていたらしい。

 

むくっと身体を起こすと、

隣の席では千秋がスマホを観ながら

赤ワインを飲んでいる。

 

私『少し寝ちゃってたみたいだね』

 

千秋『そうよ、大丈夫?お水もらっといたから』

 

私の前にはグラスに入った水が置かれていた。

それを少しずつ飲みながら、

私『千秋は、赤ワインにしたの?』

千秋『そう、女はワインなの。』

 

彼女はそう言うと白い歯を見せて笑った。

しかし、その目の奥には若干の曇りがあった。

やはり彼女は、さっきの私の姿に、

何かを感じ取ってしまったようだ。

 

私は話題を変えた。

 

私『女はワイン。っていうけどさ、

      ドイツ語ではワインは男性名詞だよ?』

 

千秋『あらそうなの?だったら尚更、

        つじつまが合うじゃない?

        女だから、ワイン(男性)を求めるのよ。 』

 

私『…そんなこと言い出したら、

      なんでもありになっちゃうじゃん。』

 

千秋『バーカ。私の勝ちね。』

 

彼女は笑いながらワインを飲み干した。

私を気遣って、無理に明るく振舞ってくれていた。

 

ふと、カウンター正面のボトル棚に目を向ける。

 

世界中から集まった色とりどりのボトル、

その中でも今日はなぜか、

『Maker’s Mark 』のボトルに目がいく。

 

いや、正確にはそのボトルではなく、

赤いキャップの部分に目がいく。

 

赤いキャンドルを溶かして

ボトルキャップにフタをしてある

あの赤いキャンドルのドロっとした滴りが、

今日はどうしてか、何度見ても怖い。

 

私の中で眠っていた

『赤黒い記憶』を呼んでくる。

 

幼少期にレイプされた記憶は、

精神の発達に障害をもたらすらしい。

 

私の場合、それほど当時の記憶に

固執しているわけではないが、

それでも『年上』の『女性』から出る

あの『黒い悪意』と『赤い性欲』が

煙のように混ざって彼女らの顔や身体から

立ち上っていたのを、ぼんやりと覚えている。

 

これが私の『赤黒い記憶』の正体である。

 

今はとにかく、『Maker's Mark』の

赤いキャップが怖かった。

 

赤ワインすら、もう見たくなかった。

そんな時に千秋がバーテンダー

『赤ワイン、同じものを!』と言ったものだから

私はたまらず『もう出よう。』と言い残して

そのバーをあとにした。

 

f:id:seiteisama:20190926182245j:image 

f:id:seiteisama:20190926182250j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私は近くのローソンで、

IWハーパーの小瓶を買い、

店の前の青い蛍光灯の下でタバコを吸っていた。

 

今は何故か、青が優しく見えた。

自分の蒼白さを隠すためだったのかもしれない。

 

バーの支払いを終えた千秋が

ヒールをコツコツ鳴らして、こちらへ歩いてきた。

 

千秋『もう、どこ行ったのかと思ったじゃない!』

 

私『あぁ悪かったよ。でも、よく見つけたね。』

 

千秋『大体予想はつくわよ。またお酒買ったの?』

 

私『あぁ、少しね。飲む?ウイスキーだけど』

 

千秋『いらない。ウイスキー嫌い。』

 

彼女はそういうと店の中に入り、

スミノフのグレープを買ってきた。

 

私も革靴の裏でタバコを消して、小瓶を片手に

歌舞伎町の繁華街の方へ歩き出す。

 

彼女もスミノフを飲みながら

私に追い付いて、しばらくは腕を組んで歩いた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホスト街の坂を下って、

叙々苑『幽玄亭』まで来たあたりで、

何やらガヤガヤと人だかりができていた。

 

ふと私たちが空を見上げると、

自殺の名所『第6トーアビル』がある。

 

f:id:seiteisama:20200106211700j:image

 

西洋のお城をイメージして作られた

このラブホテルは、毎晩ホストと

その客の女で賑わっている。

 

有り体に言えば『痴情のもつれ』だが、

やはり飛び降り自殺も後を絶たない。

 

ホストに騙された女たちは着飾り、

このホテルの屋上に上がる。

『最後は綺麗な格好で死にたい』

そんな思いで、あの屋上から飛び降りる。

 

蝶のように、ひらりと宙を舞って…

 

だが私の知る限り、

そんな綺麗な飛び降り方をした女は1人もいない。

 

足が離れるまでは、どの女も気丈だが

問題は、体が宙に浮いた瞬間だ。

死への恐怖と、生への執着で

手足を蛾のようにバタバタさせながら

そうやって醜く落下していくのが常だ。

 

我々が考えるほど『美しい死』は甘くない。

 

今日も1人の女が、

歌舞伎町の大観衆が見上げる先にいた。

 

白のネグリジェ姿に、

ひらひらとしたシースルーの白い羽織。

 

私から言わせれば、あれはもう完璧に

『飛ぶまでは蝶だと思ってる』パターンである。

 

私『あぁ毎年、梅雨の時期は自殺が多いもんな』

千秋『ほんとやだ、見たくない。』

 

屋上でその女の後ろにいる

パンツ一丁のホストらしき髪型の男は、

かろうじて立ってはいるが、

足がすくんで動けない。といったところだ。

 

屋上には警官も2人ほど待機して、

彼女の激情を煽らないよう、

穏やか且つ大きな声で、必死の説得を試みていた。

 

千秋『どう思う?あの女』

私『んーまぁ、ホストに騙されて、

      金が払えなくなったから自殺なんだろ。』

千秋『そうじゃなくて、

          本当に飛び降りると思う?』

私『あぁ。んー、どうだろ。』

千秋『なんか、本気っぽいわよ?見た感じ。』

 

確かに、こういう現場は何度か見てきたが

結局、飛び降りないと言うパターンも半々である。

しかし今回に関しては

千秋の言うとおり、あの女は本気らしく思えた。

 

観衆全員が顔を空に向け屋上を眺めている最中、

私は何故か、足元が気になった。

 

そこには一匹の『蛾』がいた。 

先ほどの飛び降り女達の例えなどではなく、

 

灰白色をした、本物の気持ち悪い蛾がいた。

 

片羽を鳥にでもついばまれたのだろうか、

羽が生えていたところからは液が漏れ、

ドロっとした臓器らしきものが飛び出している。

 

これはもう助からない。

この人混みの中で、誰かに踏まれて終わりだ。

 

蛾はそれでも、生きようとしていた。

華奢な手足を必死に動かして、

仰向けになった状態を何とか立て直そうとするが、

もはや自力では起き上がれない。

 

憐れだった。

もう見ていられなかった。

 

私は持っていたウイスキーの小瓶を傾け、

『もうおやすみ』と言って、

アルコール40度の燃えるような茶色い液体を、

足元の蛾にかけた。

 

ウイスキーまみれの蛾は、

少しの間ジタバタともがいた後、

それっきり動かなくなった。

 

そうして私は、蛾を殺した。

生きようと強く望んでいた、蛾を殺した。

 

いつか、子供の頃に読んだ

ブラック・ジャックの言葉を思い出す。

 

『あんた、人間が人間を裁くと言ったね、

   果たして人間は、動物を裁く権利があるのかね。』

 

確かに、この蛾を放っておいたところで、

助かる見込みは、万に一つもなかっただろう。

 

でも蛾を殺したのは私だ。

まだ生きようと強く願い、もがいていた蛾を、

『苦しんでる姿を見たくない。』

という身勝手な理由で、殺した。

 

蛾は、自分の死因を理解しているだろうか。

 

浴びせられた液体の味を覚えているだろうか、

 

そもそも、自分の羽をもいでいった

鳥の姿すら忘れているかもしれない。

 

きっとこの蛾は、

自分が何に殺されたのか分からぬままに死んだ。

 

ただ、死んだのだ。

 

私は今この瞬間に罪を背負った。

そして、この罪を一生引き受けていこうと思った。

 

俺はこの蛾のようには死にたくない。

同時に、強く心に思った。

 

私はそうして、自分自身に誓うように、

蛾にかけたウイスキー

同じだけの量を自分の口に流し込んだ。

 

口からウイスキーが溢れて、鼻の奥に入る。

脳髄に激痛が走る。

蛾も、こんなに痛かったんだろうかと思った。

 

千秋『ちょっと、大丈夫?』

私『うん、あーいってぇ…。でも大丈夫だよ。』

 

再び屋上を見上げると、

飛び降り女はまだ自分が蝶だと

思いこんでいるようで、

屋上の端にとどまっている。

 

千秋『ねぇ、どうなると思う?』

 

私『うーん…』

 

千秋『なんか私、あの女、

         本当に飛び降りそうな気がしてきた。』

 

私『きっと助かるさ』

 

千秋『はぁ?『助かる』?助かるって何よ、

          あの屋上、何メートルあると思ってんの?』

 

私『恐らく飛び降りると思う。でも…』

 

千秋『でも…?』

 

私『きっと助かるよ』

 

千秋『…どうして?』

 

私『絶対に死んでほしくないから。』

 

千秋『バカじゃないの?

          答えになってないわよ。』

 

その瞬間、歌舞伎町の全体に

どよめきにも似た嬌声が上がった。

 

私たちが屋上を見上げると、

シースルーの羽織は、ひらりと宙を舞っていた。

 

千秋はとっさに、私の胸元に顔をうずめる。

私も彼女の頭を胸に抱き寄せた。

 

女は確かに飛び降りた。

 

が、屋上からワンフロア下で

警察官が用意していた緑色のネットに

絡まって、辛くも助かった。

 

虫取り網にかかった女蝶が暴れている。

そのまま警察官に窓の中へと引きずりこまれ、

そこから先は見えなくなった。

 

刺激に心を毒された周囲の若者達からは、

『なんだよ、つまんねぇな』や

『余計なことすんなよ!』などの

心ない罵声が第6トーアビルに浴びせられる。

 

千秋はやっと私の胸元から顔を上げて、

『助かった…の…?』と私に聞く。

 

私『あぁ、助かったよ。』

 

千秋『そう…よかった。』

 

私『な?だから俺は言ったんだ。

      あの女は「助かる」って。』

 

千秋『たまたまでしょ?威張んないでよね。』

 

私『確かにそうかもね、でもね千秋?

      誰かが強く、助けてあげたいと願ったから、

      あの女は助かったんだよ。そういうもんなんだ』

 

千秋『はいはい。』

 

私はまた、足元の蛾に目をやった。

やはりビクとも動かない。

 

悲しい気持ちになった。

 

そうして私は、

半分残ったウイスキーを一息に煽った。

同時に、ガツンという衝撃が頭に走る。

 

遂に酒が限界量を超えたのだろう。

 

またあの『耳鳴り』がやってきた。

 

千秋は少しホッとしたのか、

笑みを浮かべて私に何かを話しかけている。

 

でも、私にはもうそれが分からない。

見えない大型客船の巨大な汽笛の音に遮られ、

今は何も聞こえない。

 

歌舞伎町の見慣れた景色が波打って見えた。

 

体の芯は凍えるように寒いのに、

皮の下一枚のところが、焼けるように熱い。

人間が電子レンジに入れられたら、

きっとこんな感じなんだろうか。

 

排気ダクトから出る、汚い温風に耐えられない。

 

遂に、完全な酩酊状態に陥ってしまった。

今日はこうなりたくはなかったのに、

 

私『千秋、俺はどこか森へ行きたいよ。

      涼しいところへ行きたいんだよ。』

 

彼女は怪訝そうな顔で、

私に何かを言っているのだが、

やはり私には分からない。

 

私『千秋、俺は涼しいところがいいよ。

      きっと俺はそこで生まれたんだ。

       そこに帰りたいよ。』

 

耳の中で絶え間なく鳴り続ける汽笛の暴音の中で

心配した彼女が手を差し伸べてくる。

 

彼女の手が私の手に触れる。

 

私には、その手が熱くてたまらない。

 

彼女の手を振りほどいて、

歌舞伎町を東へ、花園神社がある方角へと

大股でずんずん歩きだす。

 

彼女は追いかけてくるだろうか、

いや、もう追いかけてこなくてもいい。

そろそろ彼女の愛想も尽きる頃だろう、

みんなそうやっていなくなればいい。

とにかく私はもう、涼しいところへいきたかった。

 

f:id:seiteisama:20191228090146j:image

 

気がつくと、ゴールデン街付近の

新宿遊歩道『四季の路』まだきていた。

 

新宿のビル群の中でここだけ、

澄み切った空気とまではいかないが、

静かで涼しい。

 

確か、近くに小さな川があったはず、

そこにいこうと思った。

 

やはり記憶は確かで、

足元まで浸かれる小さな川があった。

 

私は革靴のまま、その中へ入っていく。

もう服が濡れようが関係なかった。

両膝をついて、両手もついた。

 

梅雨の時期を流れる小川の水は冷たく、

焼けるように熱かった私の手足を

ゆっくり冷やしてくれた。

次第に洗面台で顔を洗うみたいに、

手で水を救っては、顔にかけていた。

 

遂にはそれだけで我慢できず、

流れる水に直接、顔をつけるようになった。

 

私の中の『怪物』が、

もう既に、目を覚ましていた。

 

昔から、自分の中には怪物がいると思っていた。

他人に言われたことさえある。

 

生まれてからずっと、

何をやっても周りの人間より出来た、

大した努力をしなくても、成功を手にしてきた。

 

確かに、それなりに厳しい環境に身を置いてきて

それなりに努力もしたように思うが

周りの連中より努力したかと聞かれると、

とてもじゃないが恥ずかしくて答えられない。

 

その『怪物』も尋常時には、

私を大いに助けてくれたが、

もし、本当に大事な時がきたら、

何も助けてくれないのではないか?

という不安が子供の時からずっとあった。

 

私がもし大人物になれないとしたら、

それはきっと、この『怪物』のせいだろう。

 

この怪物が、私の成功への努力を妨げる。

この怪物が、小さな喜びだけを

私に与えて甘やかすものだから、

いつまでたっても大きな喜びにたどり着けない。

 

その怪物を窒息死させるように、

しばらくは顔を川の水につけていたが、

やはり息が苦しくなって顔を上げてしまった。

 

だいぶ川の水を飲んでしまったのだろう、

うまく呼吸ができない。

 

ゼェゼェと荒い息をしながら呼吸を整える。

 

目の前にあった水の波紋も、

徐々に穏やかになってきた。

 

私は破裂しそうなアルコール頭痛と、

鳴り止まない耳鳴りのなかで、

 

遂に、生まれて初めて

その怪物の顔と向き合った。

 

 

水面に映った『怪物』は、

悲しいほどに、自分と同じ顔をしていた。

 

 

ふと、奥の排水パイプの穴が気になる、

目を凝らすと、その暗い水の先に、

死んだはずのミッキーがいた。

 

その後ろには松田もナスタも、リリィもいた。

 

何か硬そうなものが、石だろうか、

私の近くに飛んできて、

ピチャっとしぶきをあげ、水の中に沈む。

 

誰かが小石でも投げたのだろう。

何が飛んでこようと知ったことか、

私は再び、排水パイプにいる彼らに近づいていく。

 

私はとにかく嬉しかった。

彼らのところに行きたかった。

 

しかし、流れる水の奥に見えるミッキーは、

悲しそうな目で黙ってこちらを見てるだけで、

笑ってはくれない。

後ろの3人に目をやっても、笑ってはくれない。

 

その瞬間、私は後ろから

カバンらしきもので頭を叩かれた。

私を殺しにきているような凄い力だ。

 

頭を抑えながら振り向くと、千秋がいた。

 

彼女はヒール靴のまま、小川の中に入ってきて

仁王立ちのまま動かない。

 

彼女の真珠の耳飾りは片方だけになっていた。

どこかで落としたのだろうか。

 

ふいに、耳鳴りが止んだ。

 

私『だいぶ怒ってるね?』

 

千秋『…何してんのよ…』

 

千秋の声が震えている。

彼女が可哀想だと思った。

まだそんなつまらないところにいるのかと思った。

 

私『見ろよ千秋、ミッキーがいるんだよ!

       ナスタも松田も、みんないるんだよ!』

 

千秋『何わけのわからないこと言ってんのよ…、

          もういい加減にしてよ!

          そんなのいるわけないでしょ!』

 

私『本当なんだよ、ほら!みんないるだろ?

      ここだよ!千秋!お前、見えないのか?!

       俺はあそこに行くよ。この奥に…』

 

『パンッ!』と大きな音がした。

 

続けざまに、ジーンとした鈍痛が頬に込み上げた。

 

彼女が私の頬をぶったらしい。

 

彼女は何も言わずに、もう一回、二回と

何度も何度も私の頬をぶった。

 

彼女の指輪で、口の中を切ったようで

口の中から、痛みと赤い血の味が広がっていく。

彼女の手の指輪をよく見ると、

私がいつかのクリスマスにあげた指輪だった。

 

千秋『もういい加減にしてよ!!

          ねぇリョウ、言いたくないけどね。

          あなた、とっくに病んでるのよ…、

          それが分からないの?!

          もうすっかり狂っちゃってるのよ!

          可愛そうに…こんなに震えてるじゃない!

         あれから色んな人があなたから離れていって…

         自分では大したことないって思ってるくせに、

         心の中では、もう耐えられなくなってるの!

         あなた…ずっと前から、もうボロボロなのよ!

          可愛そう…あなたが可愛そうなの…』

 

千秋は握りこぶしで私の胸を叩きながら、

頭をうなだれて、遂に泣き出してしまった。

 

私『どうして千秋が泣くんだよ…。

       悲しいのはこっちなんだよ…?

       俺は殴られたところだって痛いのに、

      どうして、殴った千秋が泣くんだよ…

      俺が、女のあげる金切り声が一番嫌いだって

      あんたもよく知ってるだろ?

      分かんないよ、昔からずっと分かんない。

      何考えてんのか分かんない女だなぁって、

      俺、いつもそう思ってる…。

         

         でも…、なんでだろ。

        そうやって泣いてるあんたを見てると、

        なんだかこっちまで泣きたくなるんだよ…』

 

千秋『ねぇリョウ。あなた、もう限界なのよ…

          だからこれ以上強がっちゃダメ。

          これ以上、強いふりしたり、

         自分を大きく見せようとしちゃダメなの。』

 

私『わかったよ…悪かった。

      ねぇ千秋、泣かないでよ。』

 

私がそう言ったのを聴くと、

彼女は握った両拳をそっとほどいて、

私の両手を握った。

 

焼けるように熱かった身体はとっくに冷めて、

彼女の暖かい手も、もう不快には感じなかった。

 

私『ごめん、もらったネクタイ。濡れちゃった、

      千秋もヒール、濡れちゃったよね。ごめんね。』

 

彼女は黙って涙を拭くと、

そのまま私の手を引いて、小川の外に出た。

少し歩いたところにあった、

派手な衣料品を売っている店で

彼女は新しくヒールを買った。

f:id:seiteisama:20191228092535j:image

びしょ濡れのままの私は、

そのまま店の外に突っ立って、

不恰好におりた前髪を、後ろにかきあげていた。

 

千秋に促されるまま、タクシーに乗せられ

近くのホテルへと向かった。

 

その間も、彼女はずっと

私の右手を握っていてくれた。

 

この夜。

ずっと見ないふりをしてきた、

私たちの間の『何か』が壊れてしまった。

これから先はもう、どうなるか想像もつかない。

 

私は冷房の効き過ぎたタクシーの窓に額を付けて、

流れていく歌舞伎町の白々しく灯ったネオンを

ただ、ボーッと眺めているだけだった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

f:id:seiteisama:20191228090222j:image

 

南国リゾート風のカーテンが、

エアコンの風にたなびく部屋で、

気がつくと私は2人がけソファに座っていた。

千秋はどこに行ったのだろう。

 

彼女が最後の頼りだったのに…

 

そう思った瞬間、彼女がバスルームから出てきた。

鏡で化粧を直していたらしい。

口紅のルージュはまだ油っ気をもって、

スイートルームの間接照明に照らされている。

 

さっき遊歩道で見てた時より

なんだか綺麗になったような気もする。

 

『化粧でも直したの?』

 

私がそう聞くと、彼女は口を尖らせた。

彼女はいつの間に買ったのか、

ペットボトルの水を持って

私の座っているソファに来た。

 

千秋『ほら、お水。飲みたいでしょ?』

私『うん、ありがと』

 

彼女からペットボトルをもらって

自分で飲もうとするが、

まだ酔いが残っていて手元が震える。

 

ワイシャツに水をこぼしてしまった。

 

千秋『もう、何してんのよ…まだ冷めてないのね』

 

彼女は私の胸元に手をかけ、

ワイシャツのボタンを一個ずつ外していく。

私の胸元を広げ、近くにあったタオルで拭いた。

ついでに私の口元を拭いた時、

タオルからは南国の香水の匂いがした。

 

千秋『ベルトもはずすよ?お風呂入るでしょ?』

私『うん』

 

千秋に促されるまま、

私はパンツだけを残して裸になってしまった。

 

そのままソファに座って、

ぼんやりホテルの室内を眺める。

 

部屋の中央には

クイーンサイズはありそうな大きなベッド。

その上には、千秋の黒いバッグが

投げ捨てるように置いてある。

 

ベッドの上には南国リゾートでよく見かける

シースルーの天蓋がついてあり、

ゆらゆらとエアコンの風に揺れていた。

 

窓の外に目をやると、少し遠くに

TOHOシネマズのゴジラタワーが見えた。

 

千秋はバスルームの方に行ってしまって、

そちらでは何やら蛇口をひねる音がする。

どうやら風呂を沸かしてくれているらしい。

 

私はソファに座って

ペットボトルの水を飲みながら

彼女のことを考えていた。

 

千秋は、一体いつから

私の異変に気付いていたのだろう。

 

彼女、本当はお金が大好きなはずなのに、

どうして、金のない俺なんかのそばに

ずっといてくれるんだろう。

 

唐突に、彼女に会いたくなって、

『ねぇ、千秋』と小声で呼びかけるが、

バスルームの水音で私の声は届かないらしい。

 

彼女が風呂場から戻ってきた。

 

千秋『お風呂、沸かしておいたから。

           あと2、3分で入れると思う。』

 

私『ねぇ千秋…俺のことどう思ってる?』

 

千秋『どうしたの急に?』

 

私『俺いままで、

      あんたのこと避けてたんだと思う。

      なんか、心の底を見られるのが怖くて…

       たしかに頻繁に会っていたけど、』

 

千秋『表面的にしか接してこなかったって?』

 

私『そう…ごめんね』

 

千秋『いいのよ、私もあんたのこと

          でっかいワンちゃんぐらいにしか

           考えてなかったから。』

 

私『でっかいワンちゃん?』

 

千秋『そう、お財布ちらつかせれば

       いつでも一緒にお酒飲んでくれるワンちゃん』

 

私『それもひどいな』

 

千秋『でもね?誰でもいいわけじゃなくて…』

 

私『うん』

 

千秋『誰でもいいわけじゃなくて…』

 

私『どこかで俺のことが好きなんでしょ?』

 

千秋『そう、なんだ分かってるじゃない。』

 

私『分かるよ。俺も、そうだから。』

 

恐らく千秋もそうなんだろうが、

世の中には、

『自分が好意を向けなくとも

   自然と異性から好意を向けられてきた。』

という人種が必ず存在する。

 

彼ら彼女らは、ボクシングでいうところの

ヒットアンドアウェイのスタイルで立ち回る。

 

クールに交わして無愛想に振舞って、

これは絶対に決まるというところで

必殺の一撃をお見舞いする。

 

それが一番ラクで、なおかつ勝てる。

それは生きていく中で自然と身についてくる。

 

しかし、そういったタイプの人間に

例外なく言えるのは、

打たれ弱い』ということである。

 

本当は相手のパンチが

怖くて怖くて仕方がないのだ。

 

自分のエリアに入ってきて、

カウンターも恐れずに強打を連打してくる

インファイターが怖くてたまらない。

 

私も千秋も、打たれ弱いアウトボクサーだろう。

 

そんな2人だから、

これまでずっと

お互い興味ないふりをしてきたし

たまにどちらかが踏み込んできても、

上手く交わして、すぐに距離を取る

そんな事を、もう何年も繰り返してきた。

 

世の中の人はすぐ『恋愛巧者』だとか

そんな言葉を持ち出すが、

我々のような人間から言わせれば、

恋愛巧者などという人種は存在しなくて、

『真っ直ぐに勝負できる人間』と

打たれ弱い臆病な人間』がいるだけだ。

 

臆病者2人が立つ恋愛のリングは、

観客からも見るに耐えなかっただろう。

 

そうだ『リング』で思い出した。

 

私『さっきあんたの指輪で、

       口の中切っちゃったよ。』

 

千秋『あらそうなの?ごめん。』

 

私『いいけどさ、まだつけてたの?その指輪。』

 

千秋『なに?気付いてたの?

           もう忘れてるかと思ってた。』

 

私『覚えてるよ。2014年のクリスマスにあげたんだ

       新宿のマルイで買った。

       確か2万円もしなかったと思う。

      安物で悪かったね。

      あの頃はなんも知らなくてさ』

 

千秋『いいのよ。言わなきゃ誰も分かんないし』

 

千秋はティッシュで指輪を拭いている。

白いティッシュには、

うっすらと血の赤が見えた。

 

ふと彼女の全体に目を向けると、

さっきまで来ていたワンピースを脱いで、

上半身はブラジャーだけになっている。

パンツはたぶん履いているみたいだ。

 

千秋『ごめんね。口の中切っちゃった?

           痛かったでしょ。』

 

彼女の声色が急に色っぽくなる。

私の左肩に胸の膨らみ押しつけながら、

白い手を私の赤みを帯びた口元へ伸ばす。

 

キスしようとしてるのが、すぐに分かった。

私はすぐに自分を守るように

 

私『お風呂、もう沸いたんじゃない?』

千秋『…そうね。お先にどうぞ?』

 

また彼女が距離を詰めてくるのを

かわしてしまった。

せっかく彼女が歩み寄ってきてくれたのに、

 

脱衣所でパンツを脱ぎ、

シャワーも浴びず、バスタブに浸かった。

 

f:id:seiteisama:20191228090451j:image

 

恐る恐る、口元をお湯につける。

やっぱり。電気が走ったように痛い。

 

何度か同じことを繰り返して、

やっと頭の先まで湯船に浸かった。

 

湯船の中、鼻から息をぶくぶく吐きながら

少しの間『怪物』のことを思い出していた。

 

あの怪物は、結局何なんだろうか。

『周りからの期待』と『不甲斐ない自分』との

軋轢によって生じた『何か』

 

うーん、なんか違う気がする。

 

自分の心の奥にある、『自己愛』と

『努力したことがないコンプレックス』が

お互いに矛盾しあって、酒に引火して爆発した。

 

こっちの方が近いような気がする。

 

湯船からザパッと顔を出すと、

裸にタオル一枚の千秋がいた。

 

彼女も驚いたようにこちらを見ている。

 

千秋『なにしてんの?潜水の練習?』

 

私『あ、いや別に。

       千秋こそ、どうしたの?一緒に入るの?』

 

彼女は何も言わず軽くシャワーを浴びて、

同じ湯船に入ってくる。

昔より少しだけ女性らしい丸みを帯びた

彼女の身体を新鮮な気持ちで眺めた。

 

あと彼女の下半身には毛がない。

脱毛にもかなり金をかけたと聞いた事がある。

 

薔薇のタトゥーはやはり、彼女の右腰にあった。

 

 

大人2人が入っても充分な広さの

スイートルームのバスタブは、

横にあるボタンひとつで

色とりどりのライトに切り替わる。

 

バスルームの明かりを落として、

プラネタリウムのような風呂に2人で浸かる。

 

酔っ払っているのもあって、

今日は一段と幻想的に見えた。

 

千秋とくるのは初めてではないが、

いつもシャワーで済ませるので、

こうして湯船に入るのは初めてだった。

 

最新式のバスルームは音楽まで流せるらしく

千秋はボサノバのMIXをチョイスした。

 

彼女が背中からもたれかかってくるので、

私も彼女を後ろから抱きしめた。

 

千秋は比較的スリムな体型だが、

どうしてこんなに柔らかいのだろう。

 

適温に保たれた湯船の中にあっても、

彼女の体温が一番心地よいのが不思議だった。

 

2人とも、しばらくは無言で、

暗闇で極彩色に光るプラネタリウム

流れるボサノバに身を預けていた。

 

私は彼女の腹から胸へと手を伸ばし、

その無防備な耳元に軽くキスをした。

 

彼女は耳を責められるのに耐えきれず、

顔をこちらに向けてくる。

 

息遣いの荒くなった千秋と

少しの間 目を合わせ

いよいよ彼女の口元にキスをしようと思った瞬間、

ボサノバとプラネタリウムが消え、

『ピンポーン』とドアの呼び鈴が鳴った。

 

千秋『あっ、』

私『え?なに?誰か来た?』

 

千秋はそそくさとバスルームから出て体を拭き

バスローブを羽織って玄関へ行ってしまった。

 

私1人だけになってしまったバスタブで、

再びプラネタリウムとボサノバが流れ出す。

 

30秒ぐらいして、

千秋が裸でバスルームに戻ってきた。

赤ワインの入ったグラスを2つもっている。

 

千秋『ルームサービスに

         お誕生日ワイン頼んでたの忘れてた!』

 

私はしばらくあっけにとられていたが、

ようやく状況を理解し『ありがとう』と言った。

 

彼女はいつのまにか髪をほどいていたらしく、

ウェーブした髪が胸のあたりまで降りている。

そして両手にワイングラスを持った

一糸まとわぬ姿の彼女は、

この街の全ての官能を

168センチに詰め込んだようだった。

 

彼女はバスタブの中へと戻る。

ワイングラスを受け取り乾杯する。

 

千秋『飲みすぎちゃダメだからね?』

私『分かってるよ』

 

ワインの飲み口は果実味が豊かで、

舌に程よくタンニンの渋みを感じるような

飲み応えのあるシラーだった。

 

千秋『美味しい?』

私『美味しいよ。』

 

さっきの続きが気になった。

ほんのキスの手前までいったのに。

 

彼女はワインを一口ふくむと、

目を閉じて口移しでそれを飲ませてきた。

 

ワインは少しだけ口から溢れて、

私の首筋を通って乳白色の湯の中を漂う。

 

彼女の長い睫毛が私の鼻先にこすれて

少しくすぐったい。

 

目を開けた彼女はすっかり

その気になってきたらしく、

その後も何度もキスを迫ってきた。

 

吸血鬼に襲われる時はこんな気持ちなのだろうか、

私の首筋には、絶え間なく赤ワインが流れる。

 

彼女が密着させていた身体を少し離す。

不意に彼女の胸に目がいった。

それはオスの抗えない習性だろう。

 

彼女の胸元には、溢れた赤ワインが漂っている。

乳白色のお湯に浮かぶ彼女の髪は、

水分を含んだせいか、黒々としている。

 

赤ワインと黒い髪

 

少し嫌な感じがした。

私はその不安を取り払おうと、

千秋の髪の毛をじっと見つめた。

 

しかし私がいくら目を凝らして

バスタブに漂う髪の黒を微分しようとしても、

のっぺりとした黒はどこまでも続くばかりだ。

 

私の背中の奥の方から

『赤黒い記憶』がまた蘇ってきた。

 

私はまるで注射を我慢する子供のように、

目を閉じて硬直してしまった。

 

彼女が私の頬に手を当てる。

 

千秋『…怯えてるの?』

 

私『ちょっと嫌なことを思い出しただけ。』

 

千秋『大丈夫…?』

 

彼女は再び私の肩を抱き寄せ、

二人の間に漂う『赤と黒』を

その柔らかな白い胸で埋めてくれた。

 

千秋『ところで最近、ヒゲ伸ばしてるの?』

私『ん?あーいや、剃り忘れてただけ』

千秋『私が剃ってあげようか?』

私『えぇ、こわいなぁ』

千秋『大丈夫だから。待ってて、』

 

彼女は洗面台からT字のカミソリと

シェービングフォームの缶を持ってきた。

 

彼女がシェービングフォームの缶から

きめ細かい泡を手に取り、

私の口元に優しくあてがう。

 

消毒成分が口元の傷に触れて、ピリッとした。

 

裸の彼女は湯船の中で、

真剣な顔で私の髭を剃る。

なんだかそれが妙におかしかった。

 

千秋『なに笑ってんの?』

私『いや?別に、』

千秋『言っておくけど、あんたの方が

          よっぽど面白い顔してるわよ。

          カールおじさんみたい。』

 

彼女は一通り私のヒゲを剃り終えると、

シャワーで残った泡を洗い流した。

 

千秋『ほら!やっぱりこっちの方がいいよ!

          3歳ぐらい若く見える。』

私『そう?やっぱり髭は似合わないのかな。』

千秋『そういうのはね、

         もっとオジサンになってからでいいの。』

 

湯船から上がると、

バスタオルで身体を拭く。

こういう時はどうしても男の方が早く拭き終わる。

千秋はまだ、濡れた髪の先を念入りに

タオルで拭いていたので、

私はその間に歯磨きをしてベッドへ向かった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

f:id:seiteisama:20191228090222j:image

 

真っ白なシーツの上にひとり寝転がると、

しばらくはベッドの上でたなびく

透けるような天蓋を眺めていた。

 

少し身体が疲れていたのもあって、

ベッドの上で思いっきり伸びをした。

 

さすがにスイートルームのベッドは広く、

私が大の字になっても、まだまだ余裕があった。

 

いいホテルに来ると、私は毎度のように

このバスローブというものに悩まされる。

 

つまり、バスローブの下は何を着てたら正解なのか

という他愛もない悩みである。

 

本当は何も着ないのが正解なのだろうが、

田舎出身の私には、どうもその文化が馴染まない。

だからパンツだけは履くようにしてる。

 

バスローブ姿の千秋が部屋に戻ってくる。

彼女は入口のところで、部屋の明かりを落とし

間接照明だけがポワンと灯るベッドの中へと

入ってきた。

 

暗くなった部屋では耳がやけに冴える。

外は雨が降っているらしい。

 

私『雨がふってるね』

千秋『そうね、やっと梅雨が始まるのかも』

 

私の右側に並んで寝そべる千秋が、

サラサラのベッドシーツの上で

ゆっくりと手を繋いできた。

 

しばらく手を繋いだまま、

2人で雨の音を聞く。

 

少しして、私の方から

彼女の猫みたいに狭いおでこに唇を寄せた。

 

彼女が私の口の端の辺りにキスを返してくる。

 

お互いに髪を撫でたり、

腰のくびれをさすってみたり。

 

彼女のバスローブに手を伸ばし、腰紐をほどく。

彼女は困ったように小さな声で

『いや、』とは言ったものの、

私は構わずに腰紐を解いてしまった。

 

彼女のバスローブの下は、

まったくの裸だった。

 

やはり彼女は都会の女なんだと思った。

 

そういえば、彼女がどこの出身なのかも

一度も聞いたことがない。

 

こんなに長く一緒にいるのに、

知らないことばかりだ。

 

よく考えれば、何も知らないし、分からない。

 

どうして彼女が私と一緒にいてくれるのかも、

なんで出会った時、ハイヒールを投げてきたのかも

彼女の右腰にタトゥーがある意味も、

きっと、私は何も知らない。

 

『知らない』というのは、怖いことだ。

そしてそれも、特に彼女のことになると

知らないという事が、いつも悲しくなる。

 

千秋『ねぇ、』

 

私『なに?』

 

千秋『いま、なに考えてるの?』

 

私『別に、』

 

千秋『あなた、ポーカーフェイス気取ってるけど

          ちゃんと眉毛で分かるんだからね』

 

私『えっ、そうなの?』

 

千秋『悲しいこと考えてる時は特にね』

 

私『悲しいことか、』

 

千秋『悲しいこと考えてた?』

 

私『うーん、自分でもよくわかんないだよ。』

 

千秋『あなた本当は、女が怖いんでしょ』

 

私『え、いや。まさか、』

 

突然の彼女の鋭い言葉に面食らってしまった。

とっさにごまかしたが

千秋には、とっくにバレていたらしい。

 

千秋『ずっと思ってたの。

          あんたは男同士でいる時の方が

         よっぽど強気で…なんていうか傲慢なの』

 

私『それは、俺が女に慣れてないからだよ』

 

千秋『そんなわけないでしょ。』

 

私『でもね?千秋。』

 

千秋『なに?』

 

私『いや、なんでもない。』

 

千秋『何それ。』

 

確かに、私は女が怖いのかもしれない。

それは過去の経験のせいなのかもしれないし、

そもそも私が男である以上、

女に対しては必ず未知であるわけで、

私の単なる『未知への恐れ』なのかもしれない。

 

『でも、千秋のことは好きなんだよ』

本当はそう言いたかった。

淀みなく、はっきりそう言いってあげたかった。

 

彼女は暗闇の中で私を見つめながら、

まだ、私の返答を黙って待っている。

 

私『でもね?千秋。』

 

千秋『うん』

 

私『俺にもわからないんだ。 女が怖いとか、

       確かに、それはそうなのかもしれない。』

 

千秋『うん、それで?』

 

私『でも、もしそうだったとしても

      俺はそんな風には生きたくないんだ。』

 

千秋『…』

 

私『誰かを本当に好きになった時に、

      そんな逃げ方をしたくはないんだよ。』

 

千秋『大丈夫、わかってる。』

 

私『あのね、千秋…』

 

また言葉が詰まる。

そんな私の怯えた手を

彼女がきつく握りしめてくれた。

 

『がんばれ』って彼女に言われた気がした。

 

 

私『あのね、千秋』

 

千秋『うん、なに?』

 

私『千秋のことは、好きなんだよ。』

 

千秋『うん、それもわかってる。

          だから大丈夫。』

 

彼女は握りしめていた手を優しく解いて、

私の頭を、その胸に抱き寄せてくれた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その後、私たちは多くの恋人たちがするように

それなりの愛撫をして、それなりのキスをして、

 

いつものようにお互いを貪り合うだけの

ドライなセックスではなく。

心が少しだけ通い合ってる特別感を

ふたりで楽しんだ、

 

束の間の幸せな時間が流れる。

しかし、彼女は許してくれなかった。

 

正確にいうと、彼女の渇いた欲望が、

こんなありふれた恋人たちのような

セックスを許してはくれなかった。

 

千秋は普通の幸せを少しだけ味わったあと、

また、どこか厭世を帯びたような

『正気』の眼差しに戻っていた、

 

彼女のために最初にことわっておきたい。

千秋は、本当に優しい女だ。

興味ない冷めたフリをしながらも、

他人のことを気にかけてあげられる

彼女はそんな優しい女だ。

 

でも彼女の正気は、どこか狂っている。

仕方ないんだ。

だって正気が狂ってるんだから。

 

『ねぇ、ぶってよ。』

 

千秋は私を見つめながら、

うっすら笑みを浮かべて、

淡々と言った。

 

そんな私は、というと

『祖父との約束』を思い出していた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私が高校を卒業した18歳の3月。

 

いよいよ、地元を離れなくてはならなかった。

 

私の両親は共働きで、

家での食事や送り迎えなど

祖父や祖母と過ごす時間が多かった。

 

雪の降り積もる新幹線のホームには、

両親ではなく、祖父と祖母が来た。

 

祖母は私のことを、

まるで自分の生き写しのように溺愛していた。

 

私がどんなに悪いことをしても、

『あんたはずっとここにいなさい。』

と言ってくれた。

 

私の兄弟は既に、大学受験を経て上京しており

おじさん達もみんなそうだった。

一族の末っ子である私は

家族にとっては地元に残ってくれる

本当に最後の頼みの綱だった。

 

それでも私は東京へ行くことを決めた。

 

出発の日、雪の降る新幹線のホームで

祖母が札束の入った茶封筒を私に渡して

 

『お前はひとりで生きてるんじゃないよ?

   みんなに迷惑がかかるんだからね?

   でもね、あんたはひとりじゃないんだよ』とか

 

『困った時は誰かに助けてもらえるように、

   普段は誰かを助けるように生きなさい。』など

 

出発までの時間を惜しむように、

私の手を握りながら話してくれた。

 

一方、祖父は、黙ってベンチに座っていた。

 

ズボンのポケットに手を突っ込んで足を組み、

少しアゴを引いて、黙って座っていた。

 

祖母が『おじいさん、この子が行きますよ?』

とベンチの祖父に向かって言うと、

祖父は大きな身体をムクッと起こして立ち上がる。

 

何を言うのかと思ったら、

 

『飯は残すな。あと、女は殴るな。』

 

たったその2つだけを私に言った。

それだけを、大真面目に言った。

 

プシューという空気音とともに

新幹線のドアが閉まる。

私は慣れ親しんだ故郷の

冷たい空気と遮られてしまった。

 

ドアの窓ガラスに手を当てる。

冬の東北を走る新幹線の窓ガラスは、

今にも凍りそうなほど冷たい。

この優しい冷たさとも、もうお別れだった。

 

動き出した新幹線の窓から

雪の降るホームに目をやると、

祖母が顔をおさえて泣いていた。

 

祖父は、脚を揃え、背筋を伸ばして凛と立ち。

右手で軽く敬礼をしたかと思うと、

すぐにポケットに手を突っ込んで

改札の方へと歩いて行った。

 

『戦争を生き抜いた男は強い』と思った。

 

それは祖母の心が弱いと言いたいのではない。

あの時は私だって泣き出しそうだった。

 

男の旅立ちを、黙って見送る祖父を

素直にカッコいいと感じた。

 

そんな威厳ある祖父の姿を、

私も敬意をもって見送った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

f:id:seiteisama:20191228090222j:image

 

『飯は残すな。女は殴るな。』

 

私がそんな昔の約束をボーッと思い返していると、

千秋が私を見つめて言う。

 

千秋『どうしたの?ねぇ、はやくぶってよ。

         なんだか今日は、そういう気分なの。』

 

私『いやだよ、』

 

千秋『どうしてよ、たかが遊びよ?』

 

私『千秋だって知ってるだろ?

       俺が女には手を上げないようにしてるの』

 

千秋『あんた、やっぱりただの臆病なのよ。

          私のこと好きっていいながら、

          本当はやっぱり女が怖いんでしょ?』

 

私『そんなことないよ、』

 

千秋『じゃあ、はやくぶってよ。』

 

私は、はぁ、とため息をついた後

右手で彼女の左頬を平手で打ち抜いた。

 

私は千秋の頬をぶった。

あんなに大切にしていた『祖父との約束』を破り、

利き腕の右手で、目の前の彼女を平手打ちにした。

 

クールな女の頬の温度は、思いのほか熱い。

私の手に弾かれた千秋の顔が、

青白い月明かりに照らされて少しだけ見える。

 

何か、うすら笑いのような、

悔しいのを我慢して笑っているような、

今まで私が見たことのない、

彼女の不安定な表情だった。

 

それでも彼女の下半身は

今までにないほど良い反応を示し

スラっとした脚を私にからめ

恍惚のため息を漏らしているようだった。

 

私の性癖も大概、褒められたものではないが

彼女のそれは、なんだかもっと可哀想に思えた。

 

『幸せを拒む性癖』とでも言えばいいのか。

 

彼女はきっと、何かの恐怖を追体験したいのだ。

それは例えば、柔道で言うところの

『受け身』みたいなもので、

恐怖を自発的に掴み取りに行くことで

その恐怖に抗おうとしているのだ。

 

そして、その状況からくる

『痛み』と『侮辱感』に至上の快楽を求めている。

 

あのなんとも言えない、不安定な表情を

私はあの時、そう読み取った。

 

千秋『どうしたの、もっとやってよ。

           私がやめてって言っても続けてね』

 

私の中で、また何かが壊れてしまった音がした。

それは幼い頃に家でピアノ弾いていて、

高音の細い弦が切れた時の

『ピキンッ』という音にも似ていた。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

『祖父との約束』だろうか、

あれはとても大切なものだった。

あの約束さえ守ってれば、

この大都会でも大きく道を踏み外すことはない。

根拠なくそう思えるほど、大切なものだった。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

『千秋との関係性』だろうか、

思えば、お互い便利な関係だった。

本性を暴くことなく、

都合のいい時だけふたりで会って、

得体の知れないお互いの身体を貪り合って、

そうやって寂しさを紛らわしてきた。

 

いずれにしても、

弦が切れてしまったピアノは

もはや何度強く押そうとも、音が出ることはない。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

いや、別に考えるほどのことじゃない。

もう既に壊れていたのだ。

ボロ屋のトタン屋根が、

次の台風に怯えながらパタンパタンと軋むように。

もう、ずっとずっと前から、壊れていたのだ。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

彼女の頬を打ち抜きながら、

私は何度もそう問い続けていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その後も、彼女に頼まれるままに

何でもやった。

 

男の冷たくて、硬い手が、

彼女の温かくて柔らかい肌をぶっている。

 

千秋をぶっている、この冷たくて硬いこの身体が

本当にこれが自分の身体なのかと思った。

無責任だが、信じられなかった。

 

仰向けでベッドに横たわる彼女の顔は、

ベッドシーツや月の光に照らされてよく見えた。

 

あの不安定な表情から、

一瞬、何かに怯えた表情を見せると

すぐにまたあの不安定な表情に戻り、

恍惚の余韻を貪る。

彼女はずっと、その繰り返しだった。

 

私も、見られているのだろうか。

不意にそんな不安がよぎった。

行為の最中、私はどんな顔をしているのだろう。

 

冷たい笑いを浮かべて、

筋力の劣る女を痛めつける男の

恍惚の表情だろうか。

 

あるいは色欲ボケした中年のような

あの、いやらしい鼻息を垂れ流しているのか。

 

いや、最悪の場合。

私が泣いているという可能性すらある。

それも、比較的高い確率で。

 

そのぐらい、私は自分が見えなくなっていた。

 

これが私の取るに足らない杞憂であり、

彼女はこのセックスに、ただ没頭している。

そんな事を願うばかりだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

どのくらい時間がたったのか、

やっとセックスが終わった。

 

激しいセックスだった。

 

赤々とズルむけた心をタワシで擦るような

生々しくて、痛みのあるセックスが終わった。

 

乱れた呼吸を整えた私は、

ベッドに横たわる彼女に布団をかける。

 

掛け布団を高く上げ、

せめてもと、千秋に優しくかけてあげた。

 

私もそのサラサラのベッドに戻る。

彼女は少しの放心の後、

意識を取り戻したかと思うと

ふふっと鼻で笑って私に軽くキスをする。

 

ベッドの中で、汗ばんだお互いの身体を寄せ合う。

 

上質なシャンプーの匂いとタバコの匂いが

ないまぜになった彼女の髪の匂い。

 

先ほどより、少し温度が落ち着いてきた。

彼女の身体が冷えないように抱き寄せる。

 

不規則な生活を繰り返す私たちは、

だいぶ疲れてしまっていたのか。

手を繋いで、そのまま寝てしまった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その晩、私は夢を見た。

 

あれはどこだったのだろう。

薄暗い部屋だった。

 

そこに千秋がいた。

とは言っても普段知っている千秋ではなく、

まだほんの小学校低学年ぐらいだろうか。

彼女は畳の部屋の隅で小さな脚を囲い込んで、

体育座りで小さくなっていた。

知らない少女だとは思わなかった。

はっきり千秋だと分かった。

 

辺りは夕方らしく、彼女の小さな体から

長い影が伸びている。

 

そこで彼女は泣いていた。

すすり泣くように、しくしくと、

静かに泣いていた。

 

私が『千秋?千秋なのか?どうしたんだ?

          どうして泣いてるんだい?』と聞いても

 

彼女は答えない。

どうやら私の声は聞こえていないらしい。

 

部屋に誰かが入ってきた、

しかし真っ黒で顔や服は分からない。

背が低くてずんぐりとした体型で

人間の男の形をしているようだが、

人間じゃないと言われれば、そうも見える。

 

『そいつ』は大きな音をたてて、

近くにあった机を叩いたり、

その上にあったものを彼女に投げつけたり、

椅子を蹴り上げたりしていた。

 

『そいつ』が怯える千秋の近くへ歩み寄り

彼女の頭に手をかけようとしたので、

 

私は『おい!やめろ!』と声をあげ、

『そいつ』を引き剥がそうとした。

その時に一瞬だけ触れたのだが、

『そいつ』に触れた手触りが、

なんとも言えぬ、嫌に汗ばんだような。

悪意に満ちた手触りだったのを覚えている。

 

私はそのあまりに不気味な手触りに、

うわっ!っと逡巡し、慌てて手を離した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

f:id:seiteisama:20191228090222j:image

 

夢はそこで終わった。

 

私が目を覚ますと、千秋のタバコの匂いがした。

周囲はまだ暗く、夜はまだ明けていない。

 

千秋が裸のまま窓際のテーブル近くに立って

ペットボトルの水を飲んでいた。

 

私『やぁ、起きてたの?』

 

千秋『うん、さっき起きたとこ。』

 

私『いま何時?』

 

千秋『さぁ、』

 

私が枕元に置いていた腕時計を見ると

夜中の3時半を示していた。

 

私は千秋のいない広いベッドに横たわりながら

左手のタバコに火をつける。

 

白い煙は窓の換気扇の方へ流れていく。

その煙の向こうでは、裸のままの千秋が

乱れた髪を手櫛で戻していた。

 

私はベッドに寝そべったまま、千秋に話しかける。

 

私『ねぇ千秋、』

 

千秋『ん?なに?』

 

私『さっき俺ね、夢を見たんだよ。』

 

千秋『ふーん。』

 

私『あれは千秋がまだ小さい頃だったと思う。

       狭くて暗い畳の部屋でさ、

      そこで千秋が泣いてたんだ。』

 

千秋『やめてよね。そんな夢の話。』

 

私『それでね?うまく思い出せないんだけど、

       男がいたんだ。黒くて背の低い…』

 

千秋『もう!やめてってば!』

 

彼女は突然、取り乱したように声を荒げて

持っていたペットボトルを私に投げつけてきた。

 

私『どうしたんだよ。急に怒鳴って、』

 

千秋『私も見たの、夢。』

 

私『え?同じ夢を?

      それは、なんだか不思議だね。』

 

千秋『そうじゃない。もっと不思議なの。』

 

私『どういうこと?』

 

千秋『あなたの、夢を見たのよ。』

 

私『俺の…夢?』

 

彼女はそのままテーブルに腰掛けて、

あとは何も言わなかった。

 

寝ている時に千秋と繋いでいた右手が、

気付けば、じっとり濡れている。

 

まさか、と思った。

 

いや間違いない。

私たちは、この短いひと眠りの間に、

 

夢を交換してしまったのだ。

 

私『千秋は、俺の夢を見たの?』

 

千秋『……』

 

私『どんな、どんな夢だった?』

 

千秋『あまり言いたくない。』

 

私『そう…、わかった。』

 

もはや説明されるまでもなかった。

千秋はおそらく、

私の『赤黒い記憶』を見たのだろう。

 

ということは同時に、私が見た千秋の夢も

あれもきっと、単なる夢ではないのだ。

 

私はゆっくりベッドから起き上がると、

タバコを持って彼女が腰掛けるテーブルへ行き、

その上にあった灰皿にタバコを置いた。

 

彼女も、同じように灰皿にタバコを置いた。

 

灰皿の上で、

2人のタバコから出た煙が混ざり合って

窓の換気扇に吸い込まれていく。

 

千秋のことが心配になって、

裸の彼女を抱き寄せる。

 

彼女は少しの間、声を出して泣いた後、

窓の方へ行き、レースのカーテンを開けた。

 

彼女は裸のまま、

窓の端から端までカーテンを開いて

眼下に広がる歌舞伎町を眺めている。

 

私も裸のまま、そちらへ行き

彼女の横に立って、眠らぬ街の雑踏を眺めた。

 

なんとなく、彼女の気持ちがわかる気がした。

いやむしろ、私も同じ気持ちだった。

 

私たちは、誰かに見て欲しかったのだ。

若く美しい身体の奥で、

もはや治すことが出来ない程に

ボロボロに傷付いてしまった私たちの心を、

この街の誰かに見て欲しかった。

 

南国リゾートホテルの最上階からは、

人や店が小さく見えるだけだった。

その他は、何も見えなかった。

 

私たちを見てくれる人も、誰もいなかった。

 

私達はそうして2、3分ほど

月明かりの下で黙って窓辺に立ち尽くしていた。

 

千秋が風邪をひかないように。

バスローブをかけてあげる。

 

彼女の雄弁な沈黙が、

この広いスイートルームを満たしていた。

 

千秋が重い口を開いた。

しかし、その言葉は意外なものだった。

 

千秋『ねぇ、リョウ』

 

私『なに?』

 

千秋『ねぇ、クラブにいかない?

          なんかね。踊りたいの。』

 

私『いまから?もう夜中の3時半だよ?』

 

千秋『閉店まであと1時間はあるでしょ?』

 

私『そうだけど、』

 

千秋『ねぇお願い。もう疲れた?』

 

私『いや、大丈夫。付き合うよ。』

 

私たちはそそくさと着替えを済ませ、

チェックアウトをしてホテルを出た。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

さっきまでザーッと降っていた雨は

霧のような小雨に変わっていた。

 

ホテルのエントランスを出て、

新宿5丁目の方面へ向かう。

 

私と千秋は、

ガラにもなく手を繋いだりなんかして

足早に目的のクラブへ向かう。

 

その途中、

 

千秋『あっそうだ、さっきの洋服屋寄っていい?』

 

私『え?なんか忘れ物でもしたの?』

 

千秋『ううん。もう服とかも全部変えたいの。

   なんなら今からヘアサロンにでも行きたいくらい』

 

私『え?洋服買うの?

      じゃあそのワンピースはどうするの?』

 

千秋『もう捨てる。3回も着たら飽きちゃった。』

 

私『あぁ、そう。』

 

千秋『ねぇ、いいでしょ?すぐ終わるから。

           外でタバコでも吸って待っててよ。』

 

私『分かった。でもあまり時間は無いからね?

       あんたの買い物が長いのは有名なん…』

 

千秋『分かってるって!じゃ、行ってくるね。』

 

千秋はそう言って店の中へ入っていった。

 

f:id:seiteisama:20191228092535j:image

 

私は霧のように降る小雨の中、

タバコに火を付けて、

手をポケットに突っ込んで待っていた。

 

少し待ってもまだ千秋の洋服選びは

決まらないようなので、

 

近くにあった自販機で缶コーヒーを買う。

 

私は雨で濡れた冷たいガードレールに座って、

静かに目をつぶった。

 

なぜか今なら、できる気がした。

私はナスタの『黄金の風』を待ったのである。

 

すると、ほんの少しだけ風が吹いた。

 

その風は、

歌舞伎町に降り注ぐ霧雨の水分を含んで

ナスタのブロンズの髪がなびいた時のような

あの優しい柔らかさをそのままに

私の傷ついた心を、しっとりと濡らした。

 

私の待ちわびた『黄金の風』が

遂に吹いたのだ。

 

その風が完全に消えて無くなるまで、

私は目を閉じたまま、

黙って彼女の手触りに思いを馳せていた。

 

閉じていた目を開ける。

朝が近づいているのか、

先程まで街を覆い尽くしていた深夜の暗闇は

ほんの僅かではあるが、明るくなっていた。

 

千秋が洋服店から出てきて、こちらに歩いてくる。

 

彼女は『どう?』といった具合に

こちらに近付きながら、くるりと回ってみせた。

 

彼女が着ていたのは

紺色に近いミッドナイトブルーをした

ノースリーブでミニ丈のワンピースドレス。

胸元にはシャンパンゴールドのビジューが

夜の街の光を控えめに反射していた。

 

私『なんだ、気分変えたいって言ってた割には

       ずいぶんと落ち着いてるね。』

 

千秋『いいのよ。私なんでも似合うから。』

 

私『今まで見てきたあんたの中では、

       1番落ち着いてるかも。でも似合ってるよ。』

 

千秋『でしょ?本当はあのマネキンが着てる

          赤いワンピと迷ったんだけど…』

 

私『おぉ、あれね?

      いかにも千秋が好きそうじゃん。

       どうして?なんか問題でもあったの?』

 

千秋『あなた、今日は赤が嫌でしょ?

          私なりに気を遣ってあげたのよ。』

 

私『あぁ、なるほど。』

 

千秋『ね?優しいでしょ?』

 

私『うん、ありがと。』

 

私と千秋は歌舞伎町の地下一階にある

ナイトクラブへと向かう。

 

私『そういえば、俺たちが

      7年前に初めて会った時もクラブだったね』

 

千秋『そうね、渋谷のT2。

          確か薬物かなんかの取り締まりで

          今はもう店の名前は変わっちゃったけど。』

 

私『あの時あんたさ、』

 

千秋『『いきなり履いてたヒール投げた』でしょ?

           あの時はごめん。酔っ払ってたの。』

 

私『いや、いいんだよ。そのお陰で

     今もこうして千秋と一緒にいられるから。』

 

千秋は歩いてる途中で、

私の左腕に胸の膨らみを当ててくる。

彼女が甘える時のやり方だ。

 

そのまま、クラブのエントランス前にいた

大きな身体の黒人のセキュリティに挨拶して

地下一階にあるクラブへと降りていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

エントランスで荷物を預け、

重い革張りのドアを開けると

腹を打つような重低音のビートに合わせ、

極彩色のレーザーライトが暗い店内を

所狭しと走り回っていた。

 

f:id:seiteisama:20191228092903j:image

 

閉店の1時間前、

花の金曜日の夜はとうに過ぎ、

朝4時のダンスホールの客たちは意外にも

盛り上がりのピークを迎えていた。

 

この店はとにかく黒人が多い。

昼は歌舞伎町の路上で客引きをしてる外国人が、

夜はここで馬鹿騒ぎをしている。

この街にもナイトクラブは多くあるが、

ここだけは、まるでアメリカの

ニューオーリンズと間違うような黒人の多さだ。

 

ちなみに、店員も黒人だ。

 

バーカウンターの黒人に話しかける。

彼とは顔見知りで、

ベタベタした黒人英語を何とか聞き取って

近況を報告しあった。

 

私はヒューガルデンを注文した。

 

黒人の彼が千秋を指差して

『その女、お前の彼女?』と言うので

『まぁ、そんな感じ』と伝えると、

彼は白い歯を見せてスミノフの瓶を

彼女にひとつサービスしてくれた。

 

私と千秋は、小さな丸テーブルに腰掛けると

乾杯して小瓶をグイッと煽った。

 

その後すぐに

踊りたいのを我慢出来ない千秋に手を引かれて、

人混みをかき分け、ダンスホール

真ん中あたりに2人で立った。

 

『クラブといえば海外アーティストのEDM』

それはある種の偏見で、

始発が近付いたクラブ内は意外にも

日本人の誰もが知るJ-POPを

DJがEDM風にアレンジして流すのだが、

実はこの時間帯が最も盛り上がる。

 

いかに洋楽好きを気取った若者だろうと、

J-POPの持つ、あの聴き慣れたフレーズが流れると

みんな、水を得た魚の様に踊り出す。

 

ダンスホールには

椎名林檎の『長く短い祭』が流れていた。

 

千秋も大好きな曲らしく、

彼女は音に合わせて頭を揺らす。

その長い髪が華奢な腰つきと重なり合う。

 

彼女は一瞬で『クラブの女』になっていた。

 

少しその勢いに置いていかれた私も、

曲が進むに連れ自然と身体が動く様になった。

 

椎名林檎の媚びているようで、

どこかトゲのあるあの声が

爆音でダンスホール内に響く。

 

『ちょいと、女盛りをどうしよう、

   このままじゃ行き場がない。』

 

まさに千秋のための歌だと思った。

私の目の前で、千秋が女盛りを燃やしている。

 

『少し疲れたからテーブルで酒飲んでる』

そう彼女に言って、先ほどのテーブルに戻る。

 

彼女はまだまだ踊り足りないみたいで、

髪を振り乱して踊りながら、

周りにいた男たちにちょっかいをかけている。

 

そんな彼女をぼんやり遠くに眺めながら、

持っていたヒューガルデンの小瓶に口を付ける。

 

少し目を離した隙に、

彼女の周りには

下心を隠しきれない男たちが4、5人群がっていた。

 

彼女は女王様にでもなった気分でいるのか、

楽しそうに笑いながらその男たちと

交互にダンスの相手をしている。

 

知らない男の手が、彼女の腰に伸びる。

彼女の露出した白い肩を触ったり、

尻や胸まで触っているようにも見えた。

 

もし私が千秋の彼氏だとしたら、

彼女のもとへ行って男達を引き離すだろう。

 

でも私はなぜか行く気にならなかった。

 

そのまま丸い木の椅子に座って、

テーブルの上に肘をかけて

その乱痴気騒ぎを眺めていた。

 

私はやはり、千秋の彼氏ではないようだ。

 

じゃあ何なのか。

 

私にも分からない。

むしろ、誰かに教えてほしいくらいだ。

 

たとえ尻や胸を触られたからといって、

そんな事で傷付くような彼女じゃないし、

それでヤキモキするような私でもない。

 

現に千秋だって、

あんなに楽しそうに踊っている。

 

もうそんな、ヤワな傷付き方じゃ足りないんだ。

彼女の美しく見えるその顔の奥は、

ボロボロに傷付いている。

もう、取り返しがつかないほどに。

 

誰も触れてはくれない。

どれだけ彼女の尻や胸に触れようと、

そのボロボロに傷付いた心だけは

誰も触ってはくれない。

 

ベタベタと触っていた男の1人を

千秋が何の脈絡もなく、笑いながら突き飛ばす。

追い討ちをかけるように蹴りも一発入れた。

 

周りの男達は『こいつイカレ女だ、』

というような顔でその場を立ち去って行った。

 

それを遠くで見ていた私の口からは、

渇いた笑いが溢れた。

 

それでも彼女は構わず、踊り続ける。

その白い華奢な肩に

ビームライトの極彩色を宿して

見果てぬ混沌の中を踊り続けている。

 

彼女は一体、何のために

誰のために、踊ってるんだろう、

そして何のために生きているんだろう。

 

ふと今日の千秋の言葉を思い出した。

 

『だからって、死ぬ意味も分からないの。』

 

本当にその一言に尽きると思う。

過去、どれほどボロボロにされて傷付いても、

大切な仲間たちが死んで行こうと、

彼女はそれでも生きようとしていた。

 

『生きようとしていた』なんていう

そんな能動的なものではないのかもしれない。

淡々と、粛々と、

少しのドライな熱情だけを残し、

目の前にあるものをそのまま瞳に映して

それ以上のことは何も思わず、

繊細な心を、あえて鈍感に慣らして

彼女はただ、踊るように生きているのだ。

決して死なないように。

決して、死なないように。

 

そういう気概の部分ではやはり、

私の方がまだまだ甘えていて、なんだか幼くて、

彼女の方がよっぽど強く大人びて見えた。

 

彼女に聞きたい事がたくさんあった。

 

 

『ねぇ千秋、今どんな気持ち?』

 

『ねぇ千秋、俺の眉毛で考えてる事が分かるって

   言ったけど、それってどんな形?』

 

『ねぇ千秋、ナスタの話はやっぱり嫌い?』

 

『ねぇ千秋、前から思ってたんだ。

   俺とあんたは、どこか似てるよね。』

 

『ねぇ千秋、やっぱり初めて会った時のこと

   忘れてなかったんだね。嬉しいよ。』

 

『ねぇ千秋、きっと俺の夢を見たんだよね。

   それ、誰にも言わないでほしいんだ。』

 

『ねぇ千秋、俺、あんたのこと何も知らないよ。

   どこで育ったとか、両親のこととか、

   あんたの歳だって、正確には知らないんだ。』

 

『ねぇ千秋、タトゥーのことだけど、

   いつか気が向いたらさ、教えてよ。』

 

『ねぇ千秋、俺たち付き合ってるのかな?

   悲しいけど、たぶん違うよね。』

 

『ねぇ千秋、俺、時々ね?

 愛の終わりの悲しい夢を見るよ。』

 

『ねぇ千秋、どっちかっていうと

   俺たちは家族に近いのかもしれないね。

   じゃあ千秋がお姉ちゃんで、俺が弟かな。』

 

『ねぇ千秋、ダメな弟でごめんね?』

 

『ねぇ千秋、あんた俺のこと叩いて言ったけど、

   俺はもう、すっかり狂っちゃったのかな。

   もう元には戻れないのかな。悲しいよ。』

 

『ねぇ千秋、いなくなった人達の事ばかり

    考えるのは、もうやめにするよ。』

 

『ねぇ千秋、いつまで俺と一緒にいてくれる?』

 

 

 

 

 

考えうるすべての質問を心の中で終えた後、

私はこのダンスホールの爆音の中で

聞こえるはずもないような小さな声で

 

『ねぇ千秋、』と呟いた。

 

すると彼女は、

まるで私の声が聞こえたかのように

少し驚いたような表情で振り向き、

はにかむように笑いながら

私の方へ近づいてきた。

 

ダンスホールの端っこの、

光の当たらない暗がりの中で

私たちは抱き合って、またキスをした。

 

午前4時50分。閉店間際のクラブ内は、

残った最後の電力を振り絞るように

より一層、強烈な光でダンスホールを照らす。

 

私『ねぇ千秋、』

千秋『なに?』

 

どこかの黒人が酔っ払って、

持っていたグラスを上空にぶちまけた。

 

辺りは一体水浸しになって、

私たちもびしょ濡れになってしまった。

 

ゆっくりと目を開けた彼女の長いまつ毛には

キラキラした水滴が溜まっている。

 

私はまた、彼女に呟く。

 

『ねぇ千秋、

  どんなに暗くても、

  この夜を歩いて行こうよ。』

 

もうじき、夜が明けるから。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー終ーーーー

 

         

 

         あとがき

 

私がこの話を書き始めたころ、

千秋は長い旅に出ていました。

普段は東京から出るのも億劫で、

旅行なんて絶対にしない彼女が

行き先も告げず、長い旅に出ていました。

当時、私はなんとなく

彼女がもう戻ってこないような気がしていました。

もしかすると、寂しかったのかも知れません。

だから彼女との事をこうして

文章にして残しておこうと思ったのかも。

でも書けば書くほど、彼女の事が鮮明になり、

それが鮮明になればなるほど、

彼女の事が分からなくなっていきました。

長く一緒にいる中で、

少しずつお互いの見え方が変わってくるのは

人間として当然なのですが、

私たちの場合、

それは見え方が変わるというより

どう見たらいいかが分からなくなる。

と言った方が適切でした。

 

そんな時、ふとこの曲と出会いました。

自分の作品への後付けは無粋かと思いますが、

当時、私の心の虚空を

この歌が優しく埋めてくれた事は確かです。

 

皆様の気が向いた時にでも、

この曲を聴いて頂ければ幸いです。

 

 

       『ダンスホール

          

       作詞作曲 尾崎豊

 

 

安いダンスホールは たくさんの人だかり

陽気な色と音楽とタバコの煙に巻かれてた。

 

ぎゅうぎゅう詰めのダンスホール

洒落た小さなステップ

はしゃいで踊り続けてるお前を見つけた。

 

子猫のようなヤツで、生意気なヤツ。

『小粋なドラ猫』ってとこだよ。

お前はずっと、踊ったね。

 

 

気取って水割り飲み干して

慣れた手つきで火をつける。

気の利いた流行り文句だけに

お前は小さく頷いた。

 

次の水割り手にして、ワケもないのに乾杯。

『こんなものよ』と微笑んだのは

たしかに作り笑いさ。

 

少し酔ったお前は、考え込んでいた。

『夢見る娘』ってとこだよ、

決して目覚めたくないんだろう。

 

 

あたいグレ始めたのは、ほんの些細な事なの。

彼がイカれていたし、

でも本当はあたいの性分ね。

 

学校はやめたわ、今は働いているわ。

長いスカート引きずってた

のんびり気分じゃないわね。

 

少し酔ったみたいね、喋り過ぎてしまったわ。

でも、金が全てじゃないなんて

綺麗には言えないわ。

 

あくせくする毎日に疲れたんだね。

俺の胸で眠るがいい。

今夜はもう、踊らずに。

 

 

昨夜の口説き文句も忘れちまって、

今夜も探しにゆくのかい?

寂しい影、落としながら。

 

そうさお前は、孤独なダンサー。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『渓流』

 

東北地方を縦断する奥羽山脈の北の果て、

青森、秋田にまたがる白神山地の奥深く。

 

ブナの原生林の中を渓流が流れる。

これは、その奥入瀬(おいらせ)渓流に生きた、

一匹の魚のお話。

 

f:id:seiteisama:20190613204608j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

今日もイワナ(岩魚)は、

水の中から水面を見上げ、

自分の姿を見ては、嫌な気持ちになっていた。

 

平たい口に、上へ向いた目、

三角形の寸胴な身体。どんよりした体色。

 

梅雨明けのからりとした光の中を

渓流は勢いよく流れていく。

上流の激しい水の流れは、

水面に映る彼の姿を歪めて

一層醜くして彼に見せた。

 

彼はいつも、それを見ると頭を抱え、

尻尾で川底の泥を巻き上げて辺りの水を濁し、

水面が見えないようにした。

 

イワナは川の上流で流れが激しく、

ゴツゴツとした大きな石がある場所を

自分の住みかにしていた。

決して住みやすい場所ではない。

それでも彼は、岩の間を流れる

上流の綺麗な水が好きだった。

 

彼は美しいものが好きだった。

彼は誰より、美しいものを愛する心を持っていた。

 

f:id:seiteisama:20190613204553j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

『ヤマメ(山女魚)のようになりたい。』

 

彼はいつもそう思っていた。

広い渓流を、あんなに美しい色の身体で、

まるで空を飛ぶように泳いで、

たまにヒラリと身を翻し、

銀色の腹部をキラッと水面に光らせる。

それが彼の夢だった。

 

彼はいつも川の上流から、

ゴツゴツとした岩場に隠れて、

ヤマメの美しい泳ぎを

羨ましそうに眺めているばかりだった。

 

f:id:seiteisama:20190613205116j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

そんな彼にも唯一の楽しみがあった。

 

たまに水面からぴょんと跳ねて岩の上に登り、

緑色に苔の生えたフカフカの岩の上で、

外の景色を見るのが好きだった。

こういう時だけは、

彼の平たい腹が役に立った。

水の中にいる時は見えなかったものが、

ここに来るとよく見えた。

 

キラキラとした水の流れ、

浮かんではすぐ消える小さな泡、

川岸に生えた山菜や、鮮やかな色をした花々、

ふと遠くに目をやると、

大きなブナの木が、風に枝を揺らしながら

抜けるように青い初夏の空へと伸びている。

 

彼は目を閉じて、渓流の『音』を聞く。

木々の葉っぱが擦れ合う音、

水が岩に当たってはじける音、

どこかで美しい鳥の声が

森の主旋律を奏でている。

そうして、この渓流全体が

調和を持って生きていることを彼に知らせた。

 

彼のように平たい腹を持たない魚たちは、

岩に登ってこの景色を見ることはできない。

彼は岩の上でこうしている時だけ、

『もしかすると、自分の人生も、

悪いものではないのかもしれない。』と思えた。

 

しかし、いつも時間が経つと

エラの動きが速くなる。

だんだん息が荒くなってくる。

ぬめり気のあるはずの自分の肌が乾いてゆく、

 

『これはいけない』と思い、

水の中へザブンと飛び込む。

 

心地よい、彼が大好きな上流の冷たい水だ。

彼は冷たい水の中へ戻って身体を慣らすと

いつも岩場の陰で目を閉じながら、

先ほど、苔の生えた岩の上で感じた

渓流の美しさを、味わうように思い出していた。

 

f:id:seiteisama:20190613204834j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ある日のこと、

彼はいつものように、

カフカの苔が生えた岩の上に登って

渓流の美しさに見とれていた。

 

すると彼は、

遠くに見える中流の方に何かを見つけた。

いつもは見たことのないものである。

川岸の砂利を踏んで

ザッザッ、という音を立てながら

だれかが近づいてくる。

手には、長い棒を持っていて

その先から垂れる透明の細い糸がキラっと光った。

 

彼は少しの間、口をポカンと開けていたが、

すぐに状況を把握して

ゴクッ、と唾を飲み込んだ。

 

『釣り人だ…。』

 

この渓流に、釣り人が来たのである。

イワナは急いで水の中へザブンと飛び込んだ。

 

彼は大変なものを見てしまったと思い、

この辺りでは1番大きな岩の下に隠れて、

目を閉じてブルブルと震えていた。

 

『間違いない、あれは釣り人だ。

ついにこの渓流にも釣り人が来たんだ…。

今日、この川で誰かが釣られて、死んでしまう。』

 

彼はその日ばかりは

たとえどんなに美味そうな羽虫が

流れてきたとしても、

絶対に口を付けないと固く誓った。

 

『そうだ、今日は何も食べなければいいだけだ。

   とにかくそれだけ守れば、釣られなくて済む。』

 

彼がそう自分に言い聞かせて、

ほんの少しの安堵を手に入れたのも束の間、

『ヤマメ』達の事が気になった。

 

岩の上の景色を知らないヤマメは、

今日起こっている、この事実を知らない。

 

『ヤマメ達にも知らせなくては…』

 

彼はプクプクっと泡を吐いて、

川の下にいるヤマメ達に

『釣り人が来た』と

知らせようとしたのだが、

流れが激しい上流からでは、

その泡はすぐに岩に当たって消えてしまった。

 

『どうしよう…』

 

彼は迷っていた。

川の上流から中流へ下るのは、

泳ぎの苦手な彼にとって容易なことではない。

それに、水の温度も中流になれば高くなるし、

プランクトンの量だって、全然違う。

イワナである彼にとって、この川下りは

『死』を覚悟しなければならなかった。

 

『でも知らせなきゃ…』

彼は誰より美しい水を好んでいたのと同時に

誰より、美しいものを愛していた。

 

彼はヤマメの美しい泳ぎを、心から愛していた。

 

『よし…。』

 

彼は上流の冷たい水を名残惜しそうに

腹一杯に吸い込むと、

中流へと続く、この辺りでは1番大きい岩を

目一杯の力で飛び越えた。

 

彼は自分の美しさに気付いていない。

 

死の恐怖を退けた彼は、

その身体に初夏の光を宿して、

渓流の空の中でキラリと光った。

 

彼の人生を賭けた、決死の川下りが始まった。

 

f:id:seiteisama:20190614143731j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

慣れない川の流れに押され、

何度も尖った岩にぶつかった。

 

途中で美味しそうな羽虫の死骸が

プカプカ浮いているのを見つけた。

彼はこれはありがたいと、口を大きく開けて

思わずバクッと食べてしまいそうになったが、

すんでの所で釣り人の姿が頭をよぎり、

なんとか踏みとどまった。

 

激しく泳いでいるせいか

中流の水質が合わないせいか、

彼のエラの動きはどんどん速くなってくる。

どうやら、そう長くは持たないらしい。

 

彼は傷だらけになりながら、

薄れゆく朦朧とした意識の中で、

やっとヤマメのいる中流へと辿り着いた。

 

彼は一匹のヤマメを見つけると、

息も絶え絶えに、

この辺りに釣り人が居る旨を伝えた。

 

それを聞いた伝令係のヤマメはすぐに

ヒラリと身を翻し、

矢のような速さで、

仲間たちの元へと泳いで行った。

 

『よかった…これでみんな大丈夫…、』

 

ふいに安堵と達成感が込み上げてくる。

同時に、傷ついたその身体を

自分ではどうにもならないほどの疲労感が襲った。

 

彼は少しの間、眠ることにした。

 

川幅の広い中流を、

白い腹部を上にしてプカプカと浮きながら

中流をさらに下へ下へと、

彼は流れて行った。

 

どれくらい流されたのだろう。

気付くと彼は、川岸に落ちていた

折れたブナの枝に引っかかって

そのまま川岸の砂利に打ち上げられていた。

 

『ああ、体が乾いていく…』

 

そう思っても、

彼にはもう動く力が残っていない。

最後にもう一度だけ、

あの冷たい上流の水を飲みたかった。

彼はそっと目を閉じて、

自分の大好きだった、

あの故郷の水の流れを思い出していた。

 

彼の命は、あと数分もないように思われた。

 

すると、また遠くから

ザッザッと砂利を踏む音が聞こえる。

その音は彼の前で立ち止まり、

力無く倒れている彼の身体に大きな影を落とした。

 

『じゃ!なにしてこっただ下の方さ

   イワナっこ居だってや!?』

(おや!どうしてこんな下流イワナがいるんだ?)

 

釣り人は、驚いた様子で

彼の傷だらけの身体を眺めた。

 

釣り人は、口をパクパクさせながら倒れている

彼の身体に手を伸ばしてそっとすくい上げると

 

『まんずおめも、

  慣れねぇとご泳がされでむじぇかったえ?』

(しかしお前も、慣れないところを泳がされて

苦しかったろう?)

 

と彼に向かって慈しむように呟いた。

 

死が近づいた彼は、ぼーっとした頭で

『人間も、そう悪いものではないのかもな』

と、素直にそう思った。

 

釣り人は彼を持ち上げて辺りを見回して、

ブナの枝が垂れ下がって木陰になっている、

この辺りでは1番涼しそうな淵へ、

ポンっと彼を放りなげてやった。

 

その瞬間、

きっとそれは、時間にして1秒もなかったろう。

初夏の光がキラキラと光る渓流の空を、

ほんの一瞬ではあったが、

彼は確かに渓流の空を泳いだ。

 

ザブンッと水しぶきを上げると、

彼はそのまま、

木陰のかかった涼しい小淵に身を沈めた。

 

涼やかな心地よい水が彼の身体を包む。

 

『ここにも、こんなに綺麗な水があったんだ…』

 

彼は暗い水の底に沈みながら、

大嫌いだったはずの水面を見つめる。

中流の穏やかな水面は、上流とは違い、

彼の姿を歪めることなく、そのまま映し出した。

 

それを見た彼は、

『自分の人生も、そう悪いものではなかった。』と、心から思った。

 

彼は暗く涼しい川底で、

最後の美しいひと時と戯れたあと、

そっと目を閉じた。

 

川岸の釣り人はそれを見て、

まるで何かを感じたようにしゃがみ込み、

川でジャブジャブと手を洗うと、

 

『今日はさっぱど釣れねがったじゃい、

   もう、家さ帰るとすっぺし。』

(今日はさっぱり釣れなかったな、

もう家に帰るとするかね。)

 

そう呟いて、釣竿をたたみ

川岸の道を、里の方へ帰っていった。

 

東北地方、奥羽山脈の北の果て、

緑がうっそうと生い茂る白神山地の奥深く、

 

ブナの原生林は梅雨明けの雨露を

初夏の光にキラキラと揺らしながら、

遠くから吹く涼やかな山風を、

渓流へと運んでいた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終わりーーー

 

f:id:seiteisama:20190614143805j:image

カツレツ『たけだ』で打線組む。

上智大生にはお馴染みの名店。

しんみち通りにある カツレツ『たけだ』

私自身、四ツ谷で長く一人暮らしを

していたこともあって、

この店にはよく来た。

 

この店はいつも、お腹を空かせた

サラリーマンとOLで満席だ。

お昼時には長蛇の列が出来る。

私も、もう数えきれないほど並んだ。

雨の日も風の日も、

2、3年前に大雪が降った日も、

肩を凍らせながら、並んでいた。

 

しかし、残念なことに

上智大生はなかなかこの店に入らない。

確かに学生には高いのかもしれない。

この店には千円以下のメニューは殆どない。

だが間違いなく、ここはうまい。

 

東京で美味しい店には何軒もいったが、

このカツレツ『たけだ』こそは、

『私が最も、愛をもって通った店』

だと言ってもいい。

 

私は列に並びながら目を閉じて考える。

『今日は何にしようか。』

ダメだ…、どうしよう。やっぱり決まらない。

極めて幸福な迷いだ。

メニュー表をもったおばさんが

私の注文を聞きに来るまであと少し、

どうしても決められない私は遂に、

 

                メニューで打線を組むことにした。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1番 センター 『ポークカツレツ定食』

f:id:seiteisama:20190417015517j:image

 

これぞ『たけだ』という要素が詰まった一品。

妥協のない最高級オイルでジュワーっと

サクサクにあげられた美しい衣。

噛むと、丁寧に処理された分厚いポーク。

綺麗な脂に絶妙な塩加減。

洋食屋のデミグラスソースがとにかくうまい。

白いご飯をデミグラスで汚しながら、

ゴマドレッシングのかかった

綺麗な千切りキャベツと一緒に食す。

 

さすが1番センター、圧倒的な出塁率

ここは絶対にハズせない。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2番 セカンド 『カニコロミックス定食』

f:id:seiteisama:20190417021935j:image

 

『たけだ』といえばトンカツ。

そんな事を言ったヤツは、まず素人。

そもそも『カツレツ』とはフランス語で

衣で揚げたもの全般を指す言葉である。

故に、カニクリームコロッケもエビフライも

白キスのフライも全て『カツレツ』である。

この店はとにかく、クオリティが高い。

白ギスのフライは忘れられない味になる。

洋食屋 伝統のタルタルソースで

『シブい仕事人』を味わって欲しい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3番 ピッチャー 『もちぶたロースカツ定食』

f:id:seiteisama:20190417022606j:image

 綺麗なひと皿だよ。まったく。

いつでも4番を打てる実力がありながら、

綺麗なセンター前ヒットで満腹に貢献。

テキサス岩塩をかけて食べる。

『塩で食べるトンカツ』

売り切れになる前に是非、食べて欲しい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

4番 サード 『ビーフカツレツ定食』

f:id:seiteisama:20190417015557j:image

 

これですよ、これ。

レアなビーフに、ガツンとデミグラスソース。

圧倒的なパワーで黙らせる。

説明不要、不動の4番打者。

私は1日に2回食べにいった事もある。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

5番 レフト 『牡蠣バター定食』

f:id:seiteisama:20190417023346j:image

 

美味すぎて頭おかしくなるから気をつけて欲しい。

惜しげもなく使用された高級なバター。

店長が仕入れた新鮮な大ぶりのカキ。

あと、申し訳程度に付いてくる一枚のベーコンが

また良い味を出してる。

破壊力抜群の長距離ヒッター。

冬季限定なのが悔やまれる。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6番ショート『ポークサルサ定食』

f:id:seiteisama:20190417023713j:image

 

『たけだ』の紅一点。

ピリ辛サルサソースの酸味と

カツレツの脂っぽさが相性バツグン。

私自身、『あっ、この店は本当に凄いな』と

思ったのが、実はこの一皿。

パワーのゴリ押しじゃ芸がない。

ちゃんと引き算が出来る憎いヤツ。

痒いところに手の届く6番バッター。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

7番 ファースト 『大きなメンチカツ定食』

f:id:seiteisama:20190417024230j:image

 

通称『大メンチ』。

メンチカツの肉汁とデミグラスが最高。

普通のメンチカツだと物足りない人向け。

特大まではいかないけど、大満足の一品。

隠れた人気メニューで、

注文の時に『大メンチ!』って頼んでる奴は、

『こいつ…デキる…』となること間違いなし。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

8番 ライト 『シャケコロミックス定食』

f:id:seiteisama:20190417025647j:image

 

サーモンフライとカニクリームコロッケ

ホクホクのサーモンがタルタルソースとよく合う。

どうしてこれを早く食べなかったんだ。

私の『たけだ』メニュー完全制覇、

最後の一皿はコイツだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

9番 キャッチャー 『ポークジンジャー定食』

f:id:seiteisama:20190417024611j:image

 

『たけだ』はカツレツだけじゃない。

焼き物だってうまい。

この一皿がすごいのは、

『キャベツがダントツで旨くなる』という事。

カツレツでは、どうしても

キャベツが生っぽい。

でも、この一皿には生姜ソースがある。

それが千切りキャベツの山を、

下から染み込んでいって、

食事も終わりに近づくほど旨くなる。

圧巻の頭脳プレイ。

生姜ソースではなく

デミグラスソースがかかった

ポークソテー』も非常におすすめ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、並んでいたらおばさんが来た。

いよいよ注文だ。

でもダメだ、やっぱり決まらない。

                                                                終わり

雪解けを待つ女

 

ミッキーが死んだ。

 

本当に、突然だった。

彼は四年前の年末、

自宅の風呂場で心臓発作を起こして、

そのまま死んだ。

 

彼とはひょんなことから

中国の上海で知り合い、

それからまた縁あって、

この新宿 歌舞伎町で再び会うことになるのだが、

倍近く年齢の違う私のことを、

なぜか優しくお世話をしてくれた。

彼は紛れもなく私の友人であり、

東京においての兄であり、そして父だった

 

2014年の年末、

私は深夜に突然かかってきた電話で

彼の急死を告げられると、

急いで家を飛び出してタクシーに乗り

四ツ谷の家から歌舞伎町のはずれにある

彼のマンションへと飛んだ。

 

ミッキーはもう動かなくなっていた。

当時、彼と一緒に暮らしていたゲイが

風呂場で彼が死んでいるのを発見したらしい。

バスタブからだらしなく垂れ下がった

彼の男らしい左手の近くには

焼酎の瓶が転がっていた。

 

現場は、救急隊はもちろん、

歌舞伎町という場所もあってか

事件性を疑われていたため、

現場の風呂場には、

紺色の制服の警察官が何人も集まっていた。

 

息も絶え絶えで到着した私は

警察官の制止を振り切って、

力づくでミッキーのそばへ行こうとしたが、

結局、警察官に押さえ込まれ、

彼の身体に残った最期の温もりに

触れることは叶わなかった。

 

警察官によって部屋から追い出された私は

12月の寒空の下、

彼の部屋の前で、玄関の冷たいドアに

額を擦り付けながら

泣き続ける事しか出来なかった。

 

結局ミッキーの死因は、

入浴の際に飲酒をしたことによる

血圧上昇が原因で引き起こった心臓発作。

通称 ヒートショック というらしい。

 

若い頃から大酒を飲み、

不摂生な生活を送った彼は、

酒はもちろんあらゆる食べ物を

医者から止められていた。

『もう海藻しか食べられない。』

そんな噂を聞くことも、しばしばあった。

 

だが、私が彼と一緒にいて、

彼が節制してるのなんて見たことがない。

酒は人より飲むし、ラーメンだって食べた。

 

ミッキーは誰よりも他人に優しく、

そして頭のキレる男だった。

そんな彼なら自分の身体のことぐらい

正確に把握し、

もし酒を飲みながら風呂に入れば

ヒートショックで死ぬことぐらい

容易に察知出来たはずだ。

 

では何故、彼はあの晩

風呂場で酒を飲んでいたのだろう。

私の中にはずっと、その疑念があった。

 

数日後の彼の通夜で、

私は冷たくなった彼の白い頬に手を当て

『なんで酒なんか飲んだのさ…』と

また涙の粒を棺桶の中に落とした。

 

しかし結局、彼が単なる『事故死』なのか、

それとも計画的に行われた『自殺』なのか、

今となっては誰にもわからない。

 

四年前の2014年12月、

年末で活気づく

歌舞伎町の喧騒の中で、

ほとんど誰にも知られることなく、

ひとりのオカマがひっそりと死んだ。

 

私の大好きだった、

ミッキーが死んだ。

                                             

                                                 4年後へつづく

 

f:id:seiteisama:20190404233512j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

2018年、12月の中旬、

毎年恒例、年末独特のお祭りムード。

クリスマス、忘年会、各種イベントで

街の街路樹や店頭に飾られた

シャンパン色のイルミネーションが

東京の冬の夕暮れをキラキラと飾っていた。

 

本当に、自分の自堕落さには呆れてしまう。

東京で一人暮らしを始めて

もう7年目にもなろうとしているのに、

また電気水道ガスを止められてしまった。

 

とにかく金がない。

 

ろくにアルバイトもしないような

ただの大学生なのだから当たり前だ。

 

しかし、この問題の本質は

単に金がないことではない。

 

きっと私は、

ひと月に100万円の収入があったとしても、

また同じように

公共料金を払い忘れるだろう。

 

少しここで言い訳をしておくが、

うっかり忘れるのではない。

払わなければいけない、と分かっていても

やっぱり払わないのだ。

 

自分の洋服や靴、美味しい食事、

友達との飲み会や遊びに、誰かへのプレゼント、

あるいは語学を身につけるための書籍など、

そういった生活を『豊か』にする物のためには

惜しげも無く金を払える。

しかし、電気水道ガスの公共料金など、

最低限の生活を『維持』するためのものには、

どうしても、あっさり払う気にならないのだ。

 

これが、この自堕落の本質的問題である。

 

幸い、今年の東京は暖冬なので

電気がなくても生死を彷徨う程ではないが、

この楽しい年末に、

電気がない。というのは、

あまりに寂しすぎる。

 

もし仮に、他のみんなも貧乏なら、

自分の貧乏もそれほど苦ではない。

 

もし仮に、他のみんなも退屈なら、

自分の退屈もそれほど嫌ではない。

 

人間とは、得てしてそういうものだ。

 

状況を整理すると、

みんなが年末のお祭りムードで楽しいのに

自分だけが電気もない部屋でじっとしている。

それが私には、どうにも耐えられなかった。

 

今から日雇いのアルバイトで働くのは

得策ではない。

なぜならその金が手に入る頃には、

楽しい年末はすでに終わっている。

 

即座に金が手に入らなければ意味がない。

 

私は部屋にあった、

いらない洋服を売ることにした。

 

クローゼットから『もう着ないな』と

思われるものを直感的にベッドの上に

ポンポン放り出した。

 

幸い、無駄な洋服は山のようにある。

確かにその洋服の一つ一つに、

思い出のようなものはあるが

それは今は無視して、

サヨナラをする洋服を無慈悲に選び取った。

 

すると洋服の胸ポケットから、

無視できない思い出が、ポロリと落ちた。

 

それは一枚の、ある店の名刺だった。

 

ミッキーが死ぬ数ヶ月前、

彼が居酒屋で私に言った。

『もしあんたが何かで困った時、

   そこに私がいなかったら

  ここのママに面倒を見てもらいなさい。』

 

私は当時、それをミッキーの軽い冗談として、

ヘラヘラしながらこの名刺を受け取ったが、

その数ヶ月後、

悪い冗談のように、ミッキーは死んだ。

 

少しの間、そんな思い出にふけった後

その名刺を財布に入れて、

先程ベッドに集めた無駄な洋服の中から

少しでも良い値が付きそうな、

トムフォードのジャケットと

ミシェルクランのセットアップスーツなど

他にも何点かを選びとり、

むかし、渋谷のZARAで買った時に付いてきた

大きなショッピングバッグに入れた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

新宿へ向かう総武線の中で、

大きなバッグを抱えながら

財布に入れた先程の名刺を見た。

 

『Bar Lounge 〜暁〜

   オーナー 兼ママ   麗子 』

 

私自身、歌舞伎町に関しては

大分、詳しい方だが

聞いたことのない名前の店だった。

おおかた、キャバクラかガールズバーだろう

そう勝手にアタリを付けて、

『この洋服が高く売れたら、覗いてみようかな』

と少し楽しみにしながら、

大きなバッグを抱え、

新宿へと向かう総武線に揺られていた。

 

f:id:seiteisama:20190404233558j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

思い出の洋服たちは、

私の想定より、少し高いぐらいの値段で売れた。

 

『高価 買取 大黒屋』と書いてある

オレンジ色の看板を

私はそそくさと後にした。

 

冬の東京 新宿は

5時というのに真っ暗だった。

昼間のトラックの音や、

家族で爆買いを楽しむ中国人たちの

明るい喧騒は、もうそこにはない。

 

辺りはすっかり、暗くなり

ネオンが宵闇にあやしく灯る。

私たちが好む、夜の新宿になっていた。

 

こうしてなんとか3万円を手にした私は、

西武新宿駅前の喫煙所で一服しながら

公共料金のコンビニ用払い込み用紙を眺め、

『うーん、まだ払わなくていっか、』と

それをポケットの中に押し込んだ。

 

ある程度の金を手に入れ、

少しの心の余裕もできた私はふと、

朝から何も食べていないことに気づいた。

ぶらぶらと歌舞伎町を散策し、

良さそうな食事処を探した。

 

何を食べるかも決まっていなければ、

何を食べたいかも、分かっていない。

とにかくお腹だけが空いている。

 

私の経験則でしかないが、

大抵の人間にはこういう時

ニンニクの香りが魅力的に感じる。

 

やはり私の経験則は当たっていて、

汚れた路地裏の排気ダクトから出る、

イタリアンな香りを含んだ温風、

炒めたガーリックの香りに鼻が引かれた。

そういうわけで、

ここら辺では知る人ぞ知る

地下にあるパスタ屋『影虎』に

入ることに決めた。

 

頼むものはすでに決まっていた。

海老のジェノベーゼパスタ 大盛り 1300円

 

確かに値段は割高だが、

本場イタリアから取り寄せた

この店専用のもちもちパスタに

プリプリの大ぶりな海老が7個も入ってる。

美しいペパーグリーンの

ジェノベーゼソースがほんのり炒めた

オリーブオイルとガーリックによく合う。

 

お腹が空いていたのもあって、

300グラムのパスタも一気に平らげた。

 

食後に出されるコーヒーを飲みながら、

タバコに火をつける。

 

私はまた、財布の中から名刺を取り出した。

 

ミッキーの声を思い出していた。

 

ミッキー『もしあんたが何かで困って、

                それでもしその時、

                あたしがこの世にいなかったなら

               この店のママを頼りなさいね。

               優しくて明るい、いい人だから。』

 

私『へぇー、誰なの?この人?』

 

ミッキー『昔からの知り合いね…』

 

私『えー?もしかしてミッキーの彼女?』

 

ミッキー『あたし、ゲイだけど?』

 

私『ははっ、だよね。』

 

一応、3万円あるし

金のほうは当面は大丈夫そうだ。

ミッキーの心配した

『私が何かで困った時』にはあたらない。

 

でも、私の中で

その『ママ』が妙に気になった。

 

ミッキーの昔の知り合いってことは、

今は42、43ぐらいだろうか?

どんな顔で、どんな姿の人なんだろう、

ミッキーの知り合いだから、

どうせ男か女か分かんないような

見た目のオバさんだったりして…、

 

そんな事を考えていたら、

うっかりタバコの灰を落としてしまった。

慌ててその灰を払ったあと、

会計を済ませてパスタ屋を出た。

 

階段を登って地上に出ると、

いくら暖冬の東京とはいえ、

12月も残すところ、あと10日ほど、

流石に冷たいビル風が吹いてくる。

 

私は首に巻いていた紫色のマフラーの端を

黒いロングコートの中に押し込み

コートの襟を立てて、風を遮った。

 

時刻は夜の7時。

さぁ、どこへ行こうか、

新宿には暇を潰せるところなんて

本当にいくらでもある。

 

デパートの伊勢丹でも見ようか、と思ったが

さっき大黒屋で洋服を売っておいて、

また洋服を見るのもなんだか気が引ける。

 

映画を見ることにした。

そういえば、私が好きなバンドQUEEN

ボヘミアン・ラプソディ』もまだ見てない。

 

私は歌舞伎町を北へ、

TOHOシネマズのある

ゴジラタワー(旧 コマ劇前)の方へと

向かって、とことこ歩いていった。

 

あのフレディ=マーキュリーを

若手の俳優が、

一体どれくらい真似できるのか楽しみだ。

 

私はふと、ある事に気付いてしまった。

 

『また…、ゲイじゃんかよ…。』

 

f:id:seiteisama:20190405021151j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

映画もあっさり見終わってしまった。

時刻は10時、

忘年会シーズンというのもあり、

ゴジラタワー前の広場には

居酒屋から出てきたサラリーマンの集団が

溢れかえっていた。

 

『ちょうどいい時間になったな』

私はひとりでそう呟いて、

またあの名刺を見た。

 

キャバクラなど、水商売の開店時間は

大体5時と相場は決まっている。

しかし開店と同時に来る客は少ない。

店が活気を帯びてくるのは、8時以降。

そこから深夜一時までの営業時間。

現在の10時という時間は店に向かうのであれば

ほとんどベストに近い。

 

私は名刺に書いてあった住所へと向かった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

歌舞伎町の区役所通りにある雑居ビル。

エレベーターで6階に上がる。

 

エレベーターのドアが開くと、

通路には

キャバクラ、スナックにガールズバー

さらにはサパークラブなど、

ありとあらゆる水商売系の看板が見えた。

 

私はこのフロアの奥から2番目の店、

ピンク色のネオン看板で

Bar Lounge 〜暁〜 と書いてある。

私はそのドアの正面に立って、

辺りを見渡した。

 

おそらくまだ昭和の頃に建てられたであろう

このビルの通路の壁は、

岩肌をイメージしてデザインされたのか、

妙に灰色でゴツゴツとした

コーティングが施されている。

 

その石の壁には、

ちょっと不釣り合いな、

少し小さめの木製のドア。

 

どんな店なのだろう、不安だ。

 

私はそのドアノブに手をかけつつ、

耳をドアにそっと近づけて、

中の音を探ろうと試みた。

 

中からは、どうやら

サラリーマンらしきおじさん達の

酔った笑い声がうっすらきこえてくる。

 

私は少しの安堵感を取り戻して、

ドアを『カランッ』と開けた。

 

店の中は思いのほか暗く、

間接照明の青い光が

テーブルの下や花瓶の後ろから差している。

 

奥の方に細長い店だった。

入って正面のL字型のカウンターは

店の奥でカクンと右手に折れていて、

その奥に5人がけのボックス席が2つある。

 

カラオケ用のテレビ画面が3台

散り散りに店の壁に張り付いている。

 

キャストの年齢は見る限り

一番若くて20代後半、

あとはほとんど30代らしく思われた。

 

ドア正面のカウンターにいた若めの女性に

『いらっしゃいませー!

   このお店は、初めて…ですか?』と聞かれたので

『はい、そうです』と答える。

『こちらにどうぞー、』と

そのまま正面にあった席に通された。

 

簡単な料金システムの説明があって、

最初のドリンクを聞かれた。

私が『一杯目だからビールで』と答えると、

女性は『はーい』と言って

バックヤードの方へビールを注ぎに行った。

 

ビールを待つ私は再び店内を見渡す。

『どの人が麗子ママなんだろ…』と

女性キャストを見回しても、

それらしきオバサンはいない。

 

先ほどの女性がビールを持って帰ってきた。

私は少し疑いながら小さくビールを飲んだ。

 

私がキョロキョロしていたせいか

『可愛い子いました?』と聞かれてしまった。

 

私はその女性と話しながら、

もう少し、この店の様子を伺うことにした。

 

何年前からこの店があるのか?とか

この店に来る客層は?とか、

他愛もない話にも、

とうとう行き詰まっってしまった私は

遂に『ママって、今日は休みなの?』と聞いた。

するとその女性はバツが悪そうに、

『あー、ママは…あの人です。

   ほら、電話の前に立ってる…。』

 

私は彼女に促されて、そちらに目をやった。

 

若い。

見た目は30代前半のようだった。

客はかなり入っているが、

どの客にも付かず、電話の前で、

ただ黙って立っている。

 

ヒールを履いていてよく分からないが、

身長は165,6センチといったところだろうか、

スリムですらっとしている。

クールな目元にツンとすました鼻筋。

色白な顔に暗めのブラウン系の口紅。

ウェーブのかかった黒髪のロングヘアーが

雪女的な美しさを醸し出していた。

 

私『綺麗な人だね』

女性A『そうですねー、でもあー見えて

            ママ、40超えてるらしいですよ?』

私『へー!全然見えないね!ほんとに綺麗。』

女性A『綺麗は綺麗なんですけど…』

私『ん?何かあるの?』

女性A『実はママ、喋らないんですよ。全然。』

私『あー無口なんだ。』

女性『無口とか、そんなレベルじゃなくて、

          ほんとに全く喋らないんですよ。

         私この店に来て、もう一年経つんですけど、 

         未だにどんな声なのか分からないんです。』

私『えー!それはよっぽどだね。』

女性『いつもあーやって、黙って立ってるから

        なんか他の女の子達も、

      ママに気を遣っちゃうっていうかなんていうか

       悪い人じゃないんですけどね?

      良い人か悪い人かも、分かんないって感じ』     

私『たしかに、接客業としては異常だよね。』

女性A『でも古いお客さんは皆さん、

          ママ目当てで来るんですよ。

          毎回、眺めてるだけで一言も話さないのに。』

私『ふーん、マネキンみたいだね。』

女性A『あっ、でもチーママのなつみさんなら

             ママと話したことあるかも!

             たぶん次、この席着くと思います。』

私『うん、分かった。ありがと』

 

私はそう言って乾杯し、彼女を見送った。

たしかに彼女の言った通り、

私の席にはチーママのなつみさんが来た。

なつみさんはシャキシャキした振る舞いで、

いかにも人当たりの良さそうな

チーママ向きの女性だった。

 

なつみ『えっ?ママの話?うーんそうねぇ。

            この店ができたのが大体10年ぐらい前で、

            その時から静かな人ではあったんだけど、

            さすがに今ほどじゃなかったと思う。  

           ご飯にも連れてってもらったことあるし。

            でもここ3、4年前からかな?

          業務以外のことは話さなくなっちゃったの』

私『へぇ、麗子ママになんかあったのかな?』

なつみ『えっ!お兄さん初めてなのに、

             よくママの名前知ってるね!』

 

私は『まずい』と思った。

ここでミッキーから渡された

名刺の事を話すと

少し面倒になると思ったので、

適当にごまかしておいた。

 

私『ねぇ、ママとお話って出来ないの?』

なつみ『出来ないことはないけど、

             たぶん何も話さないと思うよ?

             でも一応、ママ呼んでみようか?』

私『うん、お願いします。』

 

なつみさんはカツカツとヒールを鳴らして

麗子ママのそばへ近寄って

私が話したがってる旨を伝えると

なつみさんはそのまま、

奥の賑やかなおじさん達のテーブル席へと着いた。

 

なつみさんが去って、

空になった私のカウンターの向かいには

期待通り、麗子ママが来た。

 

f:id:seiteisama:20190405021513p:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ママ『いらっしゃいませ』

 

麗子ママは落ち着いた小さな声で私に言った。

 

女優の稲森いずみを少し

疲れさせたような雰囲気の彼女は

私の焼酎水割りを作りながら、

 

麗子ママ『ウチのお店は初めてですか?』

私『はい。そうです。紹介されて』

 

私は財布の中に入っていた名刺を見せる。

 

麗子ママ『これ、ずいぶん昔の名刺よ?…

                 誰からの紹介?』

 

私は遂に、コレをいう時が来たと思った。

 

私『ミッキーからの紹介』

麗子ママ『ミッキー?ディズニーの?』

私『いやいや、ゲイのミッキー』

 

ずっと氷のように無表情だった彼女は

少しだけ、ぽかんと口を開けたかと思うと、

すぐに驚いたように目を見開いた。

 

やはり、この人とミッキーは

知り合いらしい。

 

ミッキーを知る人間は、

この歌舞伎町でもきわめて少ない。

たまにいたとしても、

ゲイバーやオカマバーの店員。

ましてや、こんなに綺麗なママが

ミッキーの知り合いにいるなんて、

 

『ミッキーの話ができる』

私はそれだけで、なんだか嬉しくなった。

 

確かに彼女はほとんど喋らなかった。

しかし、無口と言われるわりには、

私とミッキーが知り合った経緯や

歌舞伎町でお世話になった話を聞いていると、

少しだけ口元が緩くなったように感じた。

 

その後も酒を飲みながら、

ママと私、そして彼にまつわる

思い出話は尽きず、そのまま閉店を迎えた。

私も年末で少し疲れていたのかもしれない。

そのまま、カウンターで眠ってしまった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

次の日私が朝に目を覚ますと、

ベッドの上だった。

しかし自宅のベッドではない。

 

殺風景な白い部屋に私はいた。

白い壁紙に白いフローリング

8畳ほどのこの部屋には、

ソファと冷蔵庫など、

生活に必要なものしかない。

本当にあとは、何もないのだ。

気分を変えてくれるような彩りのカーテンも

愛着が湧くようなぬいぐるみもない。

 

まるで、『人生がつまらない』と

この部屋が言っているかのようだった。

 

その退屈な部屋の主が、

ガチャリ、とすずりガラスの扉を開けて

シャワー室から出てきた。

濡れた黒髪をタオルで拭きながら

キャミソール姿のすらっとした女性、

麗子ママだった。

 

ママ『おはよう』

私『…、』

ママ『覚えてないの?昨日のこと』

私『え?あ、いや全然』

ママ『ふーん、』

私『え?昨日、何かしたっけ?』

ママ『何もしてないわよ』

私『あー、よかった。』

ママ『倍も近く年の離れたあなたに、

          興味なんてないわよ。それに

      『あの人』の友達に手を出すわけないでしょ?』

私『ああ、ミッキーね』

 

話を聞いていくと、どうやら私は

昨日ママの店で飲み過ぎて、

そのままお店で眠ってしまったらしい。

それをママがタクシーで

この部屋まで連れてきてきてくれたようだ。

私は白いシングルベッドに寝ていた。

じゃあママは?どこで寝たんだろう、

そこのソファだろうか?

でも大人が一人で横になるにしては

そのソファは小さすぎる気もする。

 

私は自分の枕を確認した。

今、私が頭を置いてる枕の横に、

四角いクッションが置いてあった。

かすかに女性の髪の匂いもする。

 

私『ここ、ママの家?』

ママ『そうよ?なんで?』

私『ん?なんか、やけに物が少ないから』

ママ『そうね、確かに。

         昔、色々と捨てちゃったの』

私『どうして?』

ママ『さぁ、』

 

私はシャワーを浴びるよう、ママに促された。

シンプルなシャワー室には

どこにでも売ってあるような

シャンプーとトリートメント、

そして石鹸の香りのボディソープのボトルが

3つ並んでるだけ。

殺風景なシャワー室には水カビひとつない。

給湯の設定温度は38度。正直ぬるい。

いつもより少し長めにシャワーを浴びたあと

髪をタオルでゴシゴシやりながら、

そのシャワー室を出た。

 

部屋の中にはコーヒーの香りが充満していた。

ママは先ほどのキャミソールから

スカートとニット姿になっていた。

これまた何の装飾も柄もない、

チャコールグレーのスカートに、

黒のハイネックニット。

 

ママ『はいコーヒー。

          インスタントだけど、よかったら。

           それともお水がいい?

          あなた二日酔いでしょ?』

私『うん、ありがと。お水も貰えると嬉しいな』

 

冷蔵庫から水の入ったペットボトルを

持ってきたママと2人並んで、

小さな二人がけのソファに座った。

 

茶色い合皮革のソファは安物なのか

お世辞にも。あまり良い座り心地とは言えない。

何より、まだママとの間に

若干の気まずさがあった。

 

ママ『あなた、家どこなの?この辺?』

私『うん、まぁまぁ近いよ。』

 

私はその時、ハッとある事を思い出した。

公共料金の払い込み用紙である。

昨日、まだ払わなくていいと思い、

そのままポケットの中に入れたのだった。

急いでポケットの中を確認するが、

見当たらない。

 

ママ『どうかした?』

私『いや、公共料金の払い込み用紙

      無くしたちゃったかも…』

ママ『あら大変ね、もしかして

        お家の電気でも止められちゃったの?』

私『…』

ママ『あら、』

 

自分の自堕落ぶりが

他人に明らかになるのは恥ずかしい事だが、

少しだけ、ママが笑ってくれたので

私の中の気まずさが少しは和らいだ。

 

それでもまだ、彼女には生気が感じられない。

 

ママ『もしかしたら、

         うちの店のゴミ箱に捨てたのかもよ?』

私『そうなのかなぁ』

ママ『今日取りにくれば?』

私『うん』

 

私はまたある事に気がついて、

財布を開いた。

そもそも公共料金を支払う金が

まだ残ってるのだろうか。

 

財布には2万6千円あった。

 

少しホッとしたと同時に、

昨晩ママのお店で飲んだときの

会計を済ませていないと分かった。

 

私『昨日の会計、まだしてないよね?』

ママ『そうね、でもいいのよ』

私『え?いいの?』

ママ『『あの人』から頼まれてるから、

          もしあなたが来たら、好きなだけ

           飲ませてあげてくれって。

          その分のお金は、大昔に頂戴したの。』

私『え?ミッキーが?』

 

コーヒーを飲みながら、

ママとしばらく話した。

時刻は、夕方の4時だった。

ずいぶんと寝てしまったようだ。

 

ママ『じゃあ、私もう行くから。

          お店開ける準備しないと、』

私『うん』

 

ママはそう言って私に部屋の鍵を渡すと、

細身の黒いダウンコートを羽織って

そそくさと出て行ってしまった。

 

私はほとんど知らない女性の部屋に、

ひとりで残される事となってしまった。

 

こういう経験は過去に何度かある。

勿論、ここまで素性の掴めない

女性のパターンは初めてだが。

 

女の部屋は男にとって、

なかなか面白いものだ。

見たことのない美容のスチーム機械や、

膨大な数の化粧品。髪を巻くコテ。

その全てが新しい気づきにあふれていた。

新しいハンドクリームを

勝手に手にとって塗ってみたり、

洗濯バサミにかかってるパンティを触って

こんなに軽いんだ!と思ってみたり。

 

でも、この部屋にはそれがなかった。

確かに、くまなく探せば

ハンドクリームもパンティもあるのだろうが、

心踊るようなものは1つもない。

ただ、白いベッドと茶色いソファとテーブル、

あと、なぜかこの部屋には似合わない、

『ラーメン怪獣 ブースカ』の小さな置物がある。

テレビもない、音楽をかけるオーディオもない。

気を紛らわす音といえば、

廊下のほうで洗濯機が

ゴウン、ゴウンとなるだけ。

ママは、本当にここで暮らしているのだろうか

まるで、綺麗な幽霊みたいな人だ。

まだ信じるわけにはいかない。

ソファには、ママが座っていた

おしりの跡がまだ残っている。

私は恐る恐る、そのくぼみに手を当てた。

その生温かさに私は少しだけ安堵した。

 

『ママは生きてて、何が楽しいんだろう』

 

素直にそう思ってしまった。

店ではほとんど誰とも喋らず、

家に帰ってもこの殺風景な部屋でひとり。

もしかして、

たまに来る若い男性客を酔わせて、

自分の家に持ち帰るのが趣味なのだろうか?

いや、それは考えづらい。

だとしたら、枕はちゃんと2つ持ってるはずだ。

 

そんな事を考えていると、

洗濯機がピーッピーッと鳴った。

 

少し面倒くさい思いはあったが、

私は一宿の恩義として、

その洗濯物を干してから、

家を出ることに決めた。

そこでやはり、彼女のパンティも触った。

意外にもピンクベージュのレースタイプだった。

 

f:id:seiteisama:20190405030243j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ママの部屋の鍵を閉め、

エレベーターで一階に降りて、

少し大きめのロビーを抜け、

マンションのエントランス出た。

 

四谷三丁目の交差点がすぐ目に入った。

見慣れた新宿通りには

年末で忙しい車がひっきりなしに流れていく。

 

私は後ろを振り返って、

出てきたママのマンションを見上げると、

意外と大きな建物であるのに驚いた。

 

『けっこう家賃高いぞ?これ賃貸かな?』

そう呟きながら新宿通りに向かって歩いた。

 

二日酔いの後の昼はお腹が空く。

今日は中華の気分だった。

 

新宿通り沿いにある

中華『寿楽』に入った。

 

私が前に、この辺りに住んでいた頃

朝の5時までやっている中華屋はとても貴重で、

飲み会終わりの帰り道は、

この店でよく夜食を食べていた。

 

ここには大木凡人にそっくりな

中国人のおばさんがいるのだが

今日は姿が見当たらない。

 

なるほど、

私はすぐに理解した。

昼だからだ。

いつも深夜にしか、この店に来なかった。

どうりで、あの大木凡人そっくりの

おばさんがいないわけである。

昼は全く知らない女性店員が、

忙しく、ガチャガチャと料理を運んでいた。

 

しかし、メニューは深夜も昼も変わらない。

何を食べようか迷った挙句、この日はいつもの

『海鮮タンメン&チャーハン セット』にした。

 

注文を済ませ、タバコに火をつける。

私はやはりママのことが気になっていた。

中華屋の大木凡人ママではない。

北川景子似のママである、

 

昨晩、ママの店のカウンターで、

確かに彼女も少しだけ喋ってはいたが、

基本的には私がずっと喋っていたので、

ママに関しては分からないことが、

まだまだ沢山ある。

この世のものとは思えない、

あの生気のない雰囲気。

ミッキーはママのことを

『優しくて明るい、良い人』と言っていたが、

一体全体、これはどういう事なのだろう。

 

そんな事をぼーっと考えていたら、

また、昨日のパスタ屋のように、

タバコの灰を落としてしまった。

が、今回は運良くセーフ。

灰皿の上だった。

 

女性の店員がせわしなく運んできた

『海タンセット』は

ここに住んでいた頃の味と

少しも変わっていなかった。

 

懐かしい味を一気に平らげて、

私は店の外に出た。

 

年末の新宿通りはタクシーが多い。

黒や黄色、緑やオレンジなど、

色とりどりのタクシーが、

まるでモザイク画のように通り過ぎていく。

それらの中にはどれ1つとして、

『空車』の赤い文字は見つけられなかった。

 

私は歩いて新宿へ向かうことにした。

 

新宿へ向かう道すがら、

私はあることを決心した。

ママからミッキーのことをもっと聞き出そう。

彼とどこで知り合って、

彼と何を話し、彼と何をして過ごしたのか、

なぜ彼から私の事を頼まれたのか、

 

そして、彼の死をどう受け止めたのか。

 

それを聞くことが、

私自身のためになると思った。

 

新宿通りを15分ほど歩くと、

すぐに東新宿まで付いた。

ママの店に行くには、

まだかなり時間が早い。

私はブラブラと街歩きをはじめた。

 

伊勢丹』のキラキラとした

美しいスーツや革靴を眺めて

いつかは自分で買おうと心を踊らせたり、

 

イシバシ楽器』で高いギターの試奏をして、

やっぱり自分の部屋の安物ギターとは違うな。

と、違いのわかる男を演じてみたり、

 

さまざまな美術用品を取り扱う

世界堂』では

見たこともない綺麗な色をした絵の具や、

一見、どう使うのか分からないような

彫刻用の金属のヘラなどを見て、

自分だったら、こう使うかな?と模索してみたり、

 

とにかく金を使わず時間を潰すなら、

東京で新宿の右に出る街はない。

 

時間はあっという間に過ぎて、

ママの店へ行くのに

ちょうどいい時間となった。

私は区役所通りでたむろする

黒人の客引きたちを横目に、

ママの店が入っているビルの

エレベーターに乗り込んだ。

f:id:seiteisama:20190405022059j:image    f:id:seiteisama:20190405022105j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

廊下を通って店のドアをカランと開けると、

昨日と同じ女性が『いらっしゃいませ』と

私を正面のカウンターへ案内した。

 

ビールを飲みながら少し待っていると、

ママが私のカウンターの向かいに来て

『探してみたけど、やっぱりなかったわ、』

と、あの落ち着いた小さい声で言った。

 

私は一瞬、

『ん?なんのことだ?』と思った。

 

そうだすっかり忘れていた。

私はそもそも、

公共料金の払い込み用紙を取りに

この店へと来たのであった。

しかし、もうそんな事はどうでもよかった。

 

私『そうか、残念』

ママ『そうね、でもどうするの?

          おうち帰っても電気つかないでしょ?

          今日も泊まっていく?』

私『お酒を飲んで、なりゆきで考えるよ』

ママ『あら、妙に落ち着いてるのね』

 

私はママの言った

『おうち』と言う表現が気に入らなかった。

子供扱いされてると思った。

だから、必要以上に落ち着いて見せた。

 

結局、その日も閉店まで飲んで

帰りはママとタクシーであの部屋へ帰った。

近くのコンビニで歯ブラシも買った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

今日もなんとか色々と話してはみたが、

まだ分からないことが多すぎる。

 

ママとミッキーは、よくカラオケに行って

朝まで歌っていた、とか。

 

カラオケの最後は必ず、

ミッキーのリクエストで

美空ひばりの『川の流れのように』を

ママが歌って締めるのが定番だった、とか

 

ママから聞き出せたのは、

そんなことぐらい。

 

私はママの部屋に帰ったあとも、

狭いベッドに二人で寝そべりながら、

また色々と質問したりした。

でも肝心の『ママとミッキーの関係』になると

ママは決まって『おやすみなさい』と

言い残して、寝たふりをしてしまう。

だから私も仕方なく

『おやすみ』と言って眠りについた。

 

今日と同じような生活が、何日か続いた。

昼は新宿などで時間を潰し、

夜はママの店で酒を飲んだ。

そのうちキャストの女の子や

常連のおじさん達とも仲良くなった。

 

ある日、

サラリーマン風の常連らしきおじさんが、

私のカウンター席の隣へ来るなり、

酔っ払った声で話しかけてきた。

 

常連『兄ちゃんすごいなぁ、

          ママとあんなに話せるなんて』

私『えぇ、まぁ。

   ちょっと共通の知り合いがいるもんですから』

常連『俺も昔はママと話せたんだけどさぁ、

          今はもうダメだ。眺めてるだけだよ』

私『いつ頃から話してないんですか?』

常連『うーん、もう3年とか4年になるな』

私『その前は普通にお話してたんですよね?』

常連『そうだよぉ!ママ、昔は明るくってさ!

          それであの綺麗な顔だろ?

          俺も若い時は結婚してください!

          なんて言っちゃったりして、

          飲んでない、シラフなのにさ!

          あと彼女、歌が本当にうまいんだよ!

          兄ちゃん知らないだろ?』

私『それは、全然知りませんでした。』

 

サラリーマンのおじさんはそう言って、

仲間達のいるボックス席へと帰り

女の子達のすすめで

最近のJ-POPの歌を大声で歌った。

 

年配のおじさんが最近の歌を

頑張って歌っているのは、

見ていて心が痛い。

しかもそのイタさに輪をかけて、

おじさんは歌が下手だった。

自分のリズムで歌うタイプ、といえば良いのか。

でも彼は楽しそうだった。

 

ママがバックヤードから戻ってきて、

私のカウンターに付いた。

 

私『ママ、昔は明るかったんだって?』

ママ『なにそれ?別に、今と変わらないわよ?』

 

あっさりとかわされてしまった。

なぜママが無口になったのか

聞きだす良いチャンスだったのに。

 

その日も同じように、

ママとタクシーで部屋へ帰った。

 

ベッドの上に、並んで寝そべりながら

私は彼女に聞いた。

 

私『ママが無口になったのってさ、

      ミッキーと何か関係あるんてしょ?』

ママ『さぁ、どうなのかしらね』

私『だって、常連さんも店の女の子達も

     ママが無口になったのは、三、四年前だって。

       ミッキーが死んだのも、その辺じゃない?』

ママ『さぁ知らないわ、おやすみなさい』

 

彼女はそう言って壁の方へ寝返りを打った。

私は思い切って、

彼女の左肩に手を当てると

そのとがった口の横にキスをした。

ほとんど何も考えずに、キスをした。

 

彼女もさすがに驚いたようで、

『なんなの?一体…』と

切れ長の涼しい目をぱっちりと開いている。

暗がりの中でも、それははっきり分かった。

 

私『そっち向いて欲しくなかったから、

   ねぇママ、お願いだからさ、教えてよ。』

 

彼女はやれやれ、とこちらに向き直った。

私は彼女のウエストに手を伸ばし、

その細い身体を、近くに引き寄せた。

彼女も彼女で、

白い両手を私の首筋に伸ばし、

優しくそっと掴んだ。

 

ベッドの上で向かい合いながら、

しばらく見つめ合った後、

 

私『やっぱりミッキーが死んだのと

      何か関係あるんでしょ?』

ママ『えぇそうね、たしかに』

私『やっぱり悲しかった?』

ママ『ええ、とてもね』

私『俺も、そうだよ。』

ママ『あなたとは、少し違う感情だろうけど、』

私『違うって?』

ママ『若い頃、付き合ってたの。彼と』

私『え?ママが?

     でも、ミッキーはゲイだよ?』

ママ『彼自身、それに気づいたのは35歳の時、

          それまでは、彼は普通の男で

          私たちは普通の恋人だったの』

私『なるほど、ミッキーはある日

      自分がゲイだって気づいて、』

ママ『そう、それで私、フラれちゃったの。

           二人で行った京都旅行でね。

           あの人から突然、その事を打ち明けられて、

          もう10年以上前のことね。』

私『その頃から、ママは塞ぎこんじゃったの?』

ママ『うーん、少しはそういう気分になったけど

         自分のお店のこともあったし

        そこから何年かは頑張って笑ってたわ』

私『でも、四年前にミッキーが死んで、』

ママ『そう…それで、もうなんだか、

        全部どうでもよくなっちゃったの』

私『ミッキーのこと好きだった?』

ママ『えぇ、』

私『今でも好き?』

ママ『そうね、悔しいけど。』

私『俺もだよ。今でもよく、

      ミッキーのことを思い出すことがある』

 

ママは私と抱き合ったまま、

そっと目を閉じた。

涙を隠すためだったのかもしれない。

 

私『明日さ、京都に行かない?

       お店、日曜は休みなんでしょ?』

ママ『え?あなたと?

          嫌よ京都なんて、わざわざ

       悲しくなりに行くようなもんじゃない』

私『行こうよ。

      京都で別れたその場所から、

      また新しく始めればいいんだよ。』

ママ『始めるって、なにを?』

私『止まってるんだよ、時間が』

ママ『私の?』

私『そう。だからまたその場所から始めなきゃ』

ママ『そんなことで、』

私『大丈夫だよ。絶対。』

ママ『はぁ、呆れた。まあいいわ。

         一応考えておく、

         お寝坊のあなたが、早起きできたらね』

私『起きるよ。必ず』

ママ『おやすみなさい』

私『おやすみ、』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

品川駅の京都行きホームは

思いのほか空いていた。

たしかに、いまは行楽シーズンでもない。

ましてこんな年末に国内旅行するなんて

普通はあまり考えない。

 

大勢の人々がせわしなく、

電車から降り、品川の街へ駆け出していく。

あくせく時計を見ながら改札へ急ぐ

スーツ姿のサラリーマンたちは、

現在、そして未来という

『時間』に追われていた。

 

ギラギラと銀色に光る

無数の腕時計が、

私たちの横を通り過ぎて、何処かへ行く。

 

ふと、隣に立っているママをみる。

彼女には、彼らのような『時間』がないのだ。

 

私たちの京都の旅は、

止まったままの『時間』を取り戻す旅であった。

 

f:id:seiteisama:20190405023424j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

東海道新幹線は私達を乗せて、

小田原を抜け、名古屋を過ぎる。

隣の席のママは、

黒くて細身の、丈が長いダウンコートを

膝にかけ、足を組んで座っている。

 

二人で車内販売の駅弁を食べながら、

ママがポツリと呟く

『この駅弁、確かあの人とも食べた…』

私がママの顔をちらりと覗くが、

クールなママは果たして懐かしんでいるのか、

駅弁が美味しいのか、

それとも不味いのかすら、分からない。

 

私はこの行きの新幹線で、

駅弁をむしゃむしゃ食べながら、

ある事を心に決めた。

 

私は、今からミッキーになるのだ。

 

この京都旅行で、

私は自分自身としてではなく、

ママにとっての恋人『ミッキー』の役を

できる限り全うしようと心に決めた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ほとんど京都に関しては素人の二人である。

現地での行き先は、

まるで修学旅行のような王道コースだった。

 

三十三間堂で千体の金色観音を見て、

その少しずつ違う一体一体の顔の中で、

お互いの顔がどれに似ているかを探してみた。

 

西本願寺では、境内に敷き詰められた

綺麗な白い砂利を

わざとザッザッと鳴らして歩き、

暖房もない、寒くて広い本堂で

正座しながらお坊さんの講話を聞く。

でもやっぱり途中でつまらなくなって、

『もう出ようか?』とひそひそ話し合い、

冷たくきしむ廊下を

今度は音を立てないように

こっそりと抜け出したりした。

 

西本願寺の横にある小さな食堂、

そこで食べる、

澄んだ色をした。関西風きつねうどん。

 

清水寺の、あの有名な舞台が

意外に傾いている事に二人で驚いた。

 

10年前、

ママがミッキーと旅をした京都の街を

全くそのままエスコートした。

 

彼女は旅先の所々で、

少しだけ冗談を言うようになった。

 

きっと私はママの彼氏に、

つまり、あの頃のミッキーには

とてもなりきれてはいないだろう。

ミッキーと私とでは、

姿かたちがまるで違うし、

そもそも彼が女性相手に

どういった振る舞いや声色で接するのかも、

一度も見たことがないし知らない。

 

それでも私は、

彼と一緒にいたころの

ママの表情に少しだけ触れることができた。

はにかみながら

冗談を言って笑う彼女は、

本当に20代に見えた。

私はそれだけで嬉しかった。

それだけに、ふと我に帰った時の

彼女の悲しそうな目を見るのが辛かった。

 

その夜、

私達二人は京都の繁華街、

新京極へ行って夕飯を食べる事にした。

 

着いてみると意外にも、

かつての繁華街であった

新京極はシャッター街となっていた。

ママが10年前、ミッキーと二人で飲んだ

赤提灯の焼き鳥屋も、

もう無くなってしまっていた。

 

ママ『時間が経ったんだもん、あたりまえよね』

 

時が止まったままの彼女には、

残酷な結果だった。

 

ミッキーとの京都旅行の再現は、

思わぬ形で終わりを迎えた。

 

『仕方ない』と呟くママの顔は、

あの氷の冷たさを取り戻していた。

 

私達はタクシーで

ホテルのある三条まで戻り、

その近くにあった、

いかにも京都のOLが好みそうな

ちょっと小綺麗な焼き鳥屋に入った。

 

通された大きなテーブルは、

白っぽい木材で出来た4人がけ。

ドライな質感の灰色の木のテーブルに、

凍ったままの彼女と向かい合って座った。

 

なんだか、また遠くなってしまった。

無闇に空いた4人テーブルが、

さらに心理的な距離を大きくした。

その隙間と、あと何かを埋めるように

私はビールの他にも、

焼き鳥盛り合わせ15本や

水炊きを注文した。

 

オシャレな店は、料理の出が遅い。

不安な私はたまらず、

すぐに出てきそうな

『ナムル盛り合わせ』を追加で頼むが、

それすらも出てくるのが遅い。

 

ママ『ちょっと、結局私が払うんだから、

          あんまりボカボカ頼まないでちょうだい』

 

その嫌味な冗談に、

清水寺での微笑みはなかった。

 

私『すみません、』

ママ『そんなに真に受けないでよ。

          好きなもの頼んでいいから、

         そんなに焦らなくていいってこと。』

 

なんとか間を埋めよう、という

私の考えまでも見透かされていた。

 

だいぶ待って、

ドサドサと料理が運ばれてくる。

ナムル盛り合わせは、結局、一番最後に来た。

 

私はママに、

ミッキーとは焼き鳥屋で何を食べたのか?とか

ミッキーとは焼き鳥屋でどんな話をした?とか

そんな事を聞いて、沈黙を埋めた。

 

もう『彼になりきる』なんて

青臭い意気込みは、とっくに消えていた。

 

しばらく話しても、

彼女の表情が変わることはなかった。

私は固まった雰囲気を紛らわすように、

タバコの箱を開けて、

一本取り出し、火をつけた。

 

ママ『それ、あの人の真似?』

 

彼女は唐突に、そう言った。

しかし何のことか分からない。

最初、タバコの銘柄の話かと思った。

でもミッキーが吸っていたのは

ラッキーストライク

対して私はセブンスターである。

 

私『えっ?なに?』

ママ『そのタバコの持ち方よ』

 

初めて気がついた、

私は中指と薬指でタバコを持つ癖がある。

それが、ミッキーと一緒だと言うのだ。

 

ママ『それに、』

私『え?まだなんかあるの?』

ママ『あの人、セブンスター吸ってたのよ?

          私と別れてから変えたらしいけどね』

 

そんな事、ミッキーの口からは

一度も聞いたことがなかった。

まったく意図しなかった偶然の一致に

私はあっけにとられてしまった。

 

ミッキーは私と過ごした日々の中で

かつて、自分が吸っていた

セブンスターを咥える私の姿を見て、

一体何を思ったのだろう。

そんな事が気になっていた。

 

ママは、その細身の体からは

想像出来ないほど食が太く、

焼き鳥も、水炊きもハイペースで口に運んだ。

歌舞伎町のお店ではほとんど飲まないのに

ここではビールもガツガツのんだ。

少し、やけ食いとやけ酒にも見えた。

 

2時間ほど経つと、

彼女の雪女のような白い頬も、

うっすら赤く染まっていた。

 

ママのカードで会計を済ませ、店を出た。

f:id:seiteisama:20190405023647j:imagef:id:seiteisama:20190405023830j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

焼き鳥屋からホテルまでは

歩いて3分もかからない。

彼女は酔っ払ってることを

私に悟られたくないのか、

私の歩く二歩前を早足でずんずん歩く。

 

ホテル内のロビーで

バーの看板を見つけた。

 

私『ねぇ、あのバー寄ってかない?』

ママ『ん、なんでよ。』

私『いいじゃん、まだ10時前だよ?』

ママ『そうやってまた夜更かしするから、

          あなたは『お寝坊さん』なのよ。』

私『せっかく京都まで来たんだし、

       ねぇ行こうよー。ここは奢るからさ?』

 

もうほとんど、なし崩し的に

ホテル内にあるバーに入った。

 

高級なホテルのバーは、

ビール一杯で1200円だった。

私はバーの暗がりで、

ポケットの財布の中身を確認した。

その結果、

当然チビチビやる事にした。

 

私はメニューを見ないまま、

ジントニックを濃いめで頼んだ。

『その店がいいバーかどうかは、

   ジントニックを飲めば分かる』

そんな言葉もあるわけで、

これを最初に頼むと、少しツウっぽくなる。

安いから頼んだとは、あまり思われない。

 

彼女もまた、メニューを見ずに

マティーニを注文した。

 

大きな一枚板のカウンターは

上質な赤茶色をしており、

そのトーンが暗い店内に良く映えた。

 

カウンターの向こうには、

琥珀色に輝くウイスキーやブランデー、

様々な色やユニークな形をした焼酎瓶などが、

一つ一つの佇まいはそのままに、

全体の不思議な調和をもって、

壁一面に並べられていた。

 

程なくして、私の前には

ボンベイサファイアで作った

細長いジントニック

彼女の前には

オリーブの実を沈めたマティーニ

コルクで出来たコースターの上に置かれた。

 

会釈するように乾杯すると、

ママは小さなマティーニ

ひと息で飲み干し、

オリーブの実をガブっとかじった。

 

ママ『気にしなくていいわよ、

          自分のお代は自分で払うから。』

 

私は胸を撫で下ろした。

ママはすぐに

スコッチウイスキーをダブルでオーダーした。

 

私『酔っ払ってるでしょ?』

ママ『ぜーんぜん酔ってない!』

私『それ酔っ払ってる人が言うやつだよ?』

 

その後もママはハイペースで飲み続け、

バーテンダーも『この人、大丈夫か?』

という顔色になってきたあたりで

ママは両ひじをカウンターに付いて、

がっくり頭を落として下を向いた。

 

私『ママ、大丈夫?』

ママ『うーん、だめ。このまま死のうかな』

私『だめだよ?ここで死んじゃ、

      お店に迷惑かかるでしょ?』

ママ『迷惑かかるだけマシよ』

私『?』

ママ『強がって、誰にも相談しないで、

      ひとりで死ぬヤツなんかより、よっぽどマシ。』

私『ママ。違うよ。ミッキーは…』

 

前後不覚とはこの事だろう。

ママの話は、脈絡が飛び始めている。

しかし、そういう時に限って、

普段は口にしない本音を話したりするのが

酒の力でもあった。

 

ママ『分かってるわよ。

        でも、最後くらい相談して欲しかった…』

私『…。』

ママ『あの人、ゲイになってからは

         それまでの友達もほとんどいなくなって、』

私『…。』

ママ『だからあの人、誰にも頼らなかった。

          グチぐらいこぼしたらいいのに。

          人に迷惑かけないようにって

          たった一人で生きて

          最後には、誰からも忘れられて、

          そうやって、ひっそりと死んでいったの。』

私『…。』

ママ『あの人が可愛そう…。

          だから、せめて私ぐらいは、

        ずっと悲しんでいてあげなきゃ。

         あの人が完全に消えちゃう気がするの。』

私『…でも…、だからってママが…、

    ママが暗い人生を送ることないんだよ?』

 

ママは私の言葉を聞いてか聞かずか、

そのまま、完全に頭をおとし、

カウンターの上にうなだれた。

 

その夜、彼女は始めて涙を見せた。

 

私は彼女の肩を担いで、

ホテルのバーを出た。

 

f:id:seiteisama:20190405023935j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

すれ違うホテルのスタッフからの

奇異の視線を浴びながら、彼女の肩を担ぎ

唐草模様のカーペットの廊下を進む。

 

『りょうちゃん、ごめんね?』

と舌足らずな口調でママがいう。

この時、初めて名前で呼ばれた。

 

部屋の鍵を開けて、ママをベッドに転がす。

 

酒を飲んだせいか、部屋がやけに暑い。

ベッドの上で『うーん、』と

ジタバタもがくママは

私よりも、もっと暑そうだった。

エアコンの暖房を切り、

床に落ちたママの黒いダウンコートを

クローゼットのハンガーにかけ、

ママの着ていたニットを脱がせ、

スカートを下ろす。

 

ママは、何を私のような若造相手に

気合いなんて入れてるのか、

かなり過激めの黒い下着だった。

 

そのまま素っ裸にしてやろうとも思ったが、

ママが苦しそうだったので、

ブラジャーのホックを外しただけでやめた。

 

ママをそのままベッドに転がして

身体の熱を逃がしたあと、

よく洗濯されたサラサラの羽毛布団をかけ、

私はシャワーを浴びた。

その後ベッドのある部屋に帰って、

ママがすっかり寝ていることを確認すると

そのサイドテーブルに

水の入ったペットボトルを置いた。

 

私もその日は濡れた髪のまま、

自分のベッドに入り、

考えごとをする間もないままに寝た。

 

f:id:seiteisama:20190404234245j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

朝、ドライヤーの音で目が覚めた。

 

開かない目であたりを確認すると、

もう、窓の外はすっかり明るくなっていた。

 

バスルームの方で、

ママが髪を乾かしているようだった。

 

昨晩、ママのベッドサイドに置いた

ペットボトルの水をちらりと確認する。

 

少しだけ減っていた。

 

ドライヤーから出る風の音が消えた。

ガタ、ガチャっと

テーブルに置く音が聞こえて、

その後すぐにママがバスルームから出てきた。

 

やはり、というべきか、

彼女は黒い下着姿のままだった。

 

ママ『あら、起きたの?』

私『うん、今ね』

ママ『昨日はごめんね?迷惑かけちゃって』

私『いや、いいってば。

      俺も前に同じようなことあったし。』

ママ『そうね、あなたが初めて

          ウチのお店に来た日ね?』

私『そうそう、それに昨日のこと

      覚えてないでしょ?おあいこだよ。』

ママ『覚えてるわよ?』

私『え?全部?』

ママ『もちろん全部。ブラ外したでしょ?』

私『へー覚えてるんだ。大したもんだね、

      あんなに酔ってたのに。』

ママ『あなたと一緒にしないで?

          場数が違うのよ。経験の差ね。』

私『はいはい。』

ママ『あなたこそ、よく起きたわね?

          いつもはお寝坊さんのあなたが』

 

『眠りが浅かったから』

とは言えなかった。

 

一見、ぐっすり寝てるようで、

実は一晩中、ママのことを考えていた。

 

ママ『やっぱり京都も冷えるわね。』

私『そうだね。エアコン入れたら?

      あと、そこのチャンネル取って。』

ママ『チャンネルじゃなくて

        『リモコン』でしょ?』

私『そうそう、リモコン』

 

彼女はテレビ横に置いてあった

リモコンを取って私のベッドに近寄ると、

そのまま、私の羽毛布団の中に入ってきた。

 

ママ『はい、『リモコン』。』

私『まったく、しつこいな。ありがと』

 

壁を背もたれにして二人で並び、

テレビの電源をつける。

中ではロケ番組のキャスターが

ハキハキとした京都弁で、

午前中の錦市場をリポートしていた。

 

下着姿のママと、はだけたバスローブの私。

 

もし今、誰かが部屋に入ってきたら

確実にセックスの後だと思われるだろう。

 

ちらりと横目で、

彼女の身体を見る。

40代とは思えない、細くて華奢な上半身。

控えめな白い胸元に綺麗な鎖骨。

 

おそらく確信犯だろう。

白い肌に黒下着の破壊力は

相当なものだった。

 

私『ずいぶんと過激な下着つけてたんだね。』

ママ『それで、昨日は

         外したくなっちゃったの?』

私『いや、あんたが苦しそうだったからさ。』

ママ『…したいの?』

私『いや、まさか』

ママ『どうして?おばさんだから?』

私『バカだな。ママは綺麗だよ?

      でもほら、朝だから。

      それに俺もまだ寝起きで髪ボサボサだし、』

ママ『冗談に決まってるでしょ?

         なに本気にしてんの?』

私『まいったな…』

 

まんまとやられたフリをして、

ベッドを降りる。

ジャンケンで後出しをされたら、

誰も勝てない。

 

ネイビーのベルベットジャケットに袖を通し、

黒のスラックスを履いた。

ホテルのスリッパを突っかけて

『タバコ吸ってくる』と言い残し

部屋を出た。

 

朝の身支度で

ざわついた雰囲気が漂う

ホテルの廊下を歩きながら、私はひとり

『危ないところだった…』と呟いた。

 

男女の交わりというのは、

膨大な『カマの掛け合い』である反面

その勝負は意外にも、一瞬で決まる。

 

無論、あんなに綺麗な彼女とセックスするのは

私としても、やぶさかではないが、

少なくとも今は、その時ではない。

 

あの頃から止まったままの、

彼女の『時間』を取り戻さなくては、

この旅の意味がない。

 

やはりミッキーから目を背けてはダメだ。

そう思った。

 

喫煙所でタバコの箱を開けると、

もう一本も残っていなかった。

そのまま部屋に戻っては、

なにかと不自然だと思い、

時間つぶしにスマホを開く。

これまた、充電がほとんどない。

 

残された時間は少ない。

直感的に悟った。

 

再び部屋に戻る。

彼女はまだ下着姿のままだったが、

この短時間で化粧直しを済ませていた。

 

素直に綺麗な女だな。と思った。

惜しいことをした。と思った。

 

私『朝食。バイキングがあるってよ。』

ママ『そう、じゃあ着替えたら行きましょ。』

 

少し他人行儀になったママの

身支度は思いのほか早く、

私が歯磨きを終える頃には、

既にコートまで着替えていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホテルのロビーは

朝の忙しさを詰め合わせたような

ざわめきに溢れかえっていた。

 

夜中は高級感のある、

落ち着いた佇まいのロビーも、

朝の忙しさの前には形無しである。

 

朝食会場はロビーのすぐ横だった。

高級ホテルの朝食がどんなものか、

楽しみだった私はまっすぐ会場に向かう。

 

ママは、少し足取りが重いように見えた。

 

私『どうしたの?具合悪い?』

ママ『…なんか恥ずかしくなってきた。』

私『なんで?』

ママ『だって私とあなたで、

         ほとんど倍も歳が離れてるのよ?

         若いホストに騙されてる

        可愛そうなおばさんだと思われちゃう…』

私『変なこと気にする人だね。』

ママ『だって…』

 

人数のピークを過ぎた朝食会場は

とても空いていた。

料理が盛り付けてある銀色の大きな皿は

朝の光を反射してたまにキラっと光る。

オレンジ、アップル、牛乳、アサイーなど

20種類ほどあるドリンクの大瓶は

まるで絵の具のパレットのようだった。

 

私はクロワッサン。フレンチトースト。

それにバターをスプーンで一欠片とると、

あとは定番のウインナーやスクランブルエッグ

ほうれん草とベーコンのソテーなど。

ドリンクの一杯目は珍しく、

コーヒーではなく牛乳を選んだ。

こういうホテルの牛乳は濃くてうまい。

 

料理を取るのに夢中になって、

ママを見失った。

 

テーブルに着いて、

牛乳を飲みながら彼女を待った。

 

彼女は思いのほか、すぐに来た。

 

和食だった。

 

ご飯と赤みその味噌汁。

鰆の西京焼きに京野菜の漬物の盛り合わせ。

あと温泉卵もあった。

 

私『和食なんだね』

ママ『なに?歳だって言いたいの?』

        あなたこそ、よくパンなんか

        食べられるわね。胃がもたれるわよ?

      それに、ほら京都だし。和食でしょ。』

 

私は『それがおばさんなんだよ』と言いかけて、

彼女と向き合って朝食を食べた。

 

何故だろう、洋食を食べる姿より

和食を食べる姿の方が品が出る。

 

彼女の箸の持ち方はとても綺麗で、

持ち上げた味噌汁のお椀に添えた右手に

私は強く、彼女の『女性』を感じた。

 

結局、ママの持ってきた京料理が美味しそうで

私もバイキング2周目は和食にした。

 

味噌汁は酒を飲んだ胃に染み渡り、

京野菜の漬物は程よい風味と歯ごたえで

咀嚼のリズムを作り出す。

 

パンとバターなんかクソくらえだ。

やっぱり和食が一番だ。

本当にそのぐらい思った。

 

そもそもホテルとは、日常にはない

『特別感』を得る場所だが、

そこでの朝は、より一層特別である。

 

結婚もしてないふたりが、

まだベッドで寝ている片方の布団を直し、

自分は髪を乾かし、化粧を直す。

朝のニュースを二人で見て、

ほんの小さなことで気まずくなり、

タバコを吸いに出て行く、

1つのテーブルに向かい合って朝食をとる。

自分の料理だけじゃない。

相手の飲み物も気にかける。

 

よく考えれば、何もかもおかしな話だ。

それだけ朝を共有するというのは

特別なことだ。

 

朝は、とことん無防備である。

互いのことを知ろうとした時、

たとえどんなに深い夜を過ごしたとしても

そこでは結局、互いが気を張っていたり、

下心を隠しながらカッコつけていたり、

ある種の『ポーズ』をとった上での

付き合いでしかない。

 

朝というものが持つ、

その無防備さの一点には、決して敵わない。

 

私はこの朝で少しだけ、

ママを知れた気がした。

それは彼女も、そうだと良いのだが。

 

f:id:seiteisama:20190404234658j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホテルのエントランスを出ると、

冬の京都の香りがした。

街を走る車が巻き上げる煙や、

朝のカフェから漂う香ばしい都市の空気。

そのどこか遠くでは、

線香にも似た煙の匂いが微かにあった。

 

私とママの二人はタクシーに乗って、

北野天満宮へと向かった。

 

神社の参道には、

クレープやお好み焼きなどの屋台が立ち並び。

その少し外れた柳の下では、

ゴザを敷いた骨董市が店を開いていた。

 

ママは、物欲がないように見えて

意外とその骨董市には興味深々だった。

 

私『好きなの?そういう古いの』

ママ『おばさんだって言いたいんでしょ?』

私『違うよ、ママも物とかに興味あるんだーって』

ママ『無いわよ』

私『え?』

ママ『ほら、『あの人』が

          こういうの好きだったでしょ?』

私『ミッキー?』

 

私は昔の記憶を辿っていた。

たしかに、ミッキーの店には

よく分からない中国の置物や

大きな青磁器があったような気がする。

 

ママ『私も、あの時は分からなかったけど

         今見たら何か良さがわかるのかな?って、

       でもやっぱりダメね、ちっとも分からない。』

私『無理に分かる必要はないよ。』

 

その後も、ママは骨董市の前にしゃがみ込んで

大きな陶磁器の皿や、古いキセルなどと

にらめっこしていた。

 

私は屋台の方へと戻り、

何か京都らしい食べ物がないか探してみた。

 

しかし、いかに京都といえど

縁日の屋台では、東京と何も変わらなかった。

 

大人しくチョコバナナを買って

ベンチに座って食べていると、

先ほど屋台の道を通った時には見えなかった

細い『小道』を見つけた。

 

ベンチから腰を上げて近づいてみると、

そのあまり整理されていない小道は、

奥へと続いている。

 

のんきにチョコバナナを食べながら、

その小道を奥へと進んだ。

 

そこでは骨董市のようにゴザが敷かれていて、

置かれている商品は、骨董までもいかない

昔懐かしのおもちゃなど、

ビニール製のフィギュアが並べてあった。

 

そのフィギュアの中に、

見覚えのある顔を見つけた。

 

ママの殺風景な部屋にいた、

『ラーメン怪獣 ブースカ』の置物である。

 

その愛くるしい、黄色くて丸いフォルム、

そしてこのマヌケな表情。

『ラーメン』と『怪獣』という絶妙なミスマッチ。

私も、一目みた時から欲しいと思っていた。

 

手に取って、足の裏の値段を見る。

『1500円』と書いてあった。

 

少し高いと思ったが、記念に買った。

ブースカは新聞紙で包まれて

私の黒いロングコートのポケットに収まった。

 

ママのところへ戻ると、

彼女はまだ柳の下にしゃがみ込んだまま、

骨董品とにらめっこしていた。

どうやら店の親父さんが、

しつこく売りつけようとしているようで

ママも引き際を見計らっているようだった。

 

私『そろそろ行かない?

      新幹線の時間もあるし』

ママ『ええそうね。もう行かなきゃ』

 

名残惜しそうな

骨董品店のオヤジさんを残して、

私たちはその場を後にした。

 

道路を流れるタクシーを拾いながら、ママに

『どう?骨董品の良さは分かった?』と聞いた。

彼女は間髪入れずに『全然!』と答えた。

 

京都駅へのタクシーに揺られながら、

旅は静かに終わろうとしていた。

 

ママは駅の売店で、

お店の女の子に配るお菓子を

何箱か買っただけで、

他にお土産は何も買わなかった。

 

帰りの新幹線に揺られながら、

ママは窓の外を見ていた。

 

私もこの旅が何だったのか、考えていた。

 

楽しくなかったわけではない。

むしろ楽しかった。

この京都で、無口なママの楽しそうな表情も

何度か見ることができた。

 

でも、これで良かったのだろうか。

 

当初の目的は果たせたのだろうか。

 

ママは、ミッキーと別れたままの

『止まった時間』を取り戻せたのだろうか。

 

彼女のために、私は何が出来ただろう。

 

そんなことばかりを考えていた。

 

私『ママの部屋にいるさ、ブースカの置物?

      あれ何?ママの趣味?』

ママ『あーあの子ね、けっこう可愛いでしょ?

         でも私が買ったんじゃないの』

私『誰かからもらったの?』

ママ『『あの人』がね、昔くれたのよ。

          あんなのどこで見つけたんだか、

          京都旅行の時にポロっと渡されたの。

          引越しする時に、何度か処分も考えたけど

          可愛いから捨てられなかっただけ。』

 

私はじっとりと冷や汗をかいていた。

驚きを悟られないようにしながら、

コートのポケットの膨らみを握りしめた。

 

ママ『だけどもう、あの子ともさよならしなきゃ

          見るたびに彼のこと思い出しちゃうから』

私『捨てちゃダメだよ』

ママ『なに?あなた、あの置物が欲しいの?』

私『違うよ。ミッキーのこと忘れなきゃ、なんて

      ママが思う必要ないってこと。』

ママ『そう、』

 

ママはそう言うと、

少し安心したのか、

私の肩にもたれたまま眠ってしまった。

 

私はひとり、東海道新幹線に揺られながら

流れていく景色を眺めていた。

 

この京都旅行といい、

セブンスターの事といい、ブースカといい、

単なる偶然なのだろうか。

 

ただならぬ、何か大きな力が、

私たちを、この京都へ呼び寄せたのだと

この時、改めて悟った。

 

ポケットの中のブースカは、

まだ、ママには見せないでおいた。

 

f:id:seiteisama:20190404234841j:image

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

夕方、新幹線が品川駅に着くと、

ママは『お店に行く、さよなら』と言って

旅行の名残り惜しさもなく、

あっさり山手線に乗って行ってしまった。

 

今日が年内、最後の営業日らしい。

 

ママを見送ったあと、

やっぱり私も山手線にのった。

ママを追いかけた訳ではないのだが、

 

もうママに会えないんじゃないか。

 

なんとなく、そんな気がしていた。

 

f:id:seiteisama:20190405024202j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

新宿に着いた。

もちろん東口、歌舞伎町である。

 

ママに、ブースカを渡さなければ。

 

でもお店に行くには、まだ時間が浅い。

幸い、歌舞伎町には知り合いは沢山いる。

私はアテもなく歌舞伎町をぶらつきながら

顔なじみのキャバ嬢やホスト、

居酒屋の主人やラーメン屋のオヤジたちに

年内最後のあいさつを済ませていった。

 

豚骨くさいラーメンをすすりながらも、

頭の中はママのことで一杯だった。

 

このままで、京都旅行は終われない。

でも、もう一度ママに会ったとして、

一体何を言えばいいのか。

 

『もうミッキーのことは忘れなよ』

違う。

『気晴らしに俺と付き合っちゃう?』

これも違う。

 

ママの心に刺さる一言を、

あーでもない、こーでもないと推敲するうちに

時刻は12時を回っていた。

 

f:id:seiteisama:20190405024245j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

もはや制限時間いっぱい。

ついに、『勝負』をしなくてはならなかった。

 

ママのお店に行くと、

年内最後の営業日ということもあってか

お客はいつもより多かった。

 

ママは相変わらず電話の前に立って、

表情も変えずに店内を眺めている。

 

彼女は私を見つけ、小さく手を振った。

 

ママと私はカウンターで向かい合って、

さっきまで一緒に旅行していた事を

周りには悟られまい、との思いで

不思議な『ぎこちなさ』を形成していた。

 

私はいよいよ、

ブースカの置物をポケットから出して、

彼女のテーブルの前にトンっと置いた。

 

ママ『なに?私の家から持ってきたの?』

私『違うよ。実は俺も買ってたんだ、京都で』

ママ『…、』

私『すごいでしょ?本当に偶然なんだ。

      昔、ミッキーがママにプレゼントしたなんて

     本当に、全然知らなかった。』

ママ『不思議ね。とても』

私『うん。本当に不思議なんだ。』

 

ママはブースカを手に持つと、

ブースカの足の裏にある値札シールを見た。

 

ママ『1500円…。意外と安かったのね、この子』

私『このお店にさ、コイツ置いてくれない?』

ママ『え?うちのお店に?』

私『そう。やっぱり嫌かな?

      またミッキーのこと思い出しちゃう?』

ママ『そうね。やっぱり…

         もう、いい加減に忘れなきゃ』

私『忘れなくていいと思うんだ。』

ママ『…?』

私『ミッキーのこと、忘れちゃダメだよ。』

ママ『えぇ、そうね。』

私『これを見ればさ、

     ひとりじゃないって思うでしょ?』

ママ『ひとり?』

私『ミッキーのことを覚えてるのが、

      ママだけじゃない。俺も思い出して

      一緒に楽しくなったり、悲しくもなれる。』

ママ『えぇ、たしかに』

私『そうやって、俺たち2人で

     彼のことをずっと忘れずにいようよ。

     この『ブースカ』が、その約束。』

ママ『…嬉しい。本当に。』

 

彼女はそういうと、壁面に並べられた

ブランデーやウイスキーのボトル棚に

ちょこん、とブースカを置いた。

 

ママの心に響く一言は、

推敲に頭を悩ませた割には

案外、すらすらと口から出てきた。

彼女は私の方を、なかなか振り返らなかった。

人差し指を鼻にあてがい、

小さくすすりながら泣いているようだった。

 

やっとこちらに振り返ったママは

目が少し赤くなってるのが分かった。

 

ママ『りょうちゃん。今年は本当にありがとう』

私『こちらこそ、迷惑かけてごめんね?』

ママ『うんうん、いいの。

          本当に長い間、死んだ彼の事ばかり考えて、

          時間を無為に過ごしてきたけど、

          今は少し、前に進んでいける気がするの』

私『愛する人の事を考えた日々は、

       無駄なんかじゃないよ。人生は長いよ?』

ママ『本当にそうね。

         まだ私の半分しか生きてないあなたに

         言われたくないけど。』

私『ねぇ歌ってよ。カラオケあるんでしょ?』

ママ『はぁ、私が?』

私『常連さんから聞いたよ、

      ママは歌がうまいって』

ママ『いやよ、何年歌ってないと思ってるの?』

 

私はママの返事も聞かず、

カウンターの端にあったデンモクをいじっていた。

 

店内に散らばった三台のテレビ画面は

古めかしいフォントで、

あの有名な曲名を映し出していた。

 

常連は『おっ!麗子ママ!!

            久しぶりに歌ってくれるのかい!?』

などと囃し立てるものだから、

客やキャストを含めた店の全員の注目は、

ママと私のテーブルに集まった。

 

チーママのなつみさんが、

気を利かせて店内の照明を下げ、

私とママのテーブルだけを照らしてくれた。

 

その頃、店内にはすでに、

おしゃべりなんかをして

歌を妨げるような人間はひとりもいなかった。

 

ママは渡されたマイクを静かに手に取ると、

彼女の年齢からは、とても考えられない、

まるで少女のように透き通った声で、

優しく語るように、ゆっくりと歌い始めた。

 

 

 

                       『川の流れのように

 

                                                      歌 : 美空ひばり

                                                   作詞 : 秋元康

 

知らず 知らず、歩いてきた。

細く長い、この道。

振り返れば遥か遠く、ふるさとが見える。

 

でこぼこ道や、曲がりくねった道。

地図さえない。それもまた、人生。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかに、幾つも時代は過ぎて

 

ああ、川の流れのように

とめどなく、空が黄昏に染まるだけ。

 

 

ママが1番を歌い終わった時点で、

店内は盛大な拍手に包まれた。

中には涙を流す常連のおじさんもいた。

彼女の圧倒的な歌唱力もさることながら、

その歌声は純粋で、まっすぐで、

曇りなき響きの美しさは

それだけで人の心を打つものだった。

店内を包みこむ温かな拍手は、

歌の間奏でも、鳴り止むことはなかった。

 

 

                         〜   2番  〜

 

生きることは、旅すること。

終わりのないこの道。

愛する人、そばに連れて、夢さがしながら。

 

雨に降られて、ぬかるんだ道でも

いつかはまた、晴れる日が来るから。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかにこの身を任せていたい。

 

ああ、川の流れのように

移りゆく季節、雪解けを待ちながら。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかにこの身を任せていたい。

 

ああ、川の流れのように

いつまでも青いせせらぎを聞きながら。

 

 

店内を満たす、

割れんばかりの拍手に包まれながら、

ママが少しの間、目を閉じたかと思うと、

彼女の頬を、涙がひとすじ、キラッと流れた。

 

『皆さん、今年は本当にありがとう。

      来年も、どうぞよろしく。』

 

彼女はそれだけを静かに言って、マイクを置いた。

 

店の照明がほんわりと明るくなる。

これが今年の『お開き』だと、

客の誰もが素直に受け取った。

 

常連客たちは、ぞろぞろと

コートやマフラーを手に取り、

玄関でママと一言、あいさつを交わしてから

歌舞伎町の冬空の下へと帰っていった。

 

客が全員帰った店内で、

私とママの2人だけになった。

 

ママ『りょうちゃん。』

私『なに?』

ママ『ありがとう。』

私『いいんだよ。お代は要らない。』

ママ『タダでお酒飲んでるくせに』

私『またそうやって嫌味ばっかり言って、』

ママ『今日はどうするの?またウチ泊まる?』

私『いや、今日は帰るよ。』

ママ『あら、終電はもうないのよ?』

私『この辺に住んでる知り合いも多いから、

      今日はそこに泊めてもらう。大丈夫。』

ママ『あらやだ、若い子のところでしょ?』

私『そう。こう見えて俺、結構モテるのよ?』

ママ『あっそ、』

 

私は明るくウソをついた。

彼女はそっけなく、私に背を向けると

ボトル棚の方に居直った。

新たな居場所を得た『ブースカ』も

そこで、にんまり笑っていた。

 

私『寂しい?』

ママ『全然』

私『じゃあ、行くね。』

ママ『…。』

 

私はコートを羽織って、マフラーを巻いた。

ボトル棚の方を向いたまま動かない、

彼女の長い後ろ髪をちらりと横目で見て、

店のドアをカランッと開ける。

 

でも、どうしても気になって、

またママの方を振り返ってしまった。

 

彼女もやっぱり、私の方を見てくれていた。

 

よかった、笑ってた。

 

きっとこれが本当の、

ミッキーに見せていた顔だ。

 

私『また、来てもいいでしょ?』

ママ『ええ、お待ちしてます。』

私『それじゃ、ママ…色々とありがと』

ママ『うん、りょうちゃんありがとう。本当に。』

 

最後にそう言って、私たちは別れた。

黒いロングコートの私は、

襟を立てて首をすぼめ、

年末で騒がしく活気付く、

夜の歌舞伎町をひとり歩いていった。

 

街には沢山の人がいる。

その一人一人に、忘れられない誰かがいて、

その一人一人に、そばにいてくれる人がいる。

 

この新宿 歌舞伎町だけが、

ヒューマンドラマの舞台ではない。

この街は、それを少し、

分かりやすくしてくれるだけ。

 

東京の空は一段と高く見えた。

 

私の大好きだった、

ミッキーへの恩返しが、終わった。

 

彼がかつて愛した女への、

私なりの奉公が終わった。

 

今日から私は、ただの男に戻ろう

そして今日から彼女も、ただの女。

 

歌舞伎町の冬空を見上げて歩きながら、

私はポツリと、そう、呟いた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終わりーーー

 

 

 

 

 

見舞いにきた古い友人。

 

師走のふたご座流星群が、

冬の澄んだ夜空に星を落としていた。

 

私が大酒を飲むのはいつものことだが、

今度ばかりは反省している。

 

私は午前3時、寒い駅前の広場で心臓をおさえ、

意識を失い、救急車でこの江戸川病院に

運び込まれた。

 

薄れゆく意識の中で覚えているのは、

地面から見上げた流星群と、救急隊員の声

担架にベルトで縛られた感覚と心電図の音。

 

意識を取り戻すと、

私は白いベッドの上にいた。

私の右手には点滴の針が刺さり

透明な袋に入った透明な液体が

私の頭の上で小さく揺れていた。

 

まだ朝があけていないのか、

それとも、もう夜になってしまったのか、

情けない、それすらも分からない。

 

静かだ。

というよりも、音がしない。

右側にある心電図が、

私の心臓が止まっていないことを

緑色の折れ線で教えてくれる。

しかしピッピッと音がしない。

私が見たドラマだと、

こういう時は機械音がしているはずだ。

 

私の耳が聞こえなくなったのか?

物音がしない。その辺に人間がいるのなら、

少なからず、どんな小さな音でも

聞こえてくるはずだ。

 

院内は水を打ったように静かだった。

 

あたりを確認しようと、目を動かす。

頭に嫌な痛みが走った。

右目と左目の調節がうまくいかず、

世界がねじれて見えた。

 

カーテンが揺れている。

 

すると、私の左側の窓の方から声がした。

 

『そのまま寝ちょったらええ、』

 

昔聞いた岡山弁だった。

 

頭の痛みをおして、声のした左側を見ると

黒い革ジャンを着た、茶髪の若い男が、

丸椅子に座っていた。

 

私『松田…か?』

 

彼は腕を組んで俯いたまま何も言わない。

 

私『元気にしてたか?』

 

私がそう聞くと、

彼は白い歯を見せて少し笑った。

 

松田『お前昨日は、ようけ飲んだようじゃのう』

私『あぁ、やっちまったよ』

 

彼は革ジャンのポケットに手を突っ込んで

立ち上がると、窓の方を眺めていた。

 

私『静かな病院だな。音がしない。』

松田『お前には聞こえんのじゃ』

私『やっぱりそうなのか?』

松田『死ぬときゃ、そうなるもんじゃ』

私『俺は死んだのか?』

松田『アホじゃのう。まだ生きとるわ』

 

窓の外はまだ暗い。

私はしばし、

音のない世界で彼との会話を楽しんだ。

 

私『今何時だ?』

松田『ワシにはわからん』

私『お前、時計もないのか?』

松田『腕時計付けちょるが意味はないんじゃ』

私『どういうことだ?』

松田『時間ちゅうのはな、

         生きてる人間にしか

         意味のないもんなんじゃ』

私『松田…』

 

私は口をつぐんだ。

 

2年前の3月、彼はバイク事故で死んだ。

 

朝が近づいてきて、彼が段々と

希薄になっていくのが分かる。

 

松田『もうじき朝じゃ、ワシは行くけぇの』

私『もうちょっとここにいろよ』

松田『ダメじゃ、行かなぁいけんのじゃ』

私『そうか』

 

松田は少し悲しい顔をして、

私の左胸に手を当てた。

 

松田『ここからが本番じゃぞ、下手したら死ぬぞ』

私『参ったな…。』

松田『ほいじゃ、元気でな。生きろよ。』

私『ありがとう、また。』

 

暗い病室に、白いカーテンが揺れると、

彼はすでにいなくなっていた。

 

遠くの方で、

バイクのエンジンをかける音がした。

 

私は寝たまま正面に向き直った。

白いカーテンがふわりと舞い上がると

 

今まで音を無くしていた世界が、

一斉に動き始めた。

 

激しい心電図の機械音、

医師と看護師が私を呼ぶ声がする。

 

ベッドの足に付いているキャスターが

カラカラと回って、

私は病院の廊下に運び出されていた。

 

ドッドッという心臓の音が首を伝わって

頭に響いてくる。

 

私は再び意識を失った。

 

気がつくと私はまたベッドの上に寝ていた。

点滴の管につながれ、身動きが取れない。

心臓の方は少しおさまってきたようで、

頭上の心電図も安定した音を刻んでいる。

窓の外を見ると、もう陽は高く上っていた。

 

松田の姿を探したが、やはり見当たらない。

 

でもかわりに、左側の丸椅子には

無機質で真っ白な病室に

ふさわしくない派手な格好の女がいる。

 

千秋『起きた?』

 

彼女が私の首筋に触る。

私はまだ熱を帯びているようで、

少しひんやりとした彼女の指を感じた。

千秋『ほんとに死んじゃったかと思ったわよ』

私『あぁ、でも松田が、会いにきてくれたよ』

千秋『怖いこと言わないでよ…バカ』

私『すまんすまん』

 

窓から見る冬の江戸川は綺麗だった。

枯れた草木が黄金色に輝いて、

その中を江戸川が、

まるで紺色の大きな龍のように、

ゆっくりと静かに流れている。

 

千秋の差し出すコンビニの

みかんゼリーを頬張りながら、

河川敷のどこか遠くで聞こえる、

バイクのエンジン音を

いつまでも聞いていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー終ーーーーーーー

失われたデータを求めて

 

連日のうだるような暑さで、

真夏の新宿 歌舞伎町はアスファルトを焦がしながら

街全体が蜃気楼のように湯気を上げていた。

七月の末、大暑の東京。

 

私は新宿 歌舞伎町近くにある

細長い雑居ビルの一室に入っている

雀荘梁山泊』で

いつものように仲間と麻雀を打っていた。

 

そもそもこの店が『雀荘』なのかどうなのか、

それすらも怪しい。

 

まずもって雀卓は一つしかないし、

この店で、我々以外が麻雀をしてるのを

見たことがない。

たまに知らないサラリーマンが昼時になると

中華を食べに来るのは何回か見たが、

それ以外はほとんど客というものを、

私を含め誰も、見たことがない。

 

この奇妙な店の主は中国 広東の出身で、

名前を『黄さん』という。

白髪の少し混ざった40代の男性だ。

彼とはひょんなことから仲良くなり、

まぁ色々と面倒なことを経て、

今の付かず離れずの関係となっている。

 

実のことを言うと、

私も彼のことを、あまりよく知らない。

彼がたまに厨房で作る中華料理は

素人のそれではないので、

たぶん、料理人として日本に来たのだろう。

 

確か黄さんには

子供がいると聞いたことがあるが、

奥さんはいない。

 

私の古い友人で劉鈴麗という女がいる。

私は彼女のことを『リリィ』と呼んで、

妹のように可愛がった。

 

彼女とは5年ほど前、上海で初めて会い、

その後、この新宿で再び会うことになるのだが、

その時には随分と顔が変わっていた。

日本に来て、アルバイトで貯めたお金を

ほとんど語学勉強と整形手術に使い、

私と再び会う頃には、

歌舞伎町のキャバクラでホステスになっていた。

 

黄さんは、そのリリィのお客さんだった。

奥さんに逃げられた弾みでキャバクラにハマり、

その時に随分とリリィに入れあげたようだ。

 

彼女の売り上げに対する借金も

かなり溜まっていて、

リリィとはかなり金銭トラブルがあったようだ。

 

リリィがもうすぐ中国に帰ることを

知っていた私は

彼女が歌舞伎町の夜の世界から足を洗い、

清廉潔白の身で日本を旅立てるようにするため、

黄さんから手を引くよう彼女に促した。

 

だから正直私はそれほど、

黄さん自身には思い入れがある訳ではない。

でも彼の方は少しばかり私に

借金帳消しの恩を感じてくれているようで、

この店をいつもタダで使わせてくれる。

 

そんなこんなで、店長である黄さんの迷惑も顧みず、

この奇妙な店に入り浸っている次第だ。

 

この店にはカウンターが3席と、雀卓が1卓、

そして奥に3人がけのソファが1つあるだけ

合計でも10席しかない。小さな店だ。

 

西の窓から燦々と入る夏場の西陽は、

とても夏の情緒や風情など、カケラもない。

不快なほどのオレンジでこの部屋を染める。

 

東の出入り口から店に入ると

右手に厨房とカウンター、

左手の奥にソファ、正面に雀卓

といった簡素な作りで、

 

この日は、厨房に黄さん

雀卓に私と他男3人、

奥のソファーには、最年少の『電波少年』こと

加賀山がノートパソコンを開きながら座っていた。

 

雀卓には東西南北の席があり、

私は『東』に座っていたので、

この部屋に差し込む猛烈な西陽を

正面から受ける形をとっていた。

 

私の敗色がすでに濃厚となっていた南三局、

私のすぐ背後にある出入り口が

ガチャリと開いた音がした。

 

誰か気になったが、私は麻雀に集中していたので

振り返ることはしなかった。

 

奥のソファーに座っている電波少年に目をやると、

何やらソワソワしている。

 

この辺りで、誰が来たか大方の見当は付いていた。

続いてコツ…コツ…と

ハイヒールの音が近付いてくる。

 

その音はちょうど私の背後で止まったかと思うと、

いかにも高級な香水の匂いが、

覆いかぶさるように私を包んだ。

 

『ちょっと…! ケムいわよこの店…。』

その色っぽい声で確信した。

そして私はにやりと笑った。

振り向くまでもない。

長い付き合いの女だから。

 

私はタバコをくわえて雀卓を見つめたまま、

『今日は何時からご出勤ですか?女王様』

と背後の彼女に聞いた。

 

『今日は10時から、3時間だけ。

   ねぇ、そんなことよりケムいんだけど?

   早く窓開けてくれない?』

 

その声を聞いてソファに座っていた電波少年

急いで店の窓をガラガラと開け始める。

 

店の中に、夏の新宿独特の

むせ返るような排気ガスと、

飲食店から出る雑多な匂いを

帯びた風が吹き込む。

 

夕方になっても一向に留まることを知らない

真夏の熱気が、部屋に充満した。

 

『おいバカ…熱いから閉めろ』

そう私が加賀山に言うと、

彼は少し口をすぼめて、しぶしぶ窓を閉じた。

 

私は彼女の方を振り返って、

『10時から出勤?まだだいぶ時間あるけど?』

『時間あるからちょっと寄ったのよ

それなのに…こんなケムくて嫌んなっちゃった!』

『それは悪かったね』

 

椅子に座ったまま彼女を見上げると、

一目で水商売だと分かる

開いた胸元にビジューのついた

ミニ丈の青いワンピース。

ウェーブがかった深いブラウンの長い髪。

涼しげな目元には淡いブルーのアイシャドウが

カタチの整い過ぎた鼻へスゥッと伸びている。

 

いつ見ても妖艶な女である。

それでいて少し媚びるような薄ピンクのリップが

世のおじさん達には堪らないのだろう。

 

先程から雀卓にて敗色濃厚の私は

誰にも見えないように彼女の太ももに手を伸ばし

片目をつぶって合図を送った。

 

彼女は自分が持っていたハンドバッグを雀卓へ

バンッ!と無造作に置くと、

卓上の麻雀牌は跡形もなく崩れた。

 

他の3人が『あぁー!!』と叫んで、

この局は勝敗を待たず、終わりを迎えた。

 

『まぁ少し休憩しようや、黄さん!俺コーヒー!』

私が嬉々として注文すると、

みんなこぞって飲み物を注文した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『登場人物紹介』

 

先程も言ったが、彼女とは長い付き合いで

まだ私が18歳の頃から、

何かにつけて新宿などで一緒に遊んでいる。

彼女の名前は『千秋』

私より2つか3つ年上なのだろうが、

詳しい年齢は知らない。

水商売を生業としてる女だ、

自分の年齢すら忘れてるかもしれない。

おじさん達から巻き上げたお金は全て、

自分が欲しいものを買うために湯水の如く使う。

(まぁ昔、私の家賃を出してくれてたりするので、

   文句は言えないのだが)

背が高く聡明な彼女は

私と付き合いが長い分、

私の意図にすぐ気付いてくれるが、

たまに気付きすぎて知られたくない事も隠せない、

少し厄介な存在。

【表参道のキラークイーン】を参照

 

ソファに座ってゲームに熱中していた

オタク学生の加賀山は、20になったばかり。

東工大でプログラミングを学んでいる。

5歳の頃から自分のパソコンを持ち、

実世界での出来事より、電脳世界の方が気になる。

最近メガネをコンタクトに変えたらしいが、

まだ慣れてないらしく、今日もメガネで来ている。

色恋沙汰とは全く無縁の彼も、

キラークイーンに惚れているようで、

彼女の指示にはなんでも従うようだ。

電波少年】を参照

 

雀卓の『南』に座っている松田は私と同い年、

元甲子園球児で語気の荒い岡山弁が特徴。

いつも50C.C.の原付で行動している。

足の速さを買われてベンチ入りしただけあって

機動力はバツグン。あとレスポンスも速い。

私が『今日暇なやついる?』と呼びかけて

1分とかからず『ワシ暇やで』と返信が来る。

『おつかい』担当の松田。

【岡山のスピードスター】を参照

 

『北』に座っている萩原は明治の体育会員。

食事の前にも祈りを欠かさない

敬虔なクリスチャン。

190センチを超える巨体のラガーマンで、

普段はめったに感情を表さない。

とても優しい心を持った奴なのだが、

どこか融通の利かないところがあり、

気がつくと損な役回りを

押し付けられていることも珍しくない。

メンバーの中で唯一彼女がいるが、

松田いわく『なかなかのブス』とのこと。

本人もそれを自覚しているらしく、

その事を馬鹿にされると、

人が変わったように暴力的になり、

男が3人がかりでも手がつけられない

実際、松田は一度、それで死にかけている。

【静かなる暴れ牛】を参照

 

私の正面の『西』に座っているレイは

私のホスト時代の後輩。同い年ではあるが、

私の方が1ヶ月早くホストクラブに入店したため、

私の事を『りょうさん』と呼んでくる。

彼の方はホスト現役の頃から相変わらずで、

今でも私を蹴落とす時を虎視眈々と伺っている。

とはいえ、私も彼もお互いに、

そう多くない友人の1人である事には相違なく、

なんだかんだで

いつも一緒に酒やタバコを共にしている。

本名は『秀吉』といい、

私はそれを良い事に、

彼を陰で『サル』と呼んでいる。

【ミスターNo.2】を参照

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

みんなで黄さんが出してくれた

コーヒーやウーロン茶を飲みながら、

夕方のニュースを見ていた。

 

またどこかの県の山間の地区で

少女が遺体となって発見されたらしい。

こんなニュースばっかりで嫌になる。

 

松田が『キショいわ、世の中ロリばっかじゃけぇ』

と言いながらチャンネルを回す。

 

ポケモンを放送しているチャンネルがあった。

 

20代半ばの男女と50近いおじさんの7人で、

まじまじとテレビに映るポケモンを観ていた。

 

私『懐かしいなー』

松田『カスミどこいったん?』

レイ『いつの話だよ』

萩原『もう全然分からないね。最近見てないから』

千秋『あんたらも、ポケモンとかやったの?』

 

私『やったよ!そりゃあ』

レイ『みんなどこまでやった?』

萩原『ルビーサファイアでおわりかな』

松田『ワシはダイヤモンドパールまでやったけぇ』

私『俺は…あっエメラルドってあったよな?

  ルビーサファイアのスピンオフ的な…アレまで』

松田『レックウザのヤツなー。欲しかったわー』

レイ『俺もそこまでだな』

 

私『そういう千秋は?ポケモンやったの?』

千秋『うーん、ポケモンはやらなかった』

松田『じゃあ何やっとったん?』

千秋『…星のカービィとか』

男全員『『かわいいー!!』』

千秋『ウザいんだけど、そういうの』

 

私『そうだ加賀山は?ポケモンどこまでやった?』

加賀山『今もやってますよ』

私『え?まじ?』

千秋『さすが電波少年ww』

レイ『お前ゲーマーだもんな』

松田『アレやろ今ってX Yとかあるんやろ?』

加賀山『ウルトラ サン・ムーンですよ』

松田『はっ?なんじゃそれ?』

加賀山『常識ですよ、今どき』

 

レイ『この年齢までポケモンやってるとさ、

          さすがにポケモン全部ゲットすんの?』

加賀山『まぁ、そうですね』

松田『すげぇ!ミュウとかも全部?』

加賀山『え?ミュウ?あぁ……。』

松田『え?』

萩原『まさか』

加賀山『いや、ゲットしましたよ…?

              したんですけど…、』

私『なんだよゲットしたのかよ』

加賀山『ミュウの色違いが、ねぇ…。』

全員『!!!!!!』

レイ『お前、そんなレベルまでやりこんでんの?』

萩原『全部の色違い集めてるってこと?』

加賀山『いやいや!さすがにそんな事はなくて、

              ミュウだけですよ』

松田『なんじゃもう!!脅かすなや!!』

レイ『あーまじ ビビった』

 

店全体が安堵に満ちた笑いに

包まれているのを尻目に、

加賀山が少し浮かない顔をしていた。

 

彼のこういう顔は見たことがない。

まるで、何か嫌なことを思い出したように、

彼は悲しそうに笑って、コーラを飲んでいた。

グラスの水面に浮かんでは消える

炭酸の泡を見つめながら、

加賀山の目が少しだけ潤んでいた。

 

私『なんでミュウなんだ?』

加賀山『…え?』

松田『まだその話するんか!』

私『だって変だろ。こんだけポケモンいて、

      ミュウだけ色違いが欲しいなんて』

松田『変って…加賀山はミュウが好きやんな?

          ただそれだけの事やんな?』

加賀山『……。』

松田『違うんか?』

レイ『どうせミュウだけ価値が高いんだろ?

          ゲーマーの間でステータスになるとか、

          たぶんそんな感じだろ』

加賀山『……。』

レイ『絶対そうだって』

 

萩原『少し加賀山の話をきいてあげなよ』

 

心の優しい萩原は加賀山の異変に気付いていた。

 

私『加賀山…どうなんだ?』

加賀山『ミュウの色違いだけは、

            見せてあげられなかったんです』

私『誰に?』

加賀山『……。』

千秋『女でしょ、コレは』

私『いいから黙って聞けよ』

加賀山『……クラスの…女の子に…』

私『そうだったのか』

加賀山『色違いのミュウ持ってるって…

              あの時…嘘ついたんです』

松田『何でそんなしょうもない嘘ついたんじゃ?』

萩原『僕は分かるよ』

私『あぁ…誰にでもある事さ。必ずな。』

千秋『あーやだ、男ってほんとバカ』

 

さっきまで新宿の排気ガスと熱気と

下卑た笑いで満ちていたこの店は、

加賀山の涙のぶんだけ、湿っぽい空気が流れた。

涙のぶんだけ、空気は澄んだように静かだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

それが加賀山少年の初恋だった。

彼が小学2年の夏。

世の小学生は私を含め、皆ポケモンに夢中だった。

彼はある少女に恋をした。

可愛くてクラスの人気者である彼女と、

スポーツが苦手でゲームが友達の

加賀山少年との間には接点など無かった。

 

ある日彼は、

その少女もまたポケモンに夢中である事を知る。

 

彼は嬉しかった。

彼女と自分との間に初めて接点を見出した。

 

彼がゲームに詳しい事は、

クラスの誰もが知っていた。

彼女が加賀山少年にポケモンの質問をするのに、

そう時間はかからなかった。

 

『加賀山くん、あの洞窟 抜けれないんだけど…』

それが彼と彼女の初めての会話だった。

彼はもう有頂天で、

こと細かにその攻略法を説明した。

必要ないことや、聞かれてないことまで、

とにかく全てを説明した。

まるで自分の全てを分かってもらうように、

彼は、くまなく説明した。

 

人はそれを『オタクのコミュ障』と笑うだろう。

しかし、どうしても笑う気になれなかった。

オタクにも断じて、忘れられない程に

大切な『初恋』というものがあった。

 

初恋が上手く運ぶようなことはあり得ない。

あるとしたら、それはむしろ不運だ。

初恋が実ればあとは、その終わりを待つばかり、

初恋の存在が極めて尊いのは、

その成就が極めて難しいのに起因する。

しかし、その儚さがむしろ初恋を永遠にする。

 

『加賀山くんすごい!詳しいんだね』

彼女のあまりに素直な言葉は、

彼を赤面させたことだろう。

 

それからも彼女は、分からないことがあると

休み時間、教室にいる加賀山のところへ行き、

ゲーム攻略の指導を仰いだ。

 

彼にとっては、それが彼女とのデートだった。

デートに尺度があるとすれば

それはあまりに短く、小さなデートだったが、

彼にとっては千年の深さを持った。

 

『加賀山くんはポケモン全部もってるの?』

『も、もちろんもってるよ?』

『えー!すごい。じゃあミュウも持ってる?』

『えっ、あっ、あー。持ってる。持ってるよ!』

『色違いのミュウも?』

『いっ、色違いのミュウ…?』

『持ってないの?』

『いやいや!持ってるけど…。』

『えー!加賀山くんすごい!何色なの?』

『なに…いろ…?』

『うん!色違いのミュウって何色なの?』

『ん?あー…、何色だったかなぁ。』

『忘れちゃった?』

『…うん、あんまり覚えてない』

『でも持ってるんだよね?

   よかったら今度みせて?』

『え!あっ…あーもちろん!いいよ!』

『やったー!ありがと加賀山くん!』

 

 

『嘘を付くのは不誠実』だと人は言う。

でもそれは違うのかもしれない。

相手を敬い、失望させまいとして、人は嘘をつく。

彼女に好かれたい。彼女に嫌われたくない。

その一心で、加賀山少年はこの時 嘘をついた。

 

誰にでも、必ずあることだ。

『嘘をついた事はない』なんて奴が

1番の大嘘つきだと私は思う。

 

今日もどこかで女が言うだろう。

『嘘つく男の人は嫌い』

その男は好きな女のために、嘘をついて嫌われる。

それがこの世の定めなのかもしれない。

確かに、男は嘘をつく。

しかし、その嘘を『真実』にするため

男はその瞬間から走り回る。

 

加賀山少年もまた例に漏れず、

その部分においては人一倍の男であった。

 

彼は家に帰ると、

すぐにミュウの入手方法を調べた。

 

彼がいくらやっても捕まえられないはずである。

ミュウは当時、東京など都心部で開催される

イベントでしかゲット出来なかった。

 

そのイベントに足を運び、

ゲーム機にワイヤレスアダプタを接続し、

そこで配信されるデータ『ふるびた かいず』を

受信し、ゲーム内の港から出るフェリーで

『さいはてのことう』へ行くと、

そこにミュウがいる。

 

ミュウを捕まえるという目的に限定すれば

行程はこれだけでいい。

 

難しいのは色違いのミュウを捕まえる事だ。

 

ミュウはそのイベント配信でしか手に入らない、

そのイベントでミュウと遭遇しても、

色違いのミュウが出る確率は、

5000〜10000分の1と言われる。

 

小学三年生の加賀山少年が色違いのミュウを

ゲットするのは、ほぼ不可能であった。

 

それでも彼は、故郷の静岡からはるばる

離れた東京の神保町まで出向いて、

やっとの思いでミュウをゲットできるアイテム

『ふるびたかいず』を手に入れた。

 

東京から静岡へ帰る新幹線の中で、

彼は何度も色違いのミュウを探して、

そのミュウが色違いでないことを確認すると、

何度も何度も、

電源を消してはレポートした場所に戻ってを

絶えず繰り返した。

 

駅から家に帰る途中も、

車に轢かれそうになりながら、

色違いのミュウが出るまで繰り返した。

 

家に帰ってからも勉強机で、風呂場で、

ベットの上でもひたすら色違いのミュウを探した。

 

しかし何日、何ヶ月、同じことを繰り返しても、

色違いのミュウは出てこなかった。

 

加賀山少年が色違いのミュウを

彼女に見せることが出来ないまま、

ある日、彼女は東京の小学校へ転校した。

同時に彼も、色違いのミュウを探すことをやめた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私『それで、遂にその子とは会えず仕舞いか』

松田『キツイな』

千秋『たかがゲームでしょ?

          その子も大して見たくなかったわよ』

萩原『そうかな?』

レイ『仮にその子が大して興味なかったとしても

          好きな子の期待に応えられなかったのは

          男は一生覚えてるもんだよ』

私『おっ珍しいなレイ、お前が同情なんて』

レイ『俺だって、そのくらいわかりますよ』

 

加賀山『いや、会えないわけじゃないんですけど』

レイ『はっ?』

萩原『えっ、そうなの!』

松田『じゃあ今の話は何やったんじゃワレェ!』

私『なんだよ会えんのかよ!』

千秋『なんで?どこで?』

加賀山『なんか近くの大学通ってるらしくて』

レイ『どこの?』

加賀山『たぶん関学かなと…』

私『なんで分かったんだ?駅で会ったとか?』

加賀山『いや、Facebookとかで』

千秋『調べたの?キモ!オタクじゃん!』

私『千秋…加賀山は最初からオタクだぞ?』

加賀山『いや!調べたわけじゃなくて…たまたま

            Facebookの友達かも、みたいなやつで…、』

松田『ジブン調べたんちゃうんけぇ?このスケベ』

レイ『こーれは、絶対に自分で調べたな』

私『まぁどっちでもいいけど、連絡は?』

加賀山『いや、もう10年以上会ってないんで、

              たぶん忘れられてるかと…』

千秋『んーまぁ覚えてないわね』

私『そんなのまだ分かんねえだろ』

松田『そうじゃ、はよ連絡せえや』

加賀山『えぇ…、いやぁでも…』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

その日から数日、加賀山は店に姿を現さなかった。

 

私は松田の運転するスクーターで2人乗りになって

真夏の靖国通りを走っていた。

 

新宿御苑の松の木がほのかに香る道路を

スクーターに2人でまたがって走りながら、

曙橋まで来たあたりの信号で

運転する松田のヘルメットをコンコンっと叩いて

私から松田に話しかけた。

 

私『おい松田』

松田『なんじゃ?』

私『加賀山のやつどうしてると思う?』

松田『あぁこないだ話しちょった女の話か』

私『そう、あいつその子に連絡取ったと思うか?』

松田『あーどうじゃろ、たぶん無理じゃろな』

私『俺もそう思う』

松田『あいつオタクじゃからな、』

私『10年会わなかった好きな女の子に

       話しかけるなんて俺らでも厳しいよな』

松田『じゃけん、奴には無理じゃろうな』

私『こればっかりはな、あいつ次第だし』

松田『おい!あっこにデカブツがおるわ』

私『は?』

 

松田はウインカーも付けずに急ハンドルを切ると、

靖国通りをUターンして側道にスクーターを付け

『パパパーーーー!!!!』と大音量で

ラクションを鳴らした。

 

まったく、ヤンキーの習性というのは、

何歳になっても変わらないものらしい。

 

松田『ほれ、おったじゃろ?デカブツが』

私『本当だ、お前よく見つけたな。ありゃハギだ』

 

これほどの大音量のクラクションを鳴らされても

こちらを振り向きもしない巨体の持ち主は、

優しい巨人 萩原だった。

曙橋の暗い古本屋の奥で、

大きな身体を丸めながら何やら雑誌を読んでいた。

 

私『おーい、ハギ!』

松田がまたクラクションを短くパッ!と鳴らす。

萩原はやっとこちらに気付いてニコッと笑い

店の奥から小さく手を振った。

 

私と松田は蒸れたヘルメットを脱いで、

長時間のエンジン振動によって

少し痺れた足をブラブラさせながら

暗い古本屋の店内へ入っていった。

 

松田『ハギ、お前エロ本読んでたんじゃろ?』

私『ハギがエロ本か、そりゃあいいな』

萩原『いや、エロ本じゃないよ』

私『なに読んでたんだ?』

萩原『コレだよ、けっこう探したんだ』

 

彼が得意げに見せて来たのは、

コロコロコミック 2003年 6月号』

 

私『おっ!懐かしいなコロコロじゃん』

松田『デンジャラス爺さん連載しとるけ?』

萩原『あれから加賀山の事が気になってね、

         たしかこの頃のコロコロってさ、

         どこの街で配信イベントやってるとか

         書いてあったなーと思って。』

私『あーたしかに、そんなページあったな。

       オレ田舎だったから関係なかったけど』

松田『ワシもじゃ』

萩原『たぶん、僕の予想だと

          加賀山はまた、色違いのミュウを

          探してると思うんだ』

私『うん、大いにあるな』

松田『あいつがその子に話しかけるとしたら

          それしかないじゃろうな。』

私『でもあいつ、カセットはもう大昔に

      5歳下の弟にあげたから、

     データは残ってないとか言ってたぞ?』

萩原『つまり『ふるびた かいず』の配信が

         もう行われていない以上、

         色違いのミュウどころか、そもそも

        ミュウをゲットすること自体が不可能なんだ』

松田『加賀山の恋も詰んだか、アーメン』

私『アーメン』

 

私と松田の2人は、クリスチャンの萩原を

差し置いて、目を閉じ、胸に十字を切った。

 

萩原『でも方法はまだあるんだよ』

私『え?あるの?』

萩原『つまり、2003年当時

        東京のどこかの街でイベントに参加して

      そこで『ふるびた かいず』を受信、

       その後に中古として売られたカセットを        

        探し出せばいいんだよ!』 

 

私『ハギ、お前って奴は…優しいけど

       本当にバカだな…。』

松田『そんなの無理に決まっとろうが!!』

私『そうだぞハギ、

      仮に『ふるびたかいず』を受信した

     カセットがあったとしても

     せっかく配信イベントにまで参加して

      そのままミュウを捕まえずに、

      カセット売る奴なんているわけないだろ?…』

松田『まず100パーセントじゃな。

      その『ふるびたかいず』のデータは使われとる』

萩原『そう…だよね。』

 

先程までの意気揚々とした萩原の姿はなく、

狭い店内の中で巨体をかがめ、

のそのそ、とレジまで行ったかと思うと、

先程のコロコロコミックを買った。

 

松田『結局、買うんかい!!』

松田のツッコミとレジの『チーン!』

という音がまるでコントのように響いて、

我々はその古本屋をあとにした。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

加賀山が歌舞伎町の店に現れたのは

それから2日後のことだった。

 

今日は久しぶりに全員揃っての飲み会だ。

待ち合わせ場所はもちろんこの雀荘

私が店に入ると、

まだメンバーは加賀山しか来ていないようで、

その彼はというと、いつものように

ソファーの端に座り、ゲームをしていた。

 

私『よう加賀山!久しぶり!』

加賀山『…お久しぶりです。』

私『何のゲームしてるんだ?』

加賀山『グラセフです』

私『なんだそれ?俺にはよく分からんがお前、

       ポケモンはもういいのか?』

加賀山『ポケモンは…』

私『その後、女の子とはどうなった?

      話しかけたりしたか?』

加賀山『いやぁ…それは』

 

加賀山が口ごもると、

店の入り口の戸がチリーンとなって

千秋が騒がしく入ってきた。

 

千秋『もうほんと嫌になるくらい暑い!

          化粧溶けるわ!ってぐらい暑くない?』

私『おう、早いな』

千秋『久しぶりのみんな揃った飲み会だからね

          もし遅刻でもしようもんなら

          あんた達、私のこと置いてきそうだから。』

私『そんな事しないよ、あっそれで?

      その後どうなったんだ?加賀山?』

千秋『なに?まだあの子に声かけてないの?』

 

加賀山は千秋の前では

ちょっと話しづらいといった様子で、

またソファーの端で小さくなっていた。

 

すぐに『デコボコ』コンビが到着した。

萩原と松田である。

 

松田『おう加賀山!久しぶりじゃな!

          いいモン買ってきたけぇ見ろや』

萩原『それ買ったの僕なんだけど…』

松田『ケチやなぁ、100円の古本じゃろうが!』

2人はソファーの前の木製テーブルに

あのコロコロコミックを出した。

 

私『お前ら、だからコレは意味ねぇんだって』

 

加賀山は一瞬ゲームをやめて、

コロコロコミックに目をやったかと思うと

おもむろにテーブルの方に手を伸ばした。

 

加賀山『これ…懐かしいです…。』

 

彼は雑誌の最初の方にある

イベント情報のページをめくりながら

戻らない過去の日々が

鮮やかなカラーページに映るのを眺めていた。

 

普段こういう事には薄情な千秋も

加賀山の見せる無邪気な少年ぶりに、

いても立ってもいられないと言った様子で

ひとり、西陽のさす窓に行き

先程買ったであろうスタバの新作を飲んでいた。

 

松田『そうじゃ、レイはどうしよった?

          今日はあいつも来よるんじゃろ、

         他人の遅刻にはうるさい奴やけどなぁ?』

千秋『あー確かレイもミュウの入手方法が

           何とか、なんて言ってたような』

私『あいつなら、そのうち追いついてくるよ、

      それに、行き先はもう大体分かってる。』

萩原『行き先?レイはどこか行ってるの?』

私『んーまぁ、ただの勘だけどな。

       あいつも普段は冷たい奴だけど、

       気持ちは俺たちと一緒なんだよ』

松田『なんじゃ?今日はいつもに増して

          ゴッツぅカッコつけちょるわ』

千秋『じゃあ、もうそこ向かう?』

私『あぁ、そこでレイを拾ってな』

松田『なんじゃ?千秋ねぇさんも知っとるんか?』

千秋『汚いジイさんの店よ、

        あーあ私は行きたくないなー。』

私『加賀山も、一緒に来な』

 

我々は雀荘 梁山泊を後にして、

歌舞伎町の奥にある職安通りを北に進んだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

新宿 歌舞伎町と一口に言っても、

その範囲はあまりに広すぎる。

よく見る『歌舞伎町一番街』のアーケードは

都内の大学生やサラリーマンが飲み歩くための

居酒屋チェーン店が乱立し、

 

東にいけばゴールデン街があり

ぼったくり店や怪しい店も多い。

 

二丁目まで行くとオネェやオカマ、

ゲイやレズなどの性的マイノリティーの楽園として

 

歌舞伎町はひと区画歩くだけで、

その用途や様子は一変する。

 

我々は北に向かって歩いた。

職安通りのホスト街を抜け、

ほとんど大久保の方まで来るとそこは、

ヤクザの事務所が入っている

有名マンションが立ち並ぶ、

歌舞伎町内でもあまり立ち寄りたくない区画だ。

 

松田『おい、佐々木!

         本当にこっちで方角あっちょるんか?』

加賀山『初めてこんなに奥まで来ました…。』

萩原『レイも…ここにいるの?』

千秋『さぁね、でももうすぐ着くわ』

私『きっとレイも、そこにいるさ』

 

我々はこの辺りではかなり背の低い、

三階建ての雑居ビルの前に並んだ。

私『俺は今から入るけど、お前らどうする?』

萩原『えぇ、どうしよう。松田は?』

松田『ワシは、やっぱやめとくわ』

私『じゃあお前らはそこのローソンで待ってろ

      あと加賀山は来い。千秋も来るだろ?』

加賀山『僕もいくんですか?!』

千秋『えー、行きたくない。あのオッサン汚いし』

松田『まっ、待てや。やっぱワシも行くわ』

萩原『じゃあ…僕も行こうかな』

私『なんだよ、お前らはローソンでいいぞ?』

 

私がローソンの方に目をやると、

店内では、いかにもな黒スーツを着た男3人が

レジの店員に向かって怒号を響かせていた。

再び松田と萩原に目をやると、

2人とも少し顔をこわばらせて

『ニッ』と笑っていた。

 

私『じゃあ全員だな』

 

そうして私を先頭にして、

ビルの中へ入っていった。

 

三階建てのビルのエレベーターは

ゴウン、ゴウン、と音を立てて

その速度は不気味なほど遅い。

 

狭くて暗いエレベーターの中で

せっかちな松田は緊張と不安からか、

ボタンを何度も押していた。

 

私『千秋、最後にここ来たのはいつだ?』

千秋『うーん二年前?前のお店やめる時に』

私『そうか、まぁ向こうも顔ぐらい覚えてるだろ』

千秋『変に物覚えがいいのよね。あのジイさん』

萩原『えっあのさ、何のお店かだけ聞いてもいい?

          僕、給料日前でお金なくて』

千秋『お金は、大丈夫よ』

松田『なんじゃ!『お金は』ってのは!』

私『千秋、あんまり怖がらせるなよ』

千秋『だって本当のことだから』

 

ちらりと加賀山の方を見ると、

エレベーターの端で、すでに動かなくなっていた。

 

『チン!』と古めかしい音がして

エレベーターの錆びたドアが『ジジジ…』と開く。

 

昭和中期に作られたであろうビルの内装は

所々ヒビ割れ、むき出しのコンクリート壁が

暗い建物の中に浮かんでいた。

 

奥の部屋へと続くドアの前には、

パイプ椅子が並べられ、

その前には小さなテーブルがひとつ。

そのテーブルの上には

ガラスの灰皿と雑誌が無造作に置かれていた。

雑誌の表紙には

雪印乳業、期限切れ商品を違法で販売!!』

ソニー、年度末にも破産申請!!』

と書かれており、いつの雑誌なのか分からない。

いや、そもそもそんな事件あったか?

 

ここに来ると、何もかもが疑わしく感じる。

不気味に遅いエレベーターも

昼なのに暗い店内も、

全ては奴のペースにひきずり込むための演出だ。

うちの仲間の3人ほどは、

もう既に向こうのペースだが、

さすが千秋だけは、慣れている。

 

嘘とハッタリ、その中にある真実が見抜けないと

ここでは、『奴』に食い物にされる。

 

人と思って付き合えば必ず身を滅ぼす。

この店は歌舞伎町の夜に携わった者なら

誰でも知っている。知っていても立ち寄らない。

厄介な『妖怪』の店だ。

 

『ギィィ…バタン!!』

奥のドアが開いて1人の男が出てきた。

すらっとした足に、華奢な肩、茶髪の長い髪。

 

それはレイだった。

 

松田『お、おう!レイ!

         貴様なにしとるんじゃこんな物騒なとこで、』

萩原『本当だ。佐々木の言った通り!』

 

仲間を見つけた2人は少し安堵の表情を見せたが、

加賀山は依然、緊張で固まったまま動かない。

 

レイ『りょうさん、やっぱりあんたもここに?』

私『あぁ、なんか聞き出せるかと思ってよ』

レイ『一応この封筒をもらいました。』

私『そうか、なるほどわかった。

      悪いがもう少しここに座って待っててくれ。

      松田とハギもここで待ってろ。』

加賀山『僕は?』

私『加賀山と千秋は俺と一緒に奥にいく』

加賀山『えぇ、やだなぁ』

千秋『しょうがないでしょ?

          ほとんどあんたの為なんだから』

加賀山『え?僕のため?なんのですか?』

千秋『説明するのもめんどくさい』

加賀山『えぇ、』

私『加賀山は、じきに分かるとして、

      レイ、悪いが松田とハギに説明しといてくれ』

レイ『え?なんの説明もなしに

          ここまで連れてきたんですか?』

私『そうなんだ俺も面倒くさくて、すまんな』

 

レイが、やれやれとパイプ椅子に座ると、

続いて松田と萩原も座り。

2人は、またぎこちない顔で『ニッ』と笑った。

 

私『それじゃ、』

 

奥の部屋へと続く扉の、冷たいドアノブを回して、

私と千秋、そして加賀山の3人は

更に暗い部屋へと進んだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

部屋の温度は真夏というのに、

羽織るものが欲しいぐらい冷え込んでいて

加えてコンクリートの冷たい床が、

足の芯から心細さを駆り立てた。

 

薄暗い8畳ほどの部屋の中には、

手前に黒革の立派な椅子がひとつと

その奥に業務用と思しき灰色の机があって

背もたれの大きなボロボロの椅子は

向こう側の窓の方を向いたまま動かない。

 

私『ジイさん元気してたかい?』

??『んー?おや?その声は

        四ツ谷の旦那じゃないですか?

       お久しぶりですわ、おかげさまで病気もなく、

       しかしびっくりしましたよ突然、

       後ろから懐かしい声が聞こえたもんですから』

私『やめなよ、白々しい。

     最初から監視カメラで見てたんだろ?』

??『…全く、旦那の用心深さには参ります。

          相変わらずのご様子でなにより。』

 

千秋は黙って私たちの会話を聞いていた。

加賀山は怪訝な様子であたりを伺っている。

 

加賀山『誰と話してるんですか?

            この部屋のどこから声が…?』

千秋『いいから黙ってて、

          今からは絶対に余計なこと言わないでよ』

 

??『先程、お弟子さんがいらっしゃいましたよ』

私『レイだろ?あれは弟子なんかじゃないよ』

??『旦那も要件は同じでいらっしゃる?』

私『んーまぁ、そんなところだ』

??『では、先程のお弟子さんに伝えましたから

          彼から聞いたらよろしいですよ。』

私『あんたがあいつに

     本当のこと教えるわけねぇだろうよ。』

??『…いやぁ、本当、旦那には敵いませんわ』

 

遂に窓の方を向いていた椅子がくるりと回転し

こちらを向いた。

何度見ても慣れない、薄汚い顔の老人がいた。

 

加賀山はその老人の顔を見てギョッとした。

頭髪の大半はとうに失い、

耳のあたりから長い白髪が少し生えてるだけ

ニヤリと厭らしく笑った口元からは

細く黄色い歯が、まばらに生えている。

そして片方の目は、完全に潰れている。

 

この老人はいわば、歌舞伎町の『妖怪』。

戦後、まだ新宿が

そしてこの歌舞伎町が闇市だった時代から

この歌舞伎町に住み着き、

常識では考えられない手口と情報網で

雇い主のトラブルを解決することもあれば、

ある時は気まぐれに裏工作をして、

わざとトラブルを引き起こす。

そうして、人が転落していく様子を

美味そうに金を握りしめながら見て楽しむ。

そうして長く生計を立ててきた卑しい男だ。

 

歌舞伎町での水商売関係のゴタゴタには、

決まってこの老人の影がある。

 

老人『おや、そちらのお綺麗なお嬢さんも

         以前、どこかでお会いしましたな?

          確か六丁目の星野ビルに入ってた…』

千秋『そこまで覚えてるなら言わないでくれる?』

老人『おお、これは失礼しました。

          私の大切な旦那の、大切な方だというのに』

 

彼はいつもこうだ。

腰は低く丁寧に、人をおだてるようにしながら

その裏では、人間の破滅を待ち望んでいる。

 

老人『そちらのお若い男性は?』

私『彼が今回の依頼人かな。』

老人『おぉ、それはそれは!

         まぁしかし、そちらの彼では

         大方、使いものにならないのでは?』

私『だから俺たちが来たってワケよ』

老人『これは何ともお心強いお二人で、

         では依頼人は実質のところ、

         旦那というわけですな?』

私『そういう事だ。それで?何か分かったか?』

 

老人『それで金は?』

 

老人の顔つきが変わった。

 

私『ないよ。たかが昔のゲームの話なんかでさ』

老人『それではあんまりです。いくら旦那でも、』

私『長い付き合いだろう?

      別にそんな大した事を頼んでる訳でもない。

      たかが昔のゲームの情報だぜ?』

老人『大恩ある旦那の頼みでもちょっとねぇ…

          あれ、結構高値で取引されとるんですわ』

私『タダじゃ教えられないと?』

老人『えぇ、私も商売ですから』

私『『リリィの件』忘れたのか?』

老人『それを言われちゃうとなぁ、弱ります』

私『それ、チャラにしてやるってのは?』

老人『…』

私『どうだ?』

老人『…いいですよ。

         でも、それであの話は本当にこれで終わり』

私『ゲームの情報なんかで

      あの一件がチャラなんだ、

       お前にとっちゃ安いもんだろ?

      それで?なんか分かったか?』

 

老人は真夏にふさわしくない

厚手のダウンの内側の胸ポケットから

細長い茶色の封筒を出した。

 

老人『住所ですわ、ここに1番詳しい連中が』

私『ありがとう。

      だが、もう一つのも出してくれや』

老人『…?もう一つ?』

私『お前が情報渡す時はいつも

      封筒二つ用意してるなんてのは常識だよ』

老人『いえいえ、相手が旦那の時に限って

          そういうことはしませんよ』

私『信じてあげたいが、もしガセだったら、

      リリィの件もチャラには出来ねぇ。』

老人『やれやれ、旦那には敵いませんわ』

 

老人はそう言ってため息をつくと

机の中から今度は白い封筒を取り出した。

 

老人『はい、本物でさ』

私『ここで確認してもいいだろ?』

老人『あんまり人を疑い過ぎるのはよろしくない』

私『相手がお前だと、しょうがないよ』

 

老人はタバコに火をつけ、煙を燻らせた。

 

私『よし分かった。報告はあとでする。』

老人『嘘は教えてませんからね、』

私『それは結果次第だろう』

老人『まったく、まだお若いのに抜け目のない。』

私『お互い、何やってんだろうな

      たかがゲームごときでよ。それじゃあな』

老人『旦那、いい報告をお願いしますよ』

私『あぁ、ありがと。あとこの部屋冷えすぎ。』

老人『それは旦那がお若いからですよ。』

 

千秋と加賀山を連れて、寒過ぎる部屋を出た。

部屋の外では、他の3人がパイプ椅子に座って

タバコを吸っていた。

 

松田『おぉ!無事やったかお前ら!

          さっ、早くここを出て飲みに行こうや!』

萩原『2人はともかく、加賀山が無事でよかった』

千秋『どうして女の私が心配されないわけ?』

萩原『え、ごめんごめん』

レイ『どうでした?りょうさん?』

私『レイお前、封筒いくつもらった?』

レイ『え?普通に一つですけど』

私『それになんて書いてある』

レイ『えーっと、渋谷区宇田川町四丁目…』

私『俺の一枚目もそう書いてある。』

レイ『一枚目?』

私『つまり、それはガセなんだよ』

レイ『え!せっかく金払ったのに!』

私『となると俺の2枚目が本当だな』

レイ『えぇ、騙されたのかぁ』

私『いい薬になっただろ?

     あんな妖怪ジジイ、もう頼るもんじゃない』

レイ『それで2枚目にはなんて?』

 

私がビリビリと封筒を開けると、

一同が息を飲んで、その結果に耳を傾けていた。

意外といえば意外、

しかし当然といえば当然の住所であった。

 

私『今日の飲み会は『秋葉原』でやるぞ』

 

真夏の午後5時半、

このアスファルトばかりの新宿で

どこにセミなんているのか、

けたたましいセミの声に迎えられながら

我々は冷たいビルを出た。

 

日没までには、まだ少し時間があった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

JR新宿駅のホームで私達6人は

封筒に書かれた住所を確認していた。

 

台東区 秋葉原 △ー〇〇ー××

   ニュー淀川ビル14.5階】

 

レイ『ニュー淀川ビルってたしか…』

松田『あっ、ワシ思い出したわ!

         あそこのビル、たしか屋上が

         バッティングセンターになっとるんじゃ!』

萩原『いまスマホで調べてみたら、

          14階建で屋上がバッティングセンター

          って書いてあるよ?』

千秋『じゃあその封筒に書いてあった

            『14.5階』ってどういうこと?』

私『うーん、行ってみないと分からんな』

 

そうして私たちが話していると、

夏の日差しに輝く銀色の車体に

黄色いラインが眩しい総武線が到着した。

 

それにぞろぞろと乗り込んで新宿をあとにした。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

真夏の蒸し暑さとは無縁の快適な車内では、

少し早い夏休みを迎えた東京の小学生が

はしゃぎまわり、老婆が少し眉をひそめて

その小学生たちをチラチラ観察している。

その親らしい人物はというと、

我関せずという具合に

腕を組み、目を閉じて座っていた。

 

揺れる電車に立ちっぱなしの我々が

目線を上げると、頭上のつり革広告には

東京サマーランドではしゃぐ子どもの写真。

 

松田『ガキんちょっちゅう生き物は、

          一体どういうわけで

         あんなに楽しそうなんじゃろ』

レイ『お前も同じようなもんだろ』

萩原『でもやっぱり、

          あの頃はなんだか楽しかったよね』

加賀山『僕サマーランド、行ったことないです』

千秋『私は毎年パパに連れてってもらってた』

私『あんた連れてかないとゴネそうだもんな』

レイ『パパって、本当のパパ?』

千秋『それどういう意味よ』

松田『ワシも岡山で市民プールとか行ったのぅ』

レイ『俺は由比ヶ浜とか大磯ロングビーチかな』

千秋『あんた、その頃からチャラかったのね』

私『ははっレイの奴、言われてやんの!』

千秋『そういうあんたは?』

私『え?おれ?』

千秋『あんたも、田舎出身だから市民プール?』

私『おれは、親にどこか楽しいとこ

     連れてってもらった事とか、一度もないな』

千秋『あっ、そうなんだ…』

私『楽しいことは自分で探す派だからさ!』

レイ『りょうさんらしいっちゃあ、

          らしいっすね笑』

私『まあな!』

 

私はそう言って気丈に振る舞ってはみたものの、

やはり勘のいい千秋には気付かれてしまった。

私が笑いながら彼女の方に目をやると、

彼女は気まずい顔をして、私から目をそらした。

 

涼しい車内から見る夏の東京は輝いていた。

超高層ビルが立ち並ぶ

新宿の摩天楼をするりと抜け、

オリンピック間近の新国立競技場が

今まさに建設中の代々木、

新宿御苑の緑が心を癒す千駄ヶ谷

赤坂離宮の庭園が美しい信濃町

そして私が住み慣れた四ツ谷を抜けると、

江戸城 外堀の溜池が、

太陽の光を反射する小さな海となって輝いた。

 

私『水と緑って、やっぱり綺麗だよな』

松田『まーた浸っとるわこの阿呆が!

         もとは、その自然が嫌いじゃけえ

         田舎から東京に出て来たんじゃろうが』

私『なぁ松田、』

松田『なんじゃ!』

私『俺たち、田舎が嫌い…だったのかな。』

松田『それは言わんお約束じゃ、』

 

松田はポツリとそう言って、

おもむろにポケットからタバコを取り出し

火をつけようとした。

 

千秋『ちょっと!まだ電車よ?』

 

千秋の至極真っ当な一言に

松田は苦い笑いを浮かべた。

 

私はドアに寄りかかり、

またひとりで考えた。

 

私は田舎が嫌いだったのだろうか?

 

たしかに不便な思いも沢山した。

田舎という世界の狭さに辟易もした。

でも別に嫌いになったわけじゃない。

ただ、その時その時で、

自分のしたい事をするために

何も考えずに頑張ってたら、ここにいた。

 

でも、地元の友人は私のことを

一体どう思っているだろうか。

考えても仕方ない。

 

もう東京に来て6年。

本当に色々なものがある街だ、

それが人になれば尚更、

今まで出会ったことのないタイプの

人間に、毎日のように遭遇する。

 

田舎は安らぐが、退屈だった。

東京は疲れるが、刺激に溢れていた。

 

『東京が好きだ。』

 

それだけで今は十分だと思った。

それ以上は、考えないことにした。

 

萩原と加賀山は向こうのドアの方で

何か楽しそうに話している。

気付けば、千秋もレイも松田も、

さっきとは違う話題で盛り上がっていた。

 

すぐ1人になろうとするのは私の悪い癖だ。

昔から友達には困らなかったが、

仲のいい友達になればなるほど、

私の中の『不可侵な領域』に気付いて

彼らがそれ以上、立ち入る事はなかった。

そうして自分でも名前の付けられぬ

孤独が、いつまでも深まるばかりであった。

 

私『ところで松田、

    こないだフラれた女の子とはどうなった?』

松田『おいお前、なんで今その話するんけぇ?』

私『え?あぁ、すまん。』

 

独りになってからの会話の復帰は、

いつもこんな感じで失敗する。

 

それでもレイや千秋が笑ってくれたので、

場が少しだけ和んだ。

 

電車は既に水道橋、御茶ノ水を抜け

ガタン、ゴトン、と等速の音を刻みながら、

目的地である秋葉原へと向かう。

 

なんだか見慣れない光景だった。

 

松田とはいつもパチンコや競馬をしたり、

レイとは夜、仕事であうだけ。

千秋とはバーでよく飲む。

萩原とはスポーツ観戦の際に、隣に座るぐらい。

加賀山にいたっては、

プライベートで会うなんて事はほとんどない

 

普段は別行動の仲間たちが、

今日は一つの車両に乗っている。

その見慣れない光景と

ちょっと群れているような感覚に

私は密かに幸せを感じていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

電車は秋葉原に着いた。

私たちはアニメ広告が目まぐるしく移り変わる

『電気街』改札を出て、封筒に書いてあった

目的の住所へと向かった。

 

レイ『この住所に行くのはいいとして、

          そこに何があるんですかね?』

私『さぁ、ジイさんが言ってたのは

     『そこに詳しい奴がいる』ってだけだな』

松田『ゲームオタクって事かいの?』

萩原『もしかしたら、そこでもうデータが入った

         カセットくれたりして!…』

千秋『あのジイさんが紹介するような奴よ?

          そんなお人好しなわけないでしょ』

私『そうだな、大方、何か情報をくれるだけさ』

 

街を歩いている人間の群れに目がいった。

普段、歌舞伎町で暮らしている人間からすると

秋葉原を歩く人種というのは異質だ。

何か、我々とは全く別の価値基準で生きている。

そう思わざるを得ない服装と佇まいだ。

 

加賀山は、電車で萩原と話していたせいか、

少し元気になっていた。

 

いや違う、我々のメンバーの中で唯一

この秋葉原にホーム意識を

持っているのは、紛れもなく加賀山なのだ。

彼は目的地が近いからか、

それともこの街がホームグラウンドだからか

いつもより大手を振ってずんずん歩いていた。

 

たしかに、我々がこの町にいる彼らを

少し奇異に思うように、

秋葉原の彼らもまた、

我々の姿を訝しげに見て通り過ぎた。

 

 

我々のメンバーの中で、

最もこの街で浮いているのは誰だろう。

やはり千秋だろうか?

まずスカートの短さが他と比べ物にならない。

そしてヒールの高さ、一般男性よりも

高い目線になる事を一切憚ることなく、

背筋を伸ばして自信満々に歩いている。

 

ガード下の信号待ちで、

我々がほぼ横一列に並んでいると、

いかにも『オタク』といった装いをした

中肉中背(いや、少し太り気味)の男が

千秋の背後に近寄ってきて、

夏の日差しで少し汗ばんだ

露出の多い千秋の身体を、

その後ろからまじまじと見つめていた。

 

千秋は『キモっ』っと

道路の方を向いたままこぼした。

 

千秋との長い腐れ縁で分かった事が一つある。

 

彼女は後ろにも眼がある。

 

かくいう私も、彼女のその能力のせいで、

何度も痛い目にあわされてきた。

 

信号が青になり、我々は一斉に歩き出す。

横断歩道を渡り終わる頃、

千秋が私の二の腕を肘で小突いた。

 

千秋『見た?いまの?』

私『あぁ、オタク君?』

千秋『そう!ほんっと気持ち悪かった!

         何でこの暑い中、長袖のシャツなんか着てさ

        しかも腕まくりするなら半袖着ればいいのに

        汚い肌隠したいのか何なのか知らないけど、

        デニムに汗染み込んでるし、

        最初見たとき、漏らしてんのかと思った!』

 

加賀山が慌ててシャツの裾を伸ばす。

 

私『ここはあんたの大好きな表参道じゃないんだ

       もしかしたらあいつらだって、

      俺らが変に見えてるのかもよ?

      ここがアキバである以上、

      あれが正当な装いなのかもしれない。』

 

加賀山の歩幅が、また小さくなったのを感じた。

 

松田『あっ!加賀山がシャツの袖伸ばしとる!』

レイ『言ってやんなよ松田、

          こっちまで恥ずかしくなるわ!』

 

私の視線の端のほうで、

松田とレイの背中に、

巨漢の萩原が諌めるように

パンチを入れたのが見えた。

 

千秋『あっ!ユニクロあるじゃん!

          買いたいものあったんだー。

          ちょっと寄ってかない?』

 

全員が『しまった!』と思った。

この女の買い物が長いのは、

我々の中では有名な話だ。

それに付き合っていたら日が暮れる。

そう思って私が天を仰ぐと、

実際、日はもう暮れはじめていた。

 

しかし一度わがままを言い出した彼女は厄介で

そのリクエストを断ると、

あとは空気の悪い飲み会になるのを

覚悟しなければならない。

 

我々は二手に別れることにした。

千秋のユニクロには、

レイと萩原が生贄となった。

 

バッティングセンターで遊びたいという理由で、

松田はそれを逃れた。

私と松田、そして加賀山は

ついに封筒に書いてあった

ニュー淀川ビルにたどり着いた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

我々はそのビルの正面に並び、

一階から屋上までを見上げた。

比較的新しいビルだった。

どこかの知らない企業の事務所や、

小さなスポーツ店、チェーンの喫茶店など

様々な用途で使われるビルらしく、

屋上には緑色の大きな防球ネットが張られ、

そこからはカーン、カーン、と

気持ちいい打球音が我々の頭に降り注いだ。

 

松田『よし、行くかいの!』

私『お前バッティングセンター行きたいだけだろ』

加賀山『でも14.5階って何なんでしょう?』

私『とりあえず行ってみないとな』

 

3人はエレベーターに乗り込む。

大企業が管理する小綺麗な、

真新しいエレベーターだった。

 

やはり14.5階のボタンはない。

 

私『とりあえず14階だよな』

そう言ってボタンを押した。

 

エレベーターのスピードはとても快適だった。

すぐに14階に着きピンポーン!とドアが開いた。

 

やはりビルの下から見た通り、そこは

サッカーやバスケなどのグッズを取り扱う

スポーツ用品店だった。

 

松田『なんじゃ?やっぱりここじゃないのかの?』

私『ここがなんの店だろうと別にいい。

       問題は『14.5階』がどこにあるか。』

加賀山『あっ!エスカレーターがありますよ!』

 

とりあえず3人で乗ってみた。

エスカレーターは途中で折り返していて、

その踊り場にはただ、

用具入れの扉があるだけだ。

そのままエスカレーターに乗って、上に上がる。

 

屋上に来てしまった。

そこは最新のバッティングセンターらしく

プロ野球の有名選手の投球モーションが

画面に映し出されており、

そのモーションに合わせて

白球が勢いよく飛び出していた。

 

松田『おおー!噂には聞いとったが、

         こんな立派なところじゃったか!』

私『これは、屋上に出ちまったな…』

加賀山『僕、一応店員さんに聞いてきます!』

 

喜んでいるのは松田だけで、

彼はすでに両替機の方で千円を

ジャラジャラと小銭にくずしていた。

 

松田『まぁお前らそこで見とれ!

甲子園球児のバッティング見せちゃるわ!』

私『おぅ、がんばれよー…。』

 

私がカウンターで店員と話している

加賀山にのほうに目をやると、

彼は首を横に振った。

 

加賀山『やっぱり14.5階なんて無いそうです…。』

私『だよなぁ、やっぱりあの妖怪ジジイ…。

       信用ならねぇな』

 

私は松田のバッティングを後ろから

眺めながらネットに手をかけ、

少しの間ぼんやりと球が出ては、

綺麗にバットが弾き返すのを眺めていた。

松田は、相変わらず楽しそうである。

 

1ゲームが終わると、松田はバットを置き

ネットから出てきた。

 

松田『どうじゃった?』

私『やっぱダメだったよ』

松田『なに!どういうことじゃ!?』

私『だから、14.5階なんて無いんだとさ、』

松田『ええか?ワシが聞いとるのはな?

          そんなしょうもない事じゃないんじゃ!

          ワシのバッティングがどうだったか?

          とお前らに聞いとるんじゃ!』

私『あぁ、凄かったよ。お前は大したもんだ。』

 

加賀山はもう生きる気力をなくしたように、

以前にまして小さく見えた。

 

私『まぁコーヒーでも飲もうや!買ってやるから』

加賀山『…ありがとう…ございます…。』

松田『ワシ、ジョージアな!微糖のやつじゃ!』

私『あー分かったよ了解。

       お前はそこでもう1ゲーム打ってな。』

 

私と加賀山は自販機を求め、

再びエスカレーター前に向かった。

 

私『さて、どうしたもんかねぇ…』

 

私はそんなことを呟きながら

松田と加賀山と自分のコーヒーを買った。

 

加賀山『あっ、先輩。僕コーヒー飲めないです。』

私『お前それ、早く言えよー』

加賀山『すみません、あっでも、微糖なら?

              飲めるかも?しれないです。すみません。』

私『お前、もう大人なんだから

      コーヒーぐらい飲めるようになれよ』

加賀山『そうですよねー…』

 

私と加賀山はその流れで

喫煙所を探すことにした。

ちなみに加賀山はタバコを吸わない。

 

私『あれー、喫煙所なんて普通はどこでも

      屋上にあるもんだけどなぁ…。』

加賀山『あっ、14階にあるらしいですよ!』

 

加賀山がエスカレーター前の案内図を指差す。

 

私『じゃあ14階まで降りるか、仕方ない』

 

私と加賀山は再びエスカレーターで

14階へと降りることにした。

折り返し地点の踊り場に着いた時、

想像もしなかった事が起きた。

 

『ガチャ』っと音がして振り返ると、

用具入れと書いてあるドアから、

なんと男が出てきたのだ。

 

私たち2人があっけにとられていると、

用具入れの中から出てきた男は、

私と加賀山を見るなり

『あっ、ヤバっ』と呟いて

また用具入れの扉の向こうに消えた。

 

加賀山『びっ、びっくりしたぁ…。

            一体誰だったんですかね?今の人…』

私『いやぁ俺も久々にびっくりしたが、

      でもお前、コレが『アレ』…だろ?』

加賀山『アレって?』

私『14.5階…だよ』

加賀山『えええーー!!!』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

妖怪ジジイの言った通り、

ニュー淀川ビルの14.5階は確かに存在した。

 

私たち2人は心を落ち着かせて、

その『用具入れ』と書いてある扉をノックした。

 

私『いいか、加賀山。

     ここからはお前が行くんだぞ。』

加賀山『えぇ…僕だけ行くんですかぁ?』

私『いや俺も付いてく、だが質問はお前がしろ。

      オレは、ゲームのことはよく分からん。』

加賀山『わ、わかりました…。』

 

しかし、ノックしたのにいつまで経っても

中から人が出てこない。

もう一度ノックしてみたが、結果は同じ。

 

私『よし、加賀山。お前開けてみろ』

加賀山『え!マズイですよそれは』

私『仕方ねぇだろ誰も出て来ねぇんだから、』

 

加賀山はしぶしぶ鉄製のドアノブに手をかけた。

 

扉は開いた。

 

中は外見からでは分からないほど広く、

テレビが数台、その周りには最新のゲーム機や

少し懐かしいゲーム機から伸びたコードが

乱雑に散らばっており、

その画面に向かって食い入るように

男達が7、8人で各々ゲームをしていた。

 

加賀山『あの…すみません』

 

加賀山が声をかけると男達は一斉に

無表情のまま、こちらを振り向いた。

 

オタクA『なんですか?』

加賀山『あの、えっと…

           僕…歌舞伎町のおじいさんからの紹介で』

私『バカそれは言わなくていい…』

加賀山『えっと、ちょっとお尋ねしたい事が…

             あの…色違いのミュゥ…』

オタクB『会員じゃない人は入室禁止なんで』

 

結局、

私たち2人はあっさり追い出されてしまった。

 

加賀山『やっぱりダメでしたね…』

私『いや、そんなことはない。

     とにかく場所は掴んだんだ。チャンスはある。』

加賀山『でも、会員以外は入室禁止って…

           そもそも彼ら、何の会なんでしょう?  』

私『ゲーマーの会だろ?』

加賀山『それはそうでしょうけど…』

私『ゲームが大好きなお前みたいな奴が集まって

      毎日楽しくゲームしてんだろ?オタサーだよ。』

加賀山『んーまぁきっとそうでしょうけど、

            会員にならなきゃ入れないですよ。

             待ち伏せしても、無視されそうだし』

 

私『これはもう『姫』を呼ぶしかねぇな。』

加賀山『姫?ですか?』

私『いるだろ?買い物の長いお姫様が。』

加賀山『えええーー!!』

 

私は早速、その『姫』に電話をかけた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

『姫』の力はさすがの一言であった。

オタク達は千秋を見るなり、

私たち2人に対して見せたような冷遇とは

はるかにかけ離れた

格別の高待遇で部屋へと迎え入れ、

色違いのミュウのことを

千秋に問われるがままに惜しげもなく話した。

 

私『やっぱりな。オタクは女に弱い。』

 

私がしめしめ、と自分のアイデアに酔っていると、

 

加賀山『でもこの場合『姫』というより

              千秋さんの力が凄い気がします。』

私『ん、それもそうだな』

 

確かに加賀山の言う通りだ。

彼女はオタクに限らず、夜の店に来る男達に

湯水のように金を使わせ、狂わせ、

膨大な額の金を搾り取る。

こういう芸当をやらせたら彼女は一級品なのだ。

 

私は屋上のベンチでコーヒーをすすりながら、

心の中では彼女に

これ以上ない賛辞の拍手を送っていた。

 

ハイヒールの音が近づいてきた。

千秋『終わったわよん♡』

加賀山『あっ!千秋さん!どうでした?』

千秋『んーそうね、あらかた聞き出せたと思う。』

私『おお!さすが姫、素晴らしい働きでしたぞ!』

千秋『やめてよね、姫って言ったり

          女王様って言ったり』

私『すまんすまん!

      さっ、オレらがグルだって

     あいつらにバレる前にズラかろうぜ!』

 

私たちは足早にそのビルを出た。

 

ビルの出口で疲れ果てた

レイと萩原にばったり遭遇した。

 

どうやら買い物はユニクロでは終わらず、

その後も大型家電量販店員や

アクセサリーショップにまで

付き合わされたらしく、

大きな荷物を宅急便で送るのに、

ひどく骨を折ったらしい。

 

レイ『こんな暑い時に、人に荷物持たせるなよ。』

萩原『ほんと疲れたよー。

         そっちは何か分かった?』

加賀山『バッチリです!まだ詳細は分からないけど

            千秋さんが聞き出してくれました。』

レイ『なんか加賀山、お前元気になってんな?』

加賀山『そうですか?普通ですけど?』

 

買い物に付き合わされ、

疲弊しきった男2人を見ているからではない。

加賀山の目が希望にあふれ、

その小さな身体から生気が溢れ出ているのは

誰の目にも明らかだった。

 

加賀山『さて、用事も済んだし。

              飲みに行きますか!』

レイ『もうタクシーで行こ、姐さんの奢りで』

萩原『僕もそれがいいと思う』

千秋『えー!なんでよー!

         そもそも『疲れた』って私が聞いたら

      2人とも『全然疲れてない』って言ったじゃん』

レイ『強がったんだよ、男だから!』

千秋『じゃあ今度も歩きなさいよ』

萩原『勘弁してよー』

 

安堵と達成感に包まれた我々を、

夏の東京独特のぬるいビル風が吹き抜けた。

ふいに空を見上げると、

鬱陶しかった太陽は既に、ビルに隠れ見えない。

 

それでも昭和通りを走る車の数は

ここに来た時と何も変わらず、

せわしない車の列が延々と流れていく。

このビルの前に初めて立った時のように、

屋上からは相変わらず、

カーン、カーンと乾いた快音が

我々の頭上に降り注いでいた。

 

我々は絶え間なく流れていく

昭和通りの車の列から

一台の大型タクシーをピックアップし、

それにワラワラと乗り込んだ。

どこに飲みに行こうか?なんて

他愛もない話をしながら

萩原が思い出したように言った。

 

萩原『あれ?松田は?』

 

私『あのバカのことはもう忘れろ』

 

松田を除く5人を乗せたタクシーは

笑いに包まれながら、

飲食店があかりを灯し始めた

秋葉原の飲み屋街へと、

滑るように入っていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

結局、本日1番の活躍を見せた千秋のリクエストで

寿司の食べ放題に行くことになった。

 

乾杯のビールもそこそこに、

酒飲みが揃いぶみの我々は

早々にビールから日本酒へと切り替えた。

 

私『おい!岡山の酒あるぞ?松田いねぇけど!』

萩原『いいねいいね!それ飲んじゃおう!』

 

しばし和やかなムードで宴会は続いた。

 

その岡山の日本酒を飲み終わる頃、

やっと松田が到着した。

 

レイ『遅いぞ松田!』

松田『貴様らそれでも人の子か?

          ワシゃあ、あのあとお前らが来る思うて

          10ゲームしよったんぞ?』

私『まぁ怒るな、座れよ松田!

      お前の故郷、岡山の酒だぞ?』

松田『ワシゃあ酒が飲めんのじゃて!!』

 

すっかり出来上がった我々は

その後もゲラゲラ笑いながら、

次々に日本酒の瓶を開けていった。

 

加賀山『そうだ千秋さん!

             ミュウのこと教えてくださいよ。』

私『そうだー!それが大事だー!』

レイ『千秋ねぇさん!話せ話せ!』

松田『なんじゃ、結局お前ら

         あのオタク達から聞き出せたんか?』

萩原『松田がバッティング練習してるうちにね』

松田『なんじゃワシも行ってみたかったのう、

          その『14.5階』ゆう場所に』

私『ロクな場所じゃなかったぞ?』

 

千秋がオタクから聞いた話はこうだ。

 

1、色違いのミュウをゲットする方法に裏道はない

2、神保町〜新宿三丁目にかけての古本屋で

    ごく稀に『ふるびた かいず』の未使用データが

     残ったカセットが発見されることがある。

3、『ふるびたかいず』の未使用データが

       残っているカセットは非常に高値で

      取引されることが多く、まず市場に出回らない。

4、仮にそのカセットを入手出来たとしても、

     色違いのミュウが出現する確率は10000分の1

 

レイ『おい、気が遠くなってきたぞ…』

萩原『神保町から新宿三丁目までにある古本屋の

         カセット全部買い占めるお金なんて…』

松田『ワシらも遊び半分で付き合いよったが、

          こればかりは、さすがに無理じゃけぇ…』

私『出現率は数こなせばなんとかなるとして、

      そもそも問題はカセットの入手だよな。』

加賀山『……。』

 

加賀山は日本酒のグラスをテーブルに置いて、

膝の上に両手をのせていた。

確かにまだ可能性はある。

しかし、その可能性があまりにも儚すぎた。

そのことにショックを隠せないようだった。

 

私『まぁ元気出せよ加賀山、

       難しいかも知んないけど、まだ可能性はある』

 

加賀山『いいんです。入手困難なのは

            なんとなく分かってましたから、

           関係ないみなさんまで付き合わせちゃって

            なんかすみません。』

萩原『いや、僕たちのことはいいんだよ。

          どうせ暇だったわけだし。』

加賀山『そもそも、あんなにレアなポケモン

             最初からむりだったんです。

             しかも昔のゲームだし、』

 

千秋『ふーん、諦めるんだ。じゃあ。これで、

          その子とも永遠にバイバーイ!ってわけね。』

私『何もそんなハッキリ言わなくていいだろ。

      あんたのそういう所、昔から好きになれない』

 

千秋はグラス片手に『ふんっ』とそっぽを向いた。

 

あっけなく終わりを迎えた悲しい結末の後には、

険悪なムードが流れた。

 

大皿に残った、トロ、金目鯛、ウニ、イクラ

宝石のようにきらびやかな寿司達も、

今は静まりかえって、その輝きを潜めていた。

 

我々が探し求めていた宝石、

ポケットモンスター『エメラルド』は

幻のカセットになってしまった。

 

食い意地を張っていた男達も、

静かにその箸を置いた。

 

加賀山『皆さん、今日は一日

           僕なんかのために、

        なんかありがとうございました。

        無理ってことが分かっただけでも十分です。

        それより、皆さんが協力してくれたことが僕は

 

 

私『あ“あああああーーーーー!!!!!!!』

 

 

 

松田『なんじゃ!いきなり大声出すなや!

          お前らしくもないのう!』

 

私『千秋!!お前!!お前!!』

 

私はその時、大変なものを見つけた。

 

彼女の前に置かれた箸置きである。

 

美しく翡翠色に輝く直方体の、

その材質は石ではない。プラスチックだった。

忘れもしない、

私が子供の頃、宝物のように持っていた。

 

そう、それは紛れもなく

『エメラルド』のカセットだった。

 

千秋『もう!!気付くのおそすぎ!!』

 

レイ『マジか!えっ!マジかっ!』

 

萩原『えっ!なんで持ってるの?盗んだの?』

 

千秋『失礼ね!盗んだりしないわよ!

        そのカセットちょうだい?

        って言ったら勝手にくれたんだもん!』

 

私『千秋、それ『ふるびた かいず』のデータは?』

 

一同が、息を飲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千秋『残ってる♡』

 

男全員『イヤッフぉーーー!!!!!!!』

 

その時の我々ときたらもう、

酒をこぼすどころのはしゃぎ方ではない。

振り上げた日本酒は

狭い個室に雨となって降りそそぎ、

一時は輝きを潜めた大皿の宝石達も、

水気を取り戻して、また以前の輝きを取り戻した。

我々のはしゃぎ方があんまりだったようで、

すぐに店員から注意を受けた。

 

レイ『こんな激アツな展開がくるとは…』

私『すげぇ!千秋、あんたすげえよ!』

松田『ワシのことバッティングセンターに

         置いて行きよったんも許しちゃるわ』

萩原『これであとは加賀山が色違いを出せば…』

加賀山『出来ます!これで出来ます!』

 

加賀山は千秋から

エメラルドのカセットを受け取ると

何度も礼をいいながら、

拝むように待望のカセットを

自らの額にこすりつけた。

 

なんだかんだ、彼女は優しい女だ。

長い付き合いの千秋のことを、

本当に心からそう思った夜だった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

3時間の寿司食べ放題を終えた我々が店を出ると、

時刻はすでに12時近くなっていた。

 

私『よーし、じゃあ加賀山が早く

     色違いのミュウ見つけられるように、

     神社にお参りしていこうぜー!』

千秋『えー、アキバに神社なんてあんのぉ?』

松田『ひとりクリスチャン混じっとるがのぅ

          ええんかいのぅ?その辺は?』

萩原『僕なら、ウッ、大丈夫。ウッ…

          修学旅行も京都だったし…ウッ…!』

レイ『それでぇ、りょうさん神社どこにあるか

         知ってるんですかぁー?』

 

完全に飲みすぎた我々は肩を組みながら、

なだれ込むようにタクシーに乗り込んだ。

 

運転手『じゃあ、どちらまで?』

私『湯島ぁ!でお願いしまーっす!

      湯島天神でー!!』

運転手『かしこまりました、

            では春日通り沿いで付けさせて頂きます。』

全員『はぁーーい!!』

 

我々をギュウギュウに詰め込んだタクシーは

ピカピカ光る街灯が眩しい秋葉原を出て北上し、

続いて上野御徒町交差点を左に左折し、

春日通りの坂を登っていった。

 

レイ『湯島天神って、聞いたことあるぞぉ?』

萩原『学問の…神様だよっ…ヒックっ…』

松田『佐々木よぉ、なんでワレェ

         そんな場所知っとんのじゃ?』

私『おれぁ、昔なぁ、この辺住んでたんだわ』

千秋『えー!私その話聞いたことないー!』

加賀山『それ確か、佐々木さんがお兄さんと

             暮らしてた頃ですよねぇ?』

私『おぉー加賀山ぁ!お前に話したんだっけ?』

加賀山『はい昔、聞いた覚えがあります』

 

運転手『はい、大変お待たせ致しました。

             湯島天神。到着でございます。

           お忘れ物ございませんよう、お願いします』

 

レイ『加賀山ぁ、カセット忘れんなよぉー!』

 

レイがそう言って冷やかす。

私が加賀山の方を振り返ると、

いかにも『シャキーン!』といった様子で

カセットを見せてくる。

 

私『ったく、元気になってよかったよ本当に』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

湯島天神は荘厳な神社だが、

夜間、境内は開放されている。

昔この辺に住んでいた私は、

上野で飲んで家に帰る際、

よくこの湯島天神の境内を通って

ショートカットしたものだ。

 

千秋『湯島天神って学問の神様でしょ?

         いいの?ゲームのお願いなんかして?』

私『いいんだよ。そんな事は。

     これだって立派な遊びの勉強だ』

レイ『ほら、さっさと拝んで帰ろうぜ』

松田『二礼二拍手一礼じゃ、間違うなや?』

萩原『分かってるよ。あれ?加賀山は?』

 

我々が振り返ると、

加賀山が柳の下でうずくまっている。

我々が心配して近寄ってみると、

酒の飲み過ぎで吐いてしまったようだ。

それを見てると、なんだか笑えてきた。

 

私『お前、ほんとバチ当たりなヤツだな、

      神社の境内で吐くなよ、みっともない。』

加賀山『ゔうぇーっ…すみません。

            だって、普段こんなにのまないから』

 

ひと通り吐き終えた加賀山を加えた後、

我々は気を取り直して、

学問の神様に参拝した。

 

鐘を鳴らし、小銭を投げ、二礼、二拍手、

そして、長い一礼をした。

 

その時、社の奥で『ゴトッ』と音がした。

みんなその音に慌てて、目を開けた。

 

レイ『なんだ?泥棒か?』

千秋『もしかして祟りじゃない? 

          さっき加賀山が吐いたから』

私『千秋、怖いこと言うなよ』

 

その時、社の奥が青く光った。

次の瞬間、

青白く、ツルのように

長い尻尾が見えたかと思うと、

その青い光は社の横に飛び出し、

近くの草むらのにガサガサっと消えた。

 

私『今の見たか?』

松田『尻尾が生えちょったな』

加賀山『生き物…ですかね?』

レイ『生き物はあんな風に光らんだろ。』

千秋『ミュウじゃない?』

私『千秋、それ笑える』

萩原『でもミュウはピンクだよ?』

私『ほら、色違いのミュウだから…。』

全員『……』

全員『あはははは』

 

そうして全員でひと笑いした後、

酔いがサーッと冷めていくのを感じた。

 

私『よし!今日はこれで解散!』

 

私の声で、一同はそそくさと帰路に着いた。

 

帰りの方向が一緒の萩原と松田は電車で、

 

加賀山は新宿に自転車を取りに行くと言って

レイと一緒のタクシーに乗った。

 

私と千秋の家は近いので、

一緒に四ツ谷までタクシーで帰った。

 

長い1日が終わった。

今日はなんといっても、

千秋の活躍が大きかった。

それに、

いつもは加賀山を小馬鹿にしているレイも

実は彼のために

密かに情報収集をしていたこともわかった。

 

静まり返ったタクシーの車内では、

千秋が私の右肩に頭を乗せてきた。

いつもなら『ほら、しっかりしろよ』と

払いのけるが、この日はこのままにしておいた。

 

酔っ払った彼女は更に調子づいてきて、

私の右手まで握ってきた。

酒で火照った彼女の指が、

やけに感度を高める。

胸元の露出が多い服は、

もう少しで全部見えてしまいそうだ。

彼女の髪から香るいい匂いのせいで、

私にも、なんだか良からぬ感情が湧いてきた。

 

私『少し窓を開けてもいいですか?』

運転手『あっ、すみません!暑かったですか?』

私『いえ、そうじゃないんです。』

 

私は少しだけ窓を開けて、いつまでも

真夏の東京に流れる風の音を聞いていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

10,000分の1という確率は、甘くなかった。

 

ミュウに遭遇する直前にセーブをして、

それが色違いでないことを確認すると、

電源を消して、という行程を何百回も繰り返した。

 

狭い雀荘で、

大人6人で固まって、

ゲームボーイアドバンス

小さな画面を見ながら

色違いのミュウが現れるのを待った。

 

時には私や他のメンバーが

加賀山とプレイヤー交代をしたりした。

その繰り返しも、1000回を超えてくると、

もうほとんど神頼みになった。

 

我々は思いつく限り、

さまざまな『願かけ』をしたりした。

 

紙にミュウの絵を描いて、

その上に、店長の黄さんが大事にしている

パワーストーンを置いてみたり。

 

今日の運勢を調べて、

運のいい方角を向いてプレイしてみたり。

 

果てには

千秋の胸の谷間にカセットを挟んでみる。

というくだらない願かけまであった。

 

そんな事を何千回も繰り返して、幾日か過ぎ

ついに誰も数えるのをやめたある日の夕暮れ、

 

待ちに待った『色違いのミュウ』は現れた。

 

加賀山『きっ、きたぁー!!!』

レイ『え、うそ!!』

私『マジかっ!遂に来たか!!』

千秋『え!見せて見せて!どんな色?』

 

かつて子供だった大人たちは

加賀山のソファに駆け寄った。

 

 

我々が待ち焦がれた色違いのミュウは、

なんとも名状しがたい、

美しい青色をしていた。

 

萩原『これが色違いのミュウ…』

松田『ずいぶん、待ったのう…』

レイ『色違いって、青…だったのか…』

千秋『綺麗…』

私『あぁ、本当だな』

加賀山『やっと、会えました』

 

我々はしばらくその姿に、

ここ数日間で起きた夏の出来事を重ねていた。

 

加賀山『それでは、捕まえます』

私『ミスるなよ』

 

ポケモンを確実に捕まえられる

マスターボールが手元から投げられると、

ミュウはそのボールの中で少し動いたあと

ピタっと動きを止め、マスターボールに収まった。

 

レイ『やっと、終わったな』

萩原『長かった』

私『俺たちの仕事はこれで終わりだが、

      加賀山はここからが本番だよな?』

加賀山『え?』

千秋『ほら、例の女の子に見せるんでしょ?

          そうだ、なんていうの?その子の名前』

加賀山『みうちゃんです。』

千秋『え?ミュウちゃん?』

加賀山『違います、美羽(みう)ちゃんです』

私『なんの偶然だ?これ。まぁ頑張れよ』

松田『ワシらも一緒についてくけぇ心配いらん』

加賀山『えっ、皆さんもくるんですか?』

レイ『行かねーよ!お前1人でやれ』

松田『ワシは、付いてってやってもいいぞ?』

私『松田お前、自分が最近女の子にフラれたから

       他人がフラれるの見たいんだろ?』

萩原『まだフラれるって決まったわけじゃ…』

私『あっ、そうか』

千秋『ほんと最低な男ね、あんた達』

 

レイ『ところで、ミュウは青かったな』

私『何いまさら言ってんだよ、レイ』

レイ『いやだから、俺たちが湯島天神で見た

           『光る生き物』も青色だったな。って…』

全員『……』

全員『あははは!!!』

 

いつもの調子を取り戻した我々が

談笑に花を咲かせる店の中には、

あの青色のミュウが運んでくれたのか、

どこか懐かしい感じのする。

涼しい夜風が吹いていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

それから数日後の蒸し暑い夜、

私は仕事終わりの千秋と

とある青山一丁目のバーで待ち合わせをしていた。

 

少し紫がかったネイビーの生地に

うっすらと茶色い、太めのストライプが入った

セットアップスーツを着て、

琥珀色に輝くウイスキーボトル達を

ぼんやり眺めながら、

店長の選曲センスの良さが光る

ジャズ音楽に耳を傾けたり、

逆サイドのカウンターに座っている

下心が丸見えの男女の会話に耳をそばだてては、

バーテンダーと苦笑いをしたりしていた。

 

彼女は少し仕事が押しているようで、

ナッツをつまみに、軽めの赤ワインを

くるくる回しながら彼女を待った。

 

そもそも千秋のやつ、どうして今夜は

こんな気取ったバーを選んだんだろう。

いつもはガヤガヤしたアイリッシュパブ

ビールをしこたま飲むだけなのに。

 

私が二杯目のワインを何にしようか、

メニューから選ぼうか、

それとも店員に聞こうか迷いながら

タバコに火をつけると、

上品な白シャツに黒ベストで

これまた黒い蝶ネクタイをした

50代ぐらいの店員が重いドアを開けて、

千秋を店内に迎えた。

 

千秋『ごめん、ちょっと遅くなった』

私『お先に一杯頂いてるよ』

千秋『二杯目は?』

私『いま考え中』

 

その日千秋が着ていた

白地に上品な金刺繍が入った

ノースリーブワンピースは

この店の雰囲気と良くあっていた。

それどころか、灯りを落とした暗い店内に

上品な白いワンピースと

色白な彼女の美しく長い腕がよく映えて

彼女は一瞬でこの店の主役となった。

 

私『今日も素敵なお洋服で、』

千秋『あなたのスーツも素敵よ』

 

2人で会う時は必ず洋服をほめる。

少しかしこまって『あなた』と呼び合う。

これは我々がオーセンティックなバーで

会う時の不文律のルールであった。

 

千秋『私はマルガリータにする』

私『俺はカフェ・カベルネ

千秋『あなた、それ好きよね。安ワインだけど』

私『いいだろ、好きなものを飲むんだ俺は』

 

バーテンダーに注文をすませると、

すぐに彼女の前にはチャームとして

小ぶりな皿にのった生チョコが提供された。

 

私『いいなぁ、俺にはナッツだったのに』

千秋『いいでしょ?生チョコ

        私にはいつもコレ出してくれるの』

 

私が先程まで会話に耳をそばだててていた

逆サイドの男女を見てみた。

やはり男も女もチャームはナッツだった。

 

それからすぐに、カウンターの向こうから

マルガリータと赤ワインが提供されると、

私たちはグラスを合わせることなく、

軽く会釈するように乾杯した。

 

千秋『あー美味しい。

       やっぱり自分のお金で飲むお酒は格別』

私『俺はタダで飲めるに越したことはないね、

      なんなら奢ってくれてもいいんだよ?』

 

千秋は少し笑って、また一口飲むと、

 

千秋『女の子をタクシーに置いたまま

         ひとりで帰るような人には奢らなーい』

私『こないだの事まだ怒ってるの?』

 

そんなこんなで

しばらく仕事の話や世間話をした後

ふいに加賀山の話になった。

 

千秋『そうだ、加賀山!

         例の子に話しかけたかな?』

私『ん?あーそうだそうだ、加賀山のやつ、

     結局ミュウの件でその子に話しかけて

     隅田川の花火大会に誘ったらしいよ?

     そこでいよいよミュウを見せるんじゃない?』

千秋『えー!意外。けっこう話進んでるのね。』

私『なんかあいつも、自信ついたのかな?』

千秋『花火大会かー。田舎の高校生みたい。

          それ、誰のアイディア?』

私『松田』

千秋『やっぱりね』

 

千秋はいつも、

クルーザーの上から花火を見たり、

ヨーロッパまで行って花火を見たりしているが

それらは全て仕事である。

意外にも彼女のプライベートが寂しいのを

私は付き合いが長いせいで、よく把握している。

 

私『隅田川の花火大会、一緒に行く?』

千秋『え?ふたりで?』

 

私の唐突な言葉に

彼女の表情には少しの動揺が見られた。

 

私『うん、ダメなら松田とかと行くけど』

千秋『えっ、えーっと、どうしよっかな?

        仕事とかあるかもしれないし、多分ないけど』

私『そう、』

千秋『あっあとで確認して連絡するから』

私『そう、分かった』

千秋『だから一応…空けといて』

私『OK、分かったら連絡して』

千秋『…うん』

 

その後、

終電をとっくに過ぎた夜中3時までバーで飲んで、

麹町にある彼女のマンションまで

タクシーで送った。

 

白い石を基調とした立派な玄関から

マンションに入っていった彼女は、

エレベーター前で一度こちらに振り返ると

少し口もとを緩ませながら小さく手を振り

そのままエレベーターの中に消えた。

 

私は金がもったいないので家まで歩いた。

ここから500メートルと行ったところだ。

酔い覚ましにはちょうどいい距離である。

 

コーヒーを欲していた私は、

公園の暗闇にポツンと光る自販機を見つけた。

夏場の自販機は、その人工的な明るさに

周りには羽虫がたかっている。

 

秋葉原のニュー淀川ビルで、

加賀山に缶コーヒーを飲ませたのを思い出した。

 

ここ数日で、1人の男子が成長したように思う。

コーヒーも飲めなかったあの加賀山が、

女の子に自ら話しかけ、

更には花火大会にまで誘った。

 

今、彼はどんな気持ちだろう。

運命の花火大会当日に

女の子と話す内容でも考えているのだろうか、

ふいに彼の気持ちが知りたくなって、

いつもは選ばない甘いコーヒーのボタンを押した。

 

スーツでは暑すぎる夏の夜、

私は羽織っていたジャケットを

小脇に抱えてネクタイを緩め、

甘いコーヒーをすすりながら、

革靴の音をアスファルトに響かせて、

少しだけゆっくりと、自分のアパートに帰った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

隅田川花火大会当日、

蝉の声が時雨となって降り注ぐ道路を、

私は車を運転しながら会場に向かっていた。

 

環七通りはいつもに増して渋滞で、

私はセカンドギアのまま、少しずつ

アクセルを踏んだり離したりして

花火大会へ向かう車達の長蛇の列に紛れていた。

 

助手席から大きなサングラスをかけた千秋が

なにやら不満そうに話しかけてきた。

 

千秋『なんで電車にしなかったのよ』

私『俺はそれでもよかったけど、

       電車だと長い間立ちっぱなしだぞ?

       あんたが大変だと思ってさ』

千秋『誰もそんなこと頼んでないから』

私『そんな高いヒール履いてきて、

       今更なに言ってんのさ、』

 

私がそういうと

千秋は一段と不満そうに、

スタバの黄色いフラペチーノを飲んでいた。

 

私『それ、なに味?』

千秋『トロピカルマンゴー』

私『夏だねぇー』

千秋『飲みたいならあげる』

 

私は前を向いたまま、

口もとだけ動かして、

千秋の差し出すストローを加えた。

 

千秋『加賀山、うまくいってると思う?』

私『どうだろうな、実はそこら辺はどうでもいい』

千秋『どういうこと?』

私『あいつがその子とうまくいけば一番いいけど

     実は、そんな事は些細なことなんだ。 』

千秋『だから、どういうこと?』

私『初恋を『終える』ということの方が

      男にとっては大事なことなのかもしれない。』

千秋『変なの、結果が全てなのに。』

 

少し夕陽が厳しくなってきた。

私は座席上にかけておいた

サングラスをかけた。

 

サングラスの2人を乗せたセダンは

環七通りを少しずつ前進し、

夏の隅田川が見えてきたころには、

あたりは少し暗くなり、

川から吹いて来る涼しい風を感じることができた。

 

私は隅田川の土手近くにある、

花火がよく見える駐車場に車を停めた。

 

千秋『さて、場所取りにでもいく?』

私『いや、ここでいい。』

千秋『ここ?なんで?車から見るの?』

私『そういう計画なんだ。』

千秋『そういう計画?』

 

『計画』というのは加賀山のために

松田が用意した計画である。

 

彼らは昨日の時点で既に、

この隅田川土手の

場所取りを済ませていて、確かにそこは

花火がよく見える絶好の位置だった。

 

加賀山と美羽ちゃんはここで花火を見ながら、

いいタイミングで加賀山が

例の青いミュウを見せる。

 

松田らしい。ベタベタの告白作戦だった。

そしてその土手の場所は、

我々が今停まっている車のフロントガラスから、

ちょうど正面にあたる。

この駐車場は、

花火も告白も見ることができる、

絶好のポイントだった。

 

千秋『なるほどねぇ、でも松田に頼んだのが

          加賀山も運の尽きね、』

私『まぁオレも、それは思う』

 

松田の告白が失敗した例というのは数え切れない。

 

カーステレオから流れる音楽を聴きながら、

花火大会が始まるのを待っていた。

数分後、

加賀山とその子の姿が見えてきた。

 

私『おっ!来たぞ来たぞ!』

千秋『美羽ちゃん、結構かわいいじゃない!』

私『ほんとだ、加賀山のやつやるな!』

 

夕暮れのオレンジが地平の向こうに沈み、

青色を帯びた真夏の夜の天球が、

この辺り一帯を包んだ。

隅田川の向こう岸から、

まだ薄明るい群青の夜空に

すぅーっと一筋の煙が上がると、

ピンク色の牡丹が夜空に広がった。

少し遅れて、

大玉の弾ける音が『パンっ!』と聞こえると

隅田川の土手は歓声に包まれた。

私たちもサングラスを外して、

次々と水面に浮かんでは消える

色とりどり光の花を、黙って眺めていた。

 

花火というのは、なんと短い命だろう。

数えて10秒も経たないうちに

美しく咲いては消えて行く。

 

打ち上がるピークの時間帯が終わり、

少しの間があって、

青い大輪のしだれ柳が夜空にあがった。

短い夏を惜しむように、

青く光る無数の枝は、夜空に糸を引きながら

ゆっくりとゆっくりと、隅田川に落ちていった。

 

千秋『『青』って、きれい…』

 

私も心からそう思った。

 

私たちが花火に見とれているうちに、

もう一つの短い命が、

隅田川の土手に落ちていた。

 

私たちが夜空から目線を土手に移すと、

既に美羽ちゃんの姿はなく、

加賀山は土手に、ひとりで座っていた。

 

私『短かったな。』

千秋『最初から分かってたくせに』

私『良かったんだよ、これで』

千秋『かわいそう…』

 

千秋は夜なのに再びサングラスをかけて、

少し鼻をすすったかと思うと

車のサイドガラスの方を向いた。

 

千秋の顔が映るサイドガラスの方を見ると、

その向こうで、

スクーターに2人乗りしていた、

チビとデカのコンビが、

力なくエンジンをかけて走り出したのが見えた。

 

私『俺たちも帰ろう』

 

大学生の夏休みは長い。

8月の上旬、まだ始まったばかりだ。

 

私が車のエンジンをかけ、

ハンドルを回しながら車を出す。

まだ土手で丸まっている

加賀山に目をやると、

その隣には

いつか湯島で見た青い光の生き物が、

長い尻尾を垂れて、

まるで彼に寄り添うように座っていた。

 

ーーーーーーーーーーーー終わりーーーーーーーー

私の父親。

ーはじめにー

 

こんな私にも、父親という存在がいる。

 

ツイッターであまり父親について語らないのは、

私自身、『私の父親』という存在を、

うまく飲み込めていないからだ。

私はツイッターでもなんでも、

書きながら物事を整理するタイプだ。

 

これは私の父親理解のための文章でもある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

今朝、ヤマト運輸から荷物が届いた。

それは父親からのものだった。

 

紙袋の中に入っていたのは2冊の本、

『サピエンス全史』と『ホモ=デウス

その名前は、かねがね耳にしている。

世界のインテリ層が声高に

『これが新時代の教養になる』と謳っているのが

この2冊の本である。

本と一緒に小さなメモが入っていた。

『年内に読みなさい』

 

一般的な家庭ならば、

フラフラしている大学生のバカ息子に

ちゃんと勉強しろ!という父親の叱責。

という解釈で間違い無いのだろうが、

残念ながら我が家にそれは当てはまらない。

 

しかしながら、私は父親が送ったメモの、

そのあまりに控えめな意図を汲み取って、

朝っぱらから少し笑った。

私の父親は、

コミュニケーションの下手な父親だったから。

 

父の職業は高校の国語教諭で、

今は地元の県立高校の副校長をやってるらしい。

『らしい』という言い回しで、

勘のいい人は気づくだろうが

私は父親ともう何年もまともに話をしてない。

それは理由はもちろん、

私の現在の体たらくな身分もあるが、

それよりもむしろ、父親の寡黙さに起因する。

 

私のツイッターも合わせて読んでる人は

既に知っているだろうが、

私の家系はとにかく大柄な家系で、

私が183センチに成長した今でも、

私のことを『チビ助』と呼ぶくらいだ。

ちなみに私の下の名前は『諒』であり、

もはや『チビ』でもなければ、『助』ですらない。

 

その体躯に加えて、大酒飲みの一族である。

正月に、東京や関西から一族が地元に集まると

日本酒の一斗や二斗では足りない。

地元では、その長身が目立つのと相まって、

少し有名な一族だ。

 

 

ここまで話した『一族』とは全て

私の『母方の家系』のことである。

私は生まれも育ちも、

母方の家系に囲まれて育った。

 

父は、婿養子であった。

都会であったらともかく、

私の地元のような、田舎での婿養子。

その肩身の狭さは想像に難くない。

 

去年の正月に、祖父や祖母、

更にはおじさんや従兄弟を含めた

30人ほどで温泉旅館を貸し切って

宴会を催した時の写真が残っている。

その写真を見てみると、

キリンやクマなどの大型動物が並ぶ中、

その端っこの方で、こじんまりと

眼鏡をかけたアライグマのような男がいる。

それが、私の父親だ。

 

父は、豪胆な母親の家系とは

とにかく正反対の人間だった。

 

まず酒が一滴も飲めない。

付き合いで一杯飲むとそこから2日は床に伏す。

そして他人とのおしゃべりが苦手、

宴会などというものは、最も避けたい人種だ。

 

父の趣味は読書。本が唯一の友達だった。

これは大袈裟に言っているのではない。

私は生まれてこの方、

父親の友人というものを、見たことがない。

 

生身の友人がいない分、

父の本への情熱はすごかった。

好きな作家を見つければ、作品はもちろん

まるで研究者のように、

その作家が連載してるエッセイや、

周辺の人間が思い出を語る二次文献まで、

最後は全集を買って、その作家の読書を終える。

とにかく名を知られている本で、

父が持っていない本はないと言ってもいい。

 

私も高校生までは、一緒に暮らしていたので

父に『〇〇の本ある?』と聞くと

次の日の朝には、リビングのテーブルに

その本と、関連本がどっさり積まれている。

そんな感じだった。

 

母から聞いた話によると、

と言っても私の想像通りだが

父は学生の頃からほとんど友人を作らず、

部活も帰宅部だったらしい。

その反動なのか、私や兄には

勉強よりも、部活を思う存分やらせてくれた。

まぁ、やらせてくれたと言っても

ほとんど放任で、必要な物があれば買い与える

と言ったスタンスであった。

しかし父から『勉強しなさい』と言われたことは

人生で一度もない。

 

私も兄も大学時代まで好きに部活をやったが、

家族が試合を観に来たことはほとんどない。

兄は『父さんはどうせ興味ないんだろう、

母さんは部活なんてもうやめなさい!派だし』

と言っていた。素直にそうかもな、とは思う。

 

しかし何かそう決めつけられない思いが、

私の心の、ずっと深いところにあった気がする。

 

私は、父との記憶を辿っていた。

こういう時、思い出が少ないというのは

ある意味ラクだ。

 

少年野球を始める前、8歳ぐらいだったか、

父と公園でキャッチボールをした。

無言で捕っては投げ、捕っては投げしていた。

休憩を挟んで何時間もキャッチボールをしていた。

 

キャッチボールが面白かったのもあるが、

父が動いている、というのが何より面白かった。

 

普段、まったく口を開かず。

まるで置物のようにソファーでテレビを見るか

部屋に篭って本を読むばかりの父が、

私が投げたボールを捕り、

それを投げ返してくるのである。

当時の私にはそれが面白くてしょうがなかった。

 

少年野球を始めてから、

しばらくはイチローに憧れて外野手やっていた。

 

ある日、高学年の男の子が風邪をひいたので

私が代理でキャッチャーをさせられた。

初めてなので、結果は散々だったが

家に帰ってソファに座っていた父に、

『今日初めてキャッチャーやったんだ』

と報告した。

父は『そうか、』と言うだけだった。

 

それから数分して『車にのれ』と父が言う。

どこか飯でも食べに行くのかと思っていたら、

近所の『タケダスポーツ』に車を寄せた。

私がてくてく付いていくと、

父は少年軟式グローブの前で止まり、

『どれだ?』と私に聞く。

私が『これがキャッチャーミット』と言うと

『一回はめてみろ』と言ったので

ミットをはめてみると、私からそれを受け取り

そのままレジに行って購入した。

 

あまりに突然のことで、

私は、まさか買ってもらえるとは思わなかった。

『明日からはまた外野なのに…』と

思いながら、帰りの車の中で

新品のキャッチャーミットを抱きかかえていた。

 

その後もやはり、

キャッチャーをする事はなく、

外野手として少年野球を卒業した。

 

中学に入っても野球は続く、

慣れない坊主頭をみんなで笑い合いながら

毎日練習していた。

 

そんな下積み時代のある日、

一年生からブルペンキャッチャーを出すようにと

監督から指示があった。

 

大人になった今から思えば、

ブルペンキャッチャーというのは

後々、キャッチャーになれるが、

試合にはあまり出れない難しい役回りだった。

 

しかしそんな事はつゆ知らず、

『おれ、キャッチャーミット持ってるよ!』と

あけすけに私が言ってしまったものだから、

私はその日からキャッチャーになってしまった。

 

しかしキャッチャーとしての日々は

想像以上におもしろかった。

外野手出身の私はまず、

『自分が全てのプレーに絡む』

というのが大変な衝撃だった。

 

『外野は黙ってろ』とはよく言ったもので、

実は外野手は、ほとんどの守備に関与しない。

そして『バッテリー』という名の

ちょっとした特権階級に属し、

試合のアップは野手と別で行う。

守備の時は、ピッチャーのリード、

野手の守備位置の確認、盗塁牽制、送球先の指示。

会社で言えば、総合職的な仕事。

その大変さと楽しさを知った。

キャッチャーの仕事量に比べれば、

バッターとして打席に入っている時間は、

ほとんど遊びのようなものだった。

 

そうして野球の面白さを知りながら、

選抜チームのキャッチャーまでやって

私は中学で野球を終えた。

たまに『あれ?そもそも何でオレは

キャッチャーやってるんだっけ?』

と思い返しては、

父とタケダスポーツに行った

あの日のことを思い出していた。

 

中学で野球をやめ、ハンドボールを始めた。

強豪校だったのもあり、野球部以上に厳しい

練習に明け暮れる日々は風のように流れた。

 

インターハイ出場をかけた高校生活の大一番。

岩手県大会 決勝。

集合は朝の7時、

会場は家から自転車で5分の総合体育館。

 

寝坊の私も、この日ばかりは早く起きて

しっかりと朝食を食べ、決戦に備えていた。

私にとっては高校人生の大一番でも、

世間は平日で、父は出勤の準備をしていた。

 

やがて時間になり、玄関で靴を履いていると

父が後ろから話しかけた。

『送ってこうか?』というのである。

家から自転車で5分の距離なのに、

私が振り返ると、父はネクタイを結びながら

チラチラとこっちを見ている。

『いや、別にいらないよ?近いし』と返すと

父はそのまま『そうか、』と言うだけだ。

 

『じゃあ行ってくる』

と私が玄関のドアを開けると

父は少し慌てながら『頑張れよっ、』と言った。

私が振り向くと既にドアは閉まっていた。

再びドアノブに手をかけたが、

開けるのも野暮だと思ったので

自転車のベルを二回鳴らして会場へ向かった。

 

ここまでくると一体どっちが

コミュニケーション下手なのか分からなくなる。

まったくもって調子の狂う朝だった。

でも、それが父と交わした中で

最も親子らしい行為だった。

 

大学に入ってもハンドボールは続け、

たくさんの友人に恵まれ、幸せな日々を送った。

 

私の選手としての引退試合

秋の関東リーグ決勝

決勝の相手は、名門  慶應義塾

勝手も負けても、これが最後の試合だった。

試合は前半終わって7点ビハインド、

『選手としての時間は、あと30分か』

そんな事を思いながら私は、どこかうわの空で

ハーフタイムの水分補給をしながら

チームの仲間と作戦を確認をしていた。

 

私は、ある日の兄の言葉を思い出していた。

 

『父さんは、俺たちの部活とか興味ないんだよ』

 

スポーツ人生の終了を前に、

私はその言葉が気になっていた。

たしかにそうだ、

父が試合を観に来たことなど、今まで一度もない。

そして今日、父の知らない場所で、

その最後の試合が終わる。

ふと私は、超満員の観客席に目線をあげた。

紺色と黄色のストライプが眩しい

慶應の応援団は、自分たちの優勝を目前に、

いつもに増して活気付いている。

 

教育熱心な慶應の親たちは、

一体どんな顔をしているんだろうと思い、

私は目を凝らした。

そして自分の目を疑った。

 

父がいた。

 

なぜか上智ではなく、慶應の応援席で

腕を組みながらキョロキョロと

辺りの様子を伺っている。

まぁ大方、ホームとアウェイの違いも分からず

適当に座っていたら、

慶應に囲まれてしまったという感じだろう。

 

ハーフタイムの終わりに

私はディフェンスポジョンに着くと

慶應ベンチに向かって『よっ!』と手を挙げた。

父は依然、少しも動かない。

私の隣にいた後輩が

『佐々木さん、女でも来てるんですか?』

と言うので、『可愛いやつでさ、照れてんだよ』

と適当に誤魔化しておいた。

照れていたのは私の方だったかもしれない。

 

結局、試合に勝つ事は出来なかったが

自分の競技人生を締めくくる良い試合が出来た。

 

それからしばらくして、

兄貴にこの事を話したら、

『見間違いだろ』と笑われてしまった。

あまりにあっさり言われてしまうと、

こちらとしても自分を疑いはじめてしまう。

 

あるいは本当に見間違いなのかもしれない。

あの時私は、幻覚を見たのかもしれない。

 

私のスポーツは父とのキャッチボールから始まり、

その野球が中学で開花したのも、

父があの時、唐突にキャッチャーミットを

買ってくれたからだ。

いつも、その岐路には父がいた。

 

学校が変わり、競技が変わり、

それがハンドボールになっても、

競技人生の最後に、

私の心が、父の姿が現れるのを欲した、

ただ、それだけなのかもしれない。

 

だけど、私はそれでも良いと思っている。

自分の心に『父』がいることが分かった。

寡黙で何も話さないが、

私の人生の岐路に、いつも父の存在がある。

そのことを確認できたから。

なんだか、兄貴がまだ気付いていないことに、

自分が気付けて、少し嬉しかった。

 

 

話はだいぶ戻って、今朝送られてきた本である。

ここまでいかに父が寡黙で

コミュニケーションが下手かを

分かって頂けたかと思う。

 

送られてきた2冊の本の名前は

えっと、なんだっけ?

まぁ、正直それが何の本だっていいのだ。

『年内に読みなさい』というメモはつまり、

 

年末までにこの本を読んで、

正月、実家に帰ってきたらこの本で少し話そう。

 

そういう意図なのである。

控えめで下手くそな、

父からの『おしゃべりのお誘い』だった。

 

思えば、私も文学部だ。

父があんなに本を与えてくれなかったら、

知的好奇心を伸ばしてくれなかったなら、

私は文学部はおろか、大学にも入らず、

東京にもいなかったかもしれない。

 

だから家に帰ったら父に話そう。

あの時のことや現在のこと、

そして、これからのことを父に話そう。

それがきっと何年後か、

『あっ、あの時に父さんに話したから今…』

って思う日が来るだろうから。

 

でも俺、父さんには隠し事も多いんだよなぁ。

大丈夫、都合が悪くなったら

酒でも飲ませて眠らせればいいさ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終ーーーーー