聖帝さまの小話

基本、思い出。

三軒茶屋 梨の木の思い出。

  三軒茶屋にはちょっとだけ縁がある。

大学1年の頃に付き合っていた彼女が、

ここ三軒茶屋に住んでいた。

私は当時住んでいた文京区本郷の部屋で

ガス、水道など公共料金の支払いを滞らせては、

一週間ほどの荷物をまとめて、

三軒茶屋にある彼女の家に転がり込んでいた。

 

夜型の私は、彼女が寝静まってから

そーっと部屋を抜け出し、缶コーヒー片手に

夜の三軒茶屋を散歩する。

彼女はきっかり12時に寝て、

朝日が昇るまで絶対に起きない

シンデレラのような女性だったので、

私が夜中に部屋を抜け出している事を

気付かれたことはない。

 

世田谷区三軒茶屋

おしゃれに敏感な若者が多く、

隠れ家的なカフェが点在するイメージの街だが、

首都高沿いは、夜中にもかかわらず、

車はひっきりなしに轟音を立てて流れていく、

とてもじゃないがうるさくて落ち着かない。

周りを見渡しても、

大手飲食チェーンが軒を連ねるばかりで、

三軒茶屋らしさなど、どこにもない。

 

通りには、お酒をおぼえたばかりの

昭和女子大と駒沢大の学生が大手を振って

24時間営業の魚民へ入っていく。

だいたいそんな感じだ。

 

私も例に漏れず、営業終了間際の天下一品に

滑り込んで、カウンターでこってりとした

豚骨らーめんを食べていた。

 

店員に『すみません、閉店です』と言われ、

水を一杯飲み干し、店を出る。

どうやら一駅ぶんぐらいは歩いたようで、

気がつくと駒沢大学駅まで来ていた。

 

秋の風が、首都高の機械熱と混じり合い

らーめん後の私には少し物足りない涼しさで

店のドアを吹き抜けていく。

 

来た道とは違うルートを通って帰った。

住宅街の細い路地を一本入ると、

先ほどまでの首都高の喧騒とは一転して、

もの静かな通りに入った。

 

夜中で灯りこそ付いていないものの、

昼は営業していそうなカフェが何軒もあった。

『あーこっちが本当の三軒茶屋なんだな〜』と

思いながら、ブラブラと角を曲がる。

 

どこを見渡しても、同じような顔をした

小綺麗なマンションか

立派な一軒家が続くばかりだ。

 

その中に1箇所だけ不思議な区画があった。

昔ながらの灰色のブロック塀で囲われた、

古い木造の民家だ。

広い庭には、小さな畑だろうか、耕した跡がある。

中ぐらいの木が3、4本生えていて、

その木を下から見上げると、

満月の明かりに照らされて

何か実のようなものが

ぶら下がっているのが見えた。

 

それにしても古い家だ。木造の家の板は倒れかかり

屋根のトタンは一枚完全にはがれている。

周りの小綺麗なマンションから比べて、

明らかにその区画だけが取り残されていた。

 

三軒茶屋にもこういう家があるんだなぁ』

田舎育ちの私は少し嬉しくなった。

どれも同じような建物じゃつまらない。

こういう都市開発に置き去りにされた

区画があったっていい。そう思った。

 

家に帰り、ドアをそーっと開け

小さな声で『ただいま』と言って部屋に入り、

シンデレラの寝姿を確認してから

私は床に就いた。

 

次の朝、デートの予定を決めていなかった私たちは

家を出てから、あてもなくブラブラと住宅街の中を

歩いて行った。

当時、女子の間では一眼レフが流行っていて、

彼女もまた、首からNIKONの一眼レフを

ぶら下げていた。

歩いているうちに、あの古い民家にたどり着いた。

『あっ、ここ昨日きた』と私が言うと

『ん?昨日?きたっけ?』と彼女が首をかしげる

そうだ、夜中に散歩してるのは秘密だった。

『ん、あー昨日じゃないか、もっと前に見た』と

適当にごまかして、チラッと彼女の方を見ると、

シャッターチャンスとばかりに

パシャパシャと民家の写真を撮っていた。

 

一安心した私は、ひとりごちに

『でもさ、こんな一等地なんだから、

土地を売ったらもっと綺麗な所住めそうなのにね』

と言うと。彼女は

『うーん、なんか好きなんじゃない?』

とテキトーな返事をしながらシャッターを切る。

『ほら、そこに立って、』と言われ、

しぶしぶ木の前に立つ。

『はい!こっち向いて!撮るよー。』

私はどうも、こういう女子のハイチーズ!的な

写真文化が苦手だ。

たぶん、写真の私は眩しいのか、めんどくさそうな

よく分からない表情をしていたと思う。

 

『これ梨の木なんだね!』と彼女が言う。

そうか、昨日の夜に月明かりで見たあの『実』は

梨だったのか。確かに、もう秋だもんな。

 

周りを見渡すと、街のいたるところに、

秋を感じさせるものがあった。

近くのカフェの看板にも

『コーヒーセット ショートケーキorモンブラン』 

って書いてあるし、

紅葉こそまだだが、夏の青々とした木々の緑は

少し寂しい色合いになっている。

彼女が着ている真珠のビジューがついた

バーガンディのニットも、

チェックのフレアスカートも、

スエード調が美しい、落ち着いた深緑のパンプスも

何もかも、よく見たら周りは秋になっていた。

『髪色かえた?秋っぽくていいね。』

今朝、私を待たせて

ずいぶん長いこと鏡の前で巻いていた

彼女のピンクブラウンの髪が、

秋の陽気と一緒に、フワリと彼女を包んでいた。

東京で迎える、初めての秋だった。

『いま気付いたの?おそーい』

少し不機嫌なふりをしつつも、

髪色を褒めてもらえたことに関して

まんざらでもない彼女は、

照れ隠しのようにシャッターを切りながら

民家の庭の方へ入って行った。

 

『ちょっと、ここ他人の家だよ?』と

彼女を引き止めると、奥の方の小さな畑で

何やら土いじりをしている、

これまた小さなおじいさんに見つかってしまった。

『ほら、見つかったじゃん!早く出ようよ』

と彼女の腕を引くが、彼女は続けざまに

そのおじいさんまでカメラで撮ってしまった。

『バカ!怒られるぞ!』と私が言うや否や、

おじいさんが近づいてくる。

 

心配したが、おじいさんは怒る様子もなく

私たちに話しかけてきた。

『古い家でしょ?この辺はもうマンションばっかりで、畑なんてあるのはウチだけになっちゃった。』

作業着に長靴を履いて、白い髭をたくわえた

優しいおじいさんの頬は、かなりコケていた。

『写真ならお好きに撮って、もう長くないから』

長くないのは家なのか、自分の事なのか、

でも推し量るに、おじいさんは何かの病気なのだ。

 

おじいさんは東京五輪の時からここに住んでいて、

先祖からあるこの家を残すため

都市開発が進むこの世田谷区三軒茶屋で、

なかなか土地を手放さない厄介者なのだそうだ。

毎日のように区の職員や不動産屋が訪ねてくる。

おじいさんには子供が出来なかったらしい。

この家は、おじいさんを最後に途絶えてしまう。

おじいさんは顔では笑いながら話しても、

やはりどこか悲しい表情をすることがあった。

 

少しの時間だったが、おじいさんの話に付き合ったお礼として、梨を2つもらった。

別れ際、梨の木に手を置くおじいさんの写真を

彼女が一枚撮って、私たちは家を後にした。

 

私は梨をむしゃむしゃ食べながら、

『どこ行こっか?』と彼女に聞く。

彼女は手のひらに梨を乗せて写真を撮ったあと、

その梨を預けてきた。

『え?食べないの?』と聞くと

『うん、衛生面とか不安だし』という。

『この都会っ子め』と私は二個めの梨をかじる。

私が梨をかじるむしゃむしゃとした音が、

彼女のヒールが『こつ、こつ、』と鳴る音と

重なり合い 秋の高い空の中に吸い込まれていった。

 

ポケットからイヤホンを取り出して、音楽を聞く。

ほどなくして、彼女に片方のイヤホンを奪われ、

仕方なくお互い片耳で聞く。

黒いレザージャケットのポケットに

手を突っ込んで、イヤホンが引っ張られないように彼女の歩幅に合わせて歩く。

身長182センチの男が女の子の歩幅に

合わせて歩くのはかなり神経を使う。

『ん、これ聞いたことある!』と彼女

東京メトロのテーマソングだよ』と私。

 

斉藤和義の『メトロに乗って』

大学一年生、私が上京して間もない頃の東京には

いつもこの歌が流れていた。

 

《連れてってあげよう、君が知らない街へ

   コートは置いて行こう、風はもう春

 

   改札抜けて階段を駆け上がる

   振り向いた君の顔、まるで、少女

 

    『いつかそのうちに』口癖になっていた

    明日が来るなんて、誰も分からないんだ

 

   メトロに乗って、変わりゆく街へ出よう

  ここは東京、僕ら出会った街

 

   旅人になって、もう一度恋をしよう

   浅草へ行って、おみくじを引こう

 

   大吉が出るまで、100回でも、1000回でも  》

 

『渋谷はいつも行くから、違うとこがいい』

彼女がそういうので渋谷から銀座線に乗った。

渋谷始発の車内は比較的空いていて、

まだ出発まで時間がありそうだった。

 

『なんで銀座線って地下鉄なのに

渋谷の駅だけ地上にあるんだろうね?』

彼女はたまに誰も気にしていなかった事を言う。

『さあね、でも景色良くていいじゃん』

 

イヤホンコードの30センチで頭を寄せ合う

二人を乗せて、秋の東京メトロが走り出す。

 

歩いている時は恥ずかしくて手を繋げない。

そんな私を気遣ってか、

電車で隣に座ったときだけ、彼女は何食わぬ顔で

私のポケットの中に手を繋ぎにくる。

 

秋の澄んだ空気と、彼女の柔らかい匂い。

窓から差し込む黄色い光が、

私の革ジャンの肩を温める。

 

銀座線の黄色い車体は眠りについた二人を乗せ

表参道を過ぎ、赤坂見附を抜け、

とうとう上野広小路まで来たところで

彼女に起こされた。

『ん、そろそろ降りるか』と言いながら、

ポケットの中で繋いでいた手をほどいて、

上野広小路駅で降りた。

 

秋の上野は観光客でごった返していた。

人混みを縫うように二人で歩き、

すれ違う人の匂いと、アメ横独特の雑多な雰囲気に

少し疲れた私たちは、

何かスッキリしたものを欲していた。

アメ横の屋台でフルーツを売っていた。

でもなんだか気が進まない。

その時、2つも梨を食べたのを思い出した。

彼女だけパインの棒を買って、

それを食べながらまた歩き出す。

アメ横の衛生面もあの梨と同じようなもんだと

思ったが、彼女には言わないでおいた。

 

当時、私の故郷が舞台の朝ドラ

あまちゃん』の賑やかなメロディが

流れていたアメ横センタービルに入り、

珍しいスニーカーを見たあと、

屋台で焼き小籠包を食べた。

その後、西洋美術館のラファエロ展を見て、

ロビーでコーヒーを飲んだ。

上野動物園にも行く?』と私が聞くと

『今日は疲れた』と彼女が言うので、

『体力ないなぁ、』と笑って

 

その日は確か、不忍池(しのばずのいけ)が

よく見える安価な旅館に泊まったと思う。

新宿あたりに沈む夕日が、池を照らして

池を埋め尽くす巨大な緑の蓮の葉が、

そのオレンジ色の夕日によく映えていた。

 

『ご飯は?どうする?』と彼女。

『んー俺は別に食べなくてもいいけど、』

『えー!食べないのー?』

彼女は1日3食必ず食べないと寝られない人だった。

夜は必ず12時に寝るし、お酒もあんまり。

そういう変に背伸びしないところが好きだった。

 

旅館を降りて、近くの韓国焼肉の店に入った。

ビールとウーロン茶で乾杯して、

二人で初めてサムギョプサルを食べた。

『肉を焼いてからハサミで切るのか』

『肉を焼くまえにハサミで切るのか』

という他愛もない論争を繰り返し、

彼女はお腹いっぱいになって眠たそうだった。

 

時刻はそろそろ夜の11時半というあたりだった。

彼女の就寝の定刻はまだではあるが、

その日の彼女は相当お疲れのご様子で、

ほとんど会計の時には眠っていた。

 

旅館に帰ると彼女は『はー』『ふんー』と言って

むにゃむにゃしながら下着姿のまま早々と寝た。

彼女の意外に大人っぽい下着に

少しどきっとした私は

不忍池が見えるベランダで一服した後、

部屋の明かりを消して、早々と床に就いた。

 

19歳の秋。東京。

三軒茶屋、古い民家、梨の木、東京メトロ

そして、可愛い彼女がいた。

私は今より出来ることは遥かに少なかったが、

あの頃が一番幸せだったようにおもう。

 

                                                           現在へ続く

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あれから四年が経った。 

あの頃とは比べ物にならないぐらい成長した。

出来なかった事も、一つ一つ克服した。

当時のような純朴さも持ち合わせてないし、

変に都会に擦れてしまったようにも思う。 

 あの頃あれだけ欲していた『都会っぽさ』を

手に入れた反面。

一番幸せだったあの時代を考えると、

幸せからは遠のいた気がする。

好きだった彼女も今は遠くへ行ってしまった。

彼女だけじゃない、無数の出会いと 

辛い別れを経験して大人になるうちに、

孤独を愛するなんていう変な癖が付いてしまった。

 

私はまた、三軒茶屋にきている。

彼女はもうここにはいないが、

今夜は全く別の女の家に泊まっている。

渋谷で飲んで、終電がなくなると、この家を頼る。

いつの間にか女性を『女』と呼ぶようになった。

そうなったのは彼女と別れてからだろうか、

彼女のために『カッコよく』なろうとしたのも、

全て逆効果だった。

彼女のために自分を磨いて、洗練させ、

知識を、能力を、センスを高めようとした。

そうしてせっせと大人になっていった。

そして彼女は離れて行った。

果てに、『磨かれた自分』だけが残る。

なんと滑稽な話だろう。

結局いまは『磨かれた自分』という貯金で

孤独な夜を、その場しのぎで埋めているのだ。

何もかもがあの頃とは違う。

変わってしまった。

いや、自分で変えようとした結果だから仕方ない。

 

しかし変わらないこともある。

『夜中の散歩グセ』だ。

台風も過ぎて、雨も上がったことだし、

しばらく記憶の隅にやっていたあの古い民家に

寄ってみようとおもった。

 

私は一度通った道は忘れない。

子供の頃からそこには自信があった。

でも今回ばかりはおかしい。

道を間違えたのだろうか、確かにこの道の

この駐車場あたりで合っているはずなのだが、

三軒茶屋の入り組んだ住宅街の小道が

そうさせるのか、

目的のあの古民家になかなか着かない。

 

小一時間は歩いただろうか、

見つからない古民家の謎は悲しいかたちで解けた。

あの古い民家は跡形もなく壊され、

その跡地は、財閥系の子会社が管理する、

ただの駐車場になっていた。

 

どこの誰とも知らないおしゃれな車が、

20台ほど所狭しと駐車してある。

 

駐車場の隅に、あの梨の木を見つけた。

近くに行ってみると、雨上がりの駐車場、

根元をアスファルトで固められて、息苦しそうに、

でもしっかりと、梨の木が立っている。

 

どうしてこの梨の木だけが残ったのだろう。

おじいさんは亡くなって、その遺言だろうか。

どうせなら跡形もなく駐車場になってくれれば

よかったのに。

 

この梨の木があるから、あの頃を思い出してしまう

この梨の木だけが、あの頃をそのままに残してる。

おじいさんに貰った梨の味がこみ上げてくる。

どこからか彼女の声が聞こえてくる。

斎藤和義の『メトロに乗って』が鳴っている。

梨の木から、雨のしずくが一粒、

ポタっとアスファルトに落ちた。

私も目を閉じて、しずくを一粒落とした。

止んだと思った雨は、また本降りになって

周りを隔離し、私と梨の木だけの世界を演出した。

 

 

今夜も東京は開発されていく、

人の想いなんてつゆ知らず、

素早くアスファルトで固めていく。

よく街を見よう。細かいところをもっと見よう。

この東京の一つ一つに、

誰かの残したい『想い』がある。

塗り潰されていく街角の一つ一つに、

誰かの忘れられない『時代』がある。

 

 

私は雨の中、しばらく梨の木に手を当てて、

あの幸せな秋の日の残り香に、想いを馳せていた。

 

                                                                      終

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