聖帝さまの小話

基本、思い出。

『八尺様』と芦毛の馬

 

 

東京は大都会で、毎日ふつうに生活しているだけで

無数の人の顔とすれ違う。

 

見惚れるほど美しい女性の顔もあれば、

頭の禿げている疲れた中年男性の顔も、

歯の生え揃ってない子供の笑い顔、

スマホをニヤニヤしながら見てる若者の顔。

 

数えだしたらキリがないし、

いちいちそれを覚えてもいない。

 

でもいつも不安に思っていることがある。

 

『あの顔』に会ったらどうしよう…という事。

 

正確にはその『あの顔』というのを覚えていない。

どうしても思い出せないのだ。

 

確かに過去に『それ』と会って、顔も見て、

その大まかな印象まであるはずなのだが、

頭でイメージしようと思った途端、

それ以上は想像できなくなる。

まるでイメージを途中で誰かに

無理やり遮られてるような感じだ。

 

夏になると、あの出来事を思い出す。

きっと私はこれから一生涯、

あの不思議な夏の出来事を忘れないだろう。

 

最近はうまく忘れて過ごしているが、

恐怖はいつでも私の深いところで息をしている。

 

東京の人混みの中に『あの顔』を見つけた時。

それは私の終わりなのかもしれない。

 

今年も夏が来る。

 

何も悪い記憶ばかりではない、

幸せだった頃の記憶もまた、あの夏にある。

 

あの恐怖も幸福も、私にとっては等価値なのだ。

どちらも忘れてはならない夏の記憶である。

 

あの日は熱い日差しがひと段落して、

山の方から冷たい風が吹く8月の夕方だった。

 

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私の両親は共働きで、

小学生の夏休みは、

ほとんど祖父の家で過ごしていた。

 

祖父の家は江戸の昔から続く、

東北の大地主の家で、

子供の私では遊びきれないほど、

祖父の家には色々な物があった。

 

大きな家の中を探検して、

面白そうなものを発見したり、

(屋敷の北側にある、

夏でも涼しい暗い蔵にこっそり忍び込んで、

巨大な白ヘビに会うのは、また別のお話)

広い日本庭園を駆け回って、

咲いている花の匂いを嗅いだり、

家の北側にある松林に行ってセミを捕まえたり、

とにかく飽きるという事がなかった。

 

おまけに遊び相手もいた。

家には下女が二人常駐していて、

(下女と言っても4-50のおばさんだが)

私にきちんと学校の宿題をやらせたり

泥だらけになった私の靴を綺麗にしてくれたり、

お昼過ぎにはおやつを出してくれたりした。

 

その下女の娘だったのだろうか、

私より5歳ほど年上の女の子も、

何日かに一回はこの家に来て私と遊んでくれた。

 

そして何より『小川さん』という、

私の大好きな庭師さんがいた。

 

小川さんは、

うちの庭の手入れをして生計を立てている人で、

この家の敷地内にある『東の小屋』と

呼ばれる道具小屋に住んでいた。

 

これは今でこそ分かる事だが、

小川さんは昔、大変身分の低い人で、

生まれた時からずっと名前がなかったらしい。

東北の田舎ではよくある事だったようだ。

戦争が終わって、小川さんが30歳になる時

私の祖父が今の名前を付けたそうだ。

 

それでも私の祖父と小川さんは親友で、

よく2人でお酒を飲んでいるのを見た事がある。

 

戦争で兄弟を失った祖父にとって小川さんは、

立場的には雇用関係にありながら、

一番歳の近い友達だったのだろう。

 

何より小川さんは私に優しかった。

私のことを【おんじゃ】と呼び、

《私の田舎では次男坊の事を『御次(おんじ)』

   長男のことを『兄(えな)さん』と呼ぶ》

私が祖父に叱られた時は、『東の小屋』で

泣きじゃくる私をかくまってくれたりした。

 

小川さんには奥さんも子供もいなかったので、

私のことを孫のように可愛がってくれた。

 

熱い日差しの中、小川さんが南の畑に植えた

ナスやらジャガイモやらを2人で収穫するのが、

何より楽しかった。

 

小川さんは庭師の他にも、東の小屋にいる

馬や牛、あとニワトリやキジの世話をしていた。

 

私が動物好きなのは、この頃から相変わらずで

暇があると、馬や牛をなでなでしに、

よく東の小屋に遊びに行った。

 

『おんじゃはな、べこだのんまだのの気持ちが

分かるすけ、中さえっでもくられねでいんのよ。』

(次男(私)は牛や馬の気持ちがわかるから、

小屋の中に入っても彼らが暴れないんですよ)

 

あの頃、確かに動物と心が繋がっていた気がする。

言葉は話さないが、

あっ…暑くて大変なんだな。とか

あっ…子牛のことが心配なんだな。とか

今よりもはっきり分かっていたと思う。

 

たまにこの広い庭に迷い込む、

タヌキやカモシカの不安な気持ちも、

あの時は確かに感じ取れた。

 

小屋の大きな馬が出荷される日の前夜は、

その馬と一緒に藁の上で寝て、

馬が涙を流して泣いているのに寄り添った。

 

『動物さ好かれるわらすは、

八尺様に手っこもっでかれるって

はなすきぐべ?それでおらい、むじぇくてよ。

まんずおんじゃ、けない顔してるおん…。』

(動物に好かれる子供は、八尺様に手を引かれる

という噂を聞くでしょ?だから私は不安で、

それに何と言っても貴方、儚げな顔をしてるから)

 

『八尺様』という存在を聞いたのは、

この時が初めてだった。

 

というよりこの時は『はっしゃくさま?』程度の

理解だったと思う。

 

小川さんは東の小屋のすぐ前にある水場で

鎌や鋤(すき)など、農具の手入れをしながら、

私にそう言い、今まで私があまり見たことのない、

浮かない顔をしていた。

 

ふいに沈黙した小川さんと、

何のことか分からない私との間に流れた静寂を、

8月の蝉が騒々しく埋め合わせていた。

 

 

 

 

 

夏休みも終盤に差し掛かった頃。

屋敷の北側にある松林が涼しい

長い杉板で出来た縁側で、

おやつとジュースをちびちび食べていた。

 

この辺りは松の間から吹く風と、

屋敷の影になって早めに陽が遮られることから、

他の場所より涼しくて、

お昼寝やおやつを食べるのに

お気に入りの場所だった。

 

うちの敷地のずぅーっと向こう、

100メートルは奥の方だろうか、

松林の中に白い人影が見えた。

 

『お客さんかな?』と思っていると、

その人はこちらに会釈するようにして、

首をかしげた。

 

『あっ、やっぱりお客さんだ!』と思い。

屋敷の中の方に向かって、

大きな声で、下女の一人の名前を呼んだ。

 

でもなかなか来ない。

もう一度松林の方をみると、

その人は少しこちらに近づいているように感じた。

 

どうやら女の人のようだ。

白い和服をきている。

(当時は『昔の服』と思った記憶がある)

 

下女が来ないようなので、

今度は『小川さーん』と屋敷に呼びかけた。

 

『はいよー』と小川さんが奥の廊下から

こちらに歩いてきた。

 

『お客さんだよー』私は松林の方を指差す。

 

白い人影は、消えていた。

 

小川さんは『おんじゃ寝ぼけたんだべ?』と

笑いながら屋敷の中に帰っていった。

 

もう一度松林の方を見ると、

松の後ろに隠れて、やはり白い人影が居た。

 

『あっ、ほらいた!小川さーん!』

私が再び屋敷に呼びかけるが、

今度は返事がない。

 

また松林の方を見ると、

その人はもう東の小屋の柵を越えて、

20メートルぐらいだろうか、

だいぶ近くまで来ていた。

 

近くまで来て初めて分かった。

 

変な人だ。

 

やけに体が細長い。

手足も異常に長く、

身長は2メートル近くありそうだ。

 

白い和服を着て、黒々とした長い髪。

頭にはつばの広い、

これまた白い帽子を被っている

靴は…裸足…だろうか?よく見えない。

 

何より年齢が分からない。

若くて綺麗なお姉さんのような感じもするし、

少し背中の丸まった老婆のような気もする。

 

不気味だった。

 

こちらに笑いかけている様だったが、

感情がまるで分からない。

 

私は怖くなって、

縁側の外に放り出していた足を中に入れ、

体育座りになって、近づいてくるその人を

ヒザの間から薄目を開けて見ていた。

 

屋敷のほうから、

廊下の床板がきしむ音が聞こえた。

 

そちらに目をやると、

祖母が近くを通りかかったのが見えたので、

『おばあちゃん!!』と叫ぶように呼んだ。

 

『なにしたえ?』と祖母が訝しげに

こちらに歩み寄る。

 

私はすぐに祖母の足にしがみ付き、

暗い松林の方に目をやった。

 

白く長い人影は、居なくなっていた。

 

私には、まだそれを説明する力がなく

『誰かいた』とだけいって、その日は終わった。

 

子供の時分というのは恐ろしいもので、

『不思議に慣れている』とでもいうのか、

次の日には何事も無かったかのように

また、松林の見える縁側で

おやつを食べるようになっていた。

 

その後も同じような事が何度かあった。

私も少しずつ慣れてきて、

対処の仕方が何となく分かってきた。

 

祖父や小川さん。

つまり男性に助けを求めた時は

あの白い人影は松の影に隠れている。

男性が去ると、また姿を現して近づいてくる。

 

一方で祖母や下女。

つまり女性に助けを求めた時、

白い人影はフッといなくなって、

その日はもう現れない。

 

私がそうして対処出来るようになってから

2、3日。あの白い人影は姿を現さなかった。

 

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ある日、不思議な事が起こった。

朝起きてから、祖父も祖母も、

小川さんも下女の二人も、

隣街からこの屋敷に来たお客さんまで、

誰一人として、私に気がつかない。

 

無視されてる。というのも違う。

気が付いていないのだ。

 

でも当たり前のようにお昼ご飯は

私の分も用意されてるし、

昨日汚した靴も、

すっかり綺麗になって玄関にある。

 

でも、誰も私に気がつかないのだ。

 

下女に話しかけても、『えぇ、はいはい』と

返事はするが、これといった会話をするでもない。

 

小川さんに『今日は何を手伝えばいい?』と

尋ねても、『今日は何もない』という。

 

確かにみんな普通に暮らしているのだが、

誰も私に意識を向けないのだ。

 

私はその時『変だ』とも確かにおもったが、

むしろ『つまんないの』という感じだった。

 

呆れた私は家の南にある正門を出て右、

つまり家の西側にある

小さな菓子店に行こうと決めた。

 

そこには『プリン大福』というお菓子があり、

プリンをクリームで覆い

それを大福餅の皮で包んである私の好物だった。

 

私は何も言わず、祖父の書斎にある

小銭がジャラジャラと入った大きな瓶から

300円を抜き取り、ポケットに入れた。

 

誰も何も言わない。

 

普段、私が家の外に出る時は

誰かと一緒でなくてはならないのだが、

南門のところまで行っても誰も来ない。

 

振り返っても、誰も家から出てこない。

 

私は家の門を出て右に曲がり、

西の方角にある小さな菓子店を目指した。

 

一人での外出に多少なりともワクワクしていた。

菓子店まで車なら2分もかからないところを、

7歳の足では15分ほど歩いたように思う。

 

菓子店に着くと、

三角巾を被ったいつものおばちゃん達が

『あら泥乃松さんところの!チビちゃん!

   今日は一人で来たの?大変だったでしょ?』

 

『泥乃松』とは、我が家の屋号なのだが、

そんなことより菓子店のおばちゃん達が

自分に意識を向けてくれたのが嬉しかった。

 

私は老人ばかりの田舎にあって、

しかも多少なりとも美少年だったので

どこへ行ってもチヤホヤされた。

 

300円をおばちゃん達の1人に渡すと、

『プリン大福ね?』とすぐに分かってくれた。

お店の前のベンチに案内され、

プリン大福の他に『ガンヅキ』や

『きりせんしょ』など郷土では定番のお菓子、

それにぶどうジュースまで出してくれて、

『お婆様は元気?』とか

『お盆は皆さん帰ってきた?』とか

ひっきりなしに私を質問ぜめにして

至れり尽くせりだった。

 

何よりおばちゃん達3人全員が

私1人に付きっきりだったので、

今朝、屋敷で家族から受けた、

なんとも言えない『無視』みたいなものに

疑問を感じていた私にとっては、

とても安心できる待遇だった。

 

おばちゃん達からの暖かいもてなしを受け、ふと

『いま何時なんだろう』という事が気になった。

 

あまり遅くなっては屋敷の者が心配するだろう。

と考え、ぼちぼち切り上げなくてはと

『いまなんじ?』とおばちゃん達に聞いた。

 

おばちゃん達は『いいのよ いいの!ここにいて?』

とニコニコしながら言う。

 

でもとりあえず『今が何時なのか』だけでも

知りたい私は、もう一度『いまなんじ?』と聞いた

 

すると少し引きつった顔をしながら、

『そうねぇ、何時なのかねぇ?』とはぐらかす。

 

少し変な感じがした。

 

その後、私が何度同じことを聞いても

『気にしなくていい』や『大丈夫だから』と

はぐらかすばかりで、教えてくれない。

 

やっぱり何かが変だった。

 

私はある事に気がついた。

セミが、鳴いていない』

 

普通、夏の昼下がりともなればセミ

ミンミンと鬱陶しいぐらい鳴いているものだが、

今日は一匹も鳴いていない。

 

一回そこに気がつくと、

続けざまにおかしな事に気がついた。

 

『カラスもスズメも、虫の一匹すら見当たらない』

『おばちゃん達は、いつもは2人しかいない』

『このベンチの場所は自動販売機があった』

 

何かが微妙に違うのだ。

 

辺りを見回してからおばちゃん達の顔に

目を向けると、背筋に寒気が走った。

 

『知らない人だ…』

 

いつものおばちゃん達によく似てはいるのだが、

まるで双子の片割れのように、

確かに似てはいるが、別人なのだ。

 

『どうしよう、どうしよう』

私は不安でいっぱいだった。

 

とにかく屋敷に帰らなきゃ、と思った。

まだ残っているぶどうジュースもそこそこに、

 

『そろそろ帰る』とまっすぐ前を見ながら言った。

もう一度おばちゃん達の顔を見るなんて

とても出来なかった。

 

もしもう一度おばちゃん達の顔を見たら、

次はもっと違う顔をしているような気がした。

 

おばちゃん達は、

私が店の敷地を出る最後の最後まで、

『本当に帰るの?』『ここにいていいんだよ?』

と気持ち悪いぐらい引き止めて来た。

私はその呼びかけに対して

『うん、うん、』と適当な相槌を打ちながら

店の敷地を出て、屋敷へ続く道路を歩き始めた。

 

店を出てから急に怖くなって、

自分が早足になっているのが分かった。

 

怖いから、とにかく早く逃げたくて、

家族のところに帰りたくて、

半分走るぐらいの気持ちでスタスタ歩いた。

 

それにしてもおかしい。

 

絶対におかしいのだ。

 

もう、屋敷についてしまった。

 

屋敷を出て店に行く時は、

私がのろのろ歩いたとはいえ

少なくとも15分は歩いただろう。

 

今、店を出てからほんの30秒ぐらいだろうか、

私はもう、屋敷の正門まで来ていた。

 

自分でもそんなはずはない!と思い、

歩いてきた道を振り返った。

おばちゃん達の菓子店は遥か遠くにかすみ、

辺りは見慣れた田園が広がるのみである。

そこは確かに祖父の屋敷であるようだった。

 

『そんなに早く歩いたのか、』

不思議ながらも納得して屋敷の正門に立った。

屋敷の庭に誰か1人ぐらいいるだろうと思い、

『ただいまー』と少し大きめに言ってみた。

 

誰もいない、セミも鳴いていない。

東の小屋にいるはずの牛や馬は、

小屋の中に入っているのだろうか?

見渡す限り、よく手入れされた庭園と屋敷が

正面から覆い被さるように私を待っていた。

 

『なーんか、変なんだよなー。』

そう思いながら庭の中を進んで行く、

玄関の前で、鎌やくわなど、

道具の手入れをしている小川さんを見つけた。

 

私はすぐ小川さんに話しかけた。

『あのね?おばちゃん達の店行ったらね?

なんか変だったよ、ちょっと違うっていうか、』

 

小川さんは、何も話さずカシャ、カシャ、

と鎌を石で研いでいる。

 

少し待っても、小川さんは何も言わない。

『何か知っている、隠してる』そう感じた。

 

『だってね?いつもお店にベンチなんてないし、

おばちゃん達もね、時間教えてくれないんだよ?

ずっとここにいろって…なんか変だったよ。』

今まで起きた奇妙なことを説明するように、

何も答えないままの小川さんに一方的に話した。

 

やっぱり小川さんは黙っている。

私は不安と沈黙に耐えかねて、遂に

 

『ここも…そうなの、?』と聞いてしまった。

 

何も話さずにうつむいていた小川さんの顔が、

ゆっくりとこちらに向いてきた。

 

小川さんが完全にこちらを見る前に、

私は振り返って正門の方に走り出した。

 

小川さんじゃ、なかった。

よく似た誰か。いや、よく似た『なにか』だった。

 

私は恐怖で動かない足を必死で動かして、

半ば転ぶように正門まで走っていた。

もう顔は涙でぐしゃぐしゃだったと思う。

 

でもどこに行けばいいのだろう。

辺りに家はほとんどなく、

また菓子店に戻ったところで、そこには

おばちゃん達によく似た『なにか』がいるだけだ。

 

後ろから寒いほどの強烈な視線を感じる。

 

あいつだ…』

 

すぐに『八尺様』だとわかった。

屋敷の松林の奥から、

ぎこちない動きで、手を上下させ

『戻ってこい』と手招いている。

 

どうしたらいいかわからない私は、

正門のところにある大きな松の木に手をつくと、

ひとり、うずくまって泣いていた。

 

すると遠くから、

 

『カポ、カポ、カッポ、』

下駄を鳴らすような音が道路の方から聞こえた。

 

誰なのか気になったが、

恐怖と涙で顔を上げられない。

 

大きな影が、うずくまった私の前で止まった。

生暖かい風が、上から私の髪を揺らす、

どこかで感じた暖かい『息』だった。

 

見上げるとそこには、

美しい灰色の大きな芦毛の馬が立っていた。

 

それは先日、

東の小屋で息を引き取ったばかりの老馬だった。

 

長いまつ毛が夏の光をたくわえて、

時折見せる静かな まばたきが懐かしい。

私の不安な心に寄り添う、優しい目をしていた。

 

『お前…生きてたのかい?

またここに帰ってきたんだね?』と私が聞くと、

馬は悲しそうに、首を横に振った。

 

『そう…』

私は彼女の事情をなんとなく飲み込んで、

 

『でも、また会いに来てくれたんだね?』

と尋ねると彼女は、嬉しそうに、少し目を閉じた。

 

彼女は先日確かに、

涼しい夏の朝に死んでしまった。

でもいま彼女はここにいて、

不安で動けない私に会いにきてくれている。

 

なにも不思議なことはなかった。

それほどに子供の心というのは、

不思議をそのまま受け入れられるような

柔らかさがある。

 

私は彼女の大きな顔を両手で抱き寄せ、

目を閉じて、彼女の息づかいを感じた。

 

死ぬ間際の彼女は、身体が痩せ細り、

目にも力が無かったのだが、

いまここにいる彼女は少し若返ったように感じた。

 

『もう行きましょう。ここにいてはいけない』

確かに彼女がそう言った気がした。

 

でもどこへ行くというのだろう。

周りには一件も家なんてないというのに、

 

でもひとつだけ確かに分かっていたことがある。

いま私がいるこの世界の中で、

彼女だけが『本物』だった。

 

『行くって…どこに?』

と私が聞くと、彼女は脚をたたんで低く座り込み

背中に乗るように促してきた。

 

『連れてってくれるの?』

そう言って彼女の背中に跨ったその瞬間、

 

松林の木々は一斉に低い唸りを上げ、

屋敷全体はガタガタと音を立ててきしみ、

奥にいた『あいつ』が髪を振り乱して

こちらにむかってもの凄い勢いで走ってきた。

 

異様に長い手足をタカアシガニのように

ぎこちなく動かし、目は爛々と光って、

とてもこの世のものとは思えない形相で

奇声にも似た呻き声を上げながら近づいてくる。

 

これまでとは比べ物にならない寒気が走った。

 

同時に私を乗せた美しい芦毛の馬体は、

大きく空へ前脚を蹴り上げたかと思うと、

飛ぶような速さで家の前の道路を駆け出した。

 

振り返ると『あいつ』が門のすぐそばまで来て、

大声で何かを叫びながら、悔しそうに

松の木を爪でガリガリ引っ掻いているのが見えた。

 

風を切って走る美しい芦毛の馬体は、

最初のうちは『パカラッ、パカラッ』と

地面のアスファルトに蹄の音を響かせて

走っていたが、

どのくらい走っただろうか、

気がついた頃には、全く音がしなくなっていた。

 

蹄の音がしなくなった代わりに、

声が聞こえるようになった。

 

私たちは本当に風となって

田園の緑の中をかけていた。

 

私は彼女の大きな首につかまり

風に優しく揺れるたてがみに顔をあて、

彼女の声に耳を傾けていた。

 

『もう大丈夫』彼女が優しく言う。

『さっきの「アレ」は何だったの?』

『捕まったら、連れてかれていた』

『どこへ?』

『分からない。でも二度と戻れなくなる』

『また出るかな?』

『しばらくは出ない。でも消えない。』

『ぼくだけを連れてこうとするの?』

『気に入った子供だけ、連れて行く。』

『怖いね』

『近づいてはいけない』

『ねぇ、君は死んだの?』

『そう、死んだよ』

『苦しかった?』

『苦しかった。でもいつもそばにいてくれた』

『そうだね、あの時はきみ苦しそうだった』

『ありがとう』

『今は?苦しくない?』

『何も、』

『死んだら楽なのかな?』

『そうね、楽かも。でも、あなたは生きて』

『また会える?』

『それは分からない』

『会えたらいいよね?』

『それはそうね』

 

田園の緑の中で、

風の音と私たちの声だけが聞こえる。

彼女の脚の方に目をやると、

少しずつ消えているのが分かった。

 

『もうさよなら?』

『あと少しでね』

『そうなんだ…』

『悲しいことじゃないよ』

『どうして?』

『また逢えたから』

『そうだよね。ありがとう』

 

彼女の脚はもうほとんど消え、

やがて彼女の背中はだんだんと低くなり、

私の脚がやっと地面に届いた頃にはすでに、

彼女はいなくなっていた。

 

気がつくと私はセミの鳴き声が時雨のように

降り注ぐ道路を、家に向かって歩いていた。

 

もう辺りはすっかり夕暮れだった。

屋敷の正門の大きな松から、

小川さんがこちらに手を振ってるのが見えて、

私は駆け出した。

 

遠くからでも分かる。

間違いなく本物の小川さんだった。

 

『だあれ!おんじゃ!どこさが行ってさんたど

思っておらい気ぃ狂いそうだったもんや!』

(次男坊がどこかへ行ってしまったと思って

私は気が狂いそうでしたよ)

 

小川さんの話によると、

私はお昼頃から急に屋敷から居なくなり、

みんなで隣町まで探しても見つからず

もちろんおばちゃん達の菓子店にも居なかった。

これは『八尺様』の仕業ではないか、

と噂になり。祖母にいたっては、

ショックでめまいを起こし部屋で寝ているとの事。

 

『八尺様』というのは、

この地方に伝わる祟り神のようなもので、

白い服を着た、背の高い女の姿をしており、

可愛い男の子に目をつけてはさらって行く。

『八尺様』を見た子供は、数日のうちに

神隠しにあったように居なくなり、

そのまま二度と帰ってこないという。

 

そんな小川さんの話もそこそこに、

東の小屋の方を見た。

やはりもう、芦毛の馬はいない。

『馬のお墓は?』

『じゃっ!こないだ死んだ馬のだか?』

『そう、ないの?』

『おらいが石っこで作ってすけるべし!』

『そうなんだね、ぼくも一緒に作るよ』

『まんず、おんじゃは心の優しい童だおんじぇ』

 

私は小川さんのゴツゴツした手に引かれ、

いつもの屋敷の中へ帰って行った。

 

屋敷の松林は夏の終わりを静かに覗かせ、

その木々の間には、どこか懐かしい感じのする、

生暖かい夏風が優しく吹いていた。

                                                        終わり

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