聖帝さまの小話

基本、思い出。

雪解けを待つ女

 

ミッキーが死んだ。

 

本当に、突然だった。

彼は四年前の年末、

自宅の風呂場で心臓発作を起こして、

そのまま死んだ。

 

彼とはひょんなことから

中国の上海で知り合い、

それからまた縁あって、

この新宿 歌舞伎町で再び会うことになるのだが、

倍近く年齢の違う私のことを、

なぜか優しくお世話をしてくれた。

彼は紛れもなく私の友人であり、

東京においての兄であり、そして父だった

 

2014年の年末、

私は深夜に突然かかってきた電話で

彼の急死を告げられると、

急いで家を飛び出してタクシーに乗り

四ツ谷の家から歌舞伎町のはずれにある

彼のマンションへと飛んだ。

 

ミッキーはもう動かなくなっていた。

当時、彼と一緒に暮らしていたゲイが

風呂場で彼が死んでいるのを発見したらしい。

バスタブからだらしなく垂れ下がった

彼の男らしい左手の近くには

焼酎の瓶が転がっていた。

 

現場は、救急隊はもちろん、

歌舞伎町という場所もあってか

事件性を疑われていたため、

現場の風呂場には、

紺色の制服の警察官が何人も集まっていた。

 

息も絶え絶えで到着した私は

警察官の制止を振り切って、

力づくでミッキーのそばへ行こうとしたが、

結局、警察官に押さえ込まれ、

彼の身体に残った最期の温もりに

触れることは叶わなかった。

 

警察官によって部屋から追い出された私は

12月の寒空の下、

彼の部屋の前で、玄関の冷たいドアに

額を擦り付けながら

泣き続ける事しか出来なかった。

 

結局ミッキーの死因は、

入浴の際に飲酒をしたことによる

血圧上昇が原因で引き起こった心臓発作。

通称 ヒートショック というらしい。

 

若い頃から大酒を飲み、

不摂生な生活を送った彼は、

酒はもちろんあらゆる食べ物を

医者から止められていた。

『もう海藻しか食べられない。』

そんな噂を聞くことも、しばしばあった。

 

だが、私が彼と一緒にいて、

彼が節制してるのなんて見たことがない。

酒は人より飲むし、ラーメンだって食べた。

 

ミッキーは誰よりも他人に優しく、

そして頭のキレる男だった。

そんな彼なら自分の身体のことぐらい

正確に把握し、

もし酒を飲みながら風呂に入れば

ヒートショックで死ぬことぐらい

容易に察知出来たはずだ。

 

では何故、彼はあの晩

風呂場で酒を飲んでいたのだろう。

私の中にはずっと、その疑念があった。

 

数日後の彼の通夜で、

私は冷たくなった彼の白い頬に手を当て

『なんで酒なんか飲んだのさ…』と

また涙の粒を棺桶の中に落とした。

 

しかし結局、彼が単なる『事故死』なのか、

それとも計画的に行われた『自殺』なのか、

今となっては誰にもわからない。

 

四年前の2014年12月、

年末で活気づく

歌舞伎町の喧騒の中で、

ほとんど誰にも知られることなく、

ひとりのオカマがひっそりと死んだ。

 

私の大好きだった、

ミッキーが死んだ。

                                             

                                                 4年後へつづく

 

f:id:seiteisama:20190404233512j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

2018年、12月の中旬、

毎年恒例、年末独特のお祭りムード。

クリスマス、忘年会、各種イベントで

街の街路樹や店頭に飾られた

シャンパン色のイルミネーションが

東京の冬の夕暮れをキラキラと飾っていた。

 

本当に、自分の自堕落さには呆れてしまう。

東京で一人暮らしを始めて

もう7年目にもなろうとしているのに、

また電気水道ガスを止められてしまった。

 

とにかく金がない。

 

ろくにアルバイトもしないような

ただの大学生なのだから当たり前だ。

 

しかし、この問題の本質は

単に金がないことではない。

 

きっと私は、

ひと月に100万円の収入があったとしても、

また同じように

公共料金を払い忘れるだろう。

 

少しここで言い訳をしておくが、

うっかり忘れるのではない。

払わなければいけない、と分かっていても

やっぱり払わないのだ。

 

自分の洋服や靴、美味しい食事、

友達との飲み会や遊びに、誰かへのプレゼント、

あるいは語学を身につけるための書籍など、

そういった生活を『豊か』にする物のためには

惜しげも無く金を払える。

しかし、電気水道ガスの公共料金など、

最低限の生活を『維持』するためのものには、

どうしても、あっさり払う気にならないのだ。

 

これが、この自堕落の本質的問題である。

 

幸い、今年の東京は暖冬なので

電気がなくても生死を彷徨う程ではないが、

この楽しい年末に、

電気がない。というのは、

あまりに寂しすぎる。

 

もし仮に、他のみんなも貧乏なら、

自分の貧乏もそれほど苦ではない。

 

もし仮に、他のみんなも退屈なら、

自分の退屈もそれほど嫌ではない。

 

人間とは、得てしてそういうものだ。

 

状況を整理すると、

みんなが年末のお祭りムードで楽しいのに

自分だけが電気もない部屋でじっとしている。

それが私には、どうにも耐えられなかった。

 

今から日雇いのアルバイトで働くのは

得策ではない。

なぜならその金が手に入る頃には、

楽しい年末はすでに終わっている。

 

即座に金が手に入らなければ意味がない。

 

私は部屋にあった、

いらない洋服を売ることにした。

 

クローゼットから『もう着ないな』と

思われるものを直感的にベッドの上に

ポンポン放り出した。

 

幸い、無駄な洋服は山のようにある。

確かにその洋服の一つ一つに、

思い出のようなものはあるが

それは今は無視して、

サヨナラをする洋服を無慈悲に選び取った。

 

すると洋服の胸ポケットから、

無視できない思い出が、ポロリと落ちた。

 

それは一枚の、ある店の名刺だった。

 

ミッキーが死ぬ数ヶ月前、

彼が居酒屋で私に言った。

『もしあんたが何かで困った時、

   そこに私がいなかったら

  ここのママに面倒を見てもらいなさい。』

 

私は当時、それをミッキーの軽い冗談として、

ヘラヘラしながらこの名刺を受け取ったが、

その数ヶ月後、

悪い冗談のように、ミッキーは死んだ。

 

少しの間、そんな思い出にふけった後

その名刺を財布に入れて、

先程ベッドに集めた無駄な洋服の中から

少しでも良い値が付きそうな、

トムフォードのジャケットと

ミシェルクランのセットアップスーツなど

他にも何点かを選びとり、

むかし、渋谷のZARAで買った時に付いてきた

大きなショッピングバッグに入れた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

新宿へ向かう総武線の中で、

大きなバッグを抱えながら

財布に入れた先程の名刺を見た。

 

『Bar Lounge 〜暁〜

   オーナー 兼ママ   麗子 』

 

私自身、歌舞伎町に関しては

大分、詳しい方だが

聞いたことのない名前の店だった。

おおかた、キャバクラかガールズバーだろう

そう勝手にアタリを付けて、

『この洋服が高く売れたら、覗いてみようかな』

と少し楽しみにしながら、

大きなバッグを抱え、

新宿へと向かう総武線に揺られていた。

 

f:id:seiteisama:20190404233558j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

思い出の洋服たちは、

私の想定より、少し高いぐらいの値段で売れた。

 

『高価 買取 大黒屋』と書いてある

オレンジ色の看板を

私はそそくさと後にした。

 

冬の東京 新宿は

5時というのに真っ暗だった。

昼間のトラックの音や、

家族で爆買いを楽しむ中国人たちの

明るい喧騒は、もうそこにはない。

 

辺りはすっかり、暗くなり

ネオンが宵闇にあやしく灯る。

私たちが好む、夜の新宿になっていた。

 

こうしてなんとか3万円を手にした私は、

西武新宿駅前の喫煙所で一服しながら

公共料金のコンビニ用払い込み用紙を眺め、

『うーん、まだ払わなくていっか、』と

それをポケットの中に押し込んだ。

 

ある程度の金を手に入れ、

少しの心の余裕もできた私はふと、

朝から何も食べていないことに気づいた。

ぶらぶらと歌舞伎町を散策し、

良さそうな食事処を探した。

 

何を食べるかも決まっていなければ、

何を食べたいかも、分かっていない。

とにかくお腹だけが空いている。

 

私の経験則でしかないが、

大抵の人間にはこういう時

ニンニクの香りが魅力的に感じる。

 

やはり私の経験則は当たっていて、

汚れた路地裏の排気ダクトから出る、

イタリアンな香りを含んだ温風、

炒めたガーリックの香りに鼻が引かれた。

そういうわけで、

ここら辺では知る人ぞ知る

地下にあるパスタ屋『影虎』に

入ることに決めた。

 

頼むものはすでに決まっていた。

海老のジェノベーゼパスタ 大盛り 1300円

 

確かに値段は割高だが、

本場イタリアから取り寄せた

この店専用のもちもちパスタに

プリプリの大ぶりな海老が7個も入ってる。

美しいペパーグリーンの

ジェノベーゼソースがほんのり炒めた

オリーブオイルとガーリックによく合う。

 

お腹が空いていたのもあって、

300グラムのパスタも一気に平らげた。

 

食後に出されるコーヒーを飲みながら、

タバコに火をつける。

 

私はまた、財布の中から名刺を取り出した。

 

ミッキーの声を思い出していた。

 

ミッキー『もしあんたが何かで困って、

                それでもしその時、

                あたしがこの世にいなかったなら

               この店のママを頼りなさいね。

               優しくて明るい、いい人だから。』

 

私『へぇー、誰なの?この人?』

 

ミッキー『昔からの知り合いね…』

 

私『えー?もしかしてミッキーの彼女?』

 

ミッキー『あたし、ゲイだけど?』

 

私『ははっ、だよね。』

 

一応、3万円あるし

金のほうは当面は大丈夫そうだ。

ミッキーの心配した

『私が何かで困った時』にはあたらない。

 

でも、私の中で

その『ママ』が妙に気になった。

 

ミッキーの昔の知り合いってことは、

今は42、43ぐらいだろうか?

どんな顔で、どんな姿の人なんだろう、

ミッキーの知り合いだから、

どうせ男か女か分かんないような

見た目のオバさんだったりして…、

 

そんな事を考えていたら、

うっかりタバコの灰を落としてしまった。

慌ててその灰を払ったあと、

会計を済ませてパスタ屋を出た。

 

階段を登って地上に出ると、

いくら暖冬の東京とはいえ、

12月も残すところ、あと10日ほど、

流石に冷たいビル風が吹いてくる。

 

私は首に巻いていた紫色のマフラーの端を

黒いロングコートの中に押し込み

コートの襟を立てて、風を遮った。

 

時刻は夜の7時。

さぁ、どこへ行こうか、

新宿には暇を潰せるところなんて

本当にいくらでもある。

 

デパートの伊勢丹でも見ようか、と思ったが

さっき大黒屋で洋服を売っておいて、

また洋服を見るのもなんだか気が引ける。

 

映画を見ることにした。

そういえば、私が好きなバンドQUEEN

ボヘミアン・ラプソディ』もまだ見てない。

 

私は歌舞伎町を北へ、

TOHOシネマズのある

ゴジラタワー(旧 コマ劇前)の方へと

向かって、とことこ歩いていった。

 

あのフレディ=マーキュリーを

若手の俳優が、

一体どれくらい真似できるのか楽しみだ。

 

私はふと、ある事に気付いてしまった。

 

『また…、ゲイじゃんかよ…。』

 

f:id:seiteisama:20190405021151j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

映画もあっさり見終わってしまった。

時刻は10時、

忘年会シーズンというのもあり、

ゴジラタワー前の広場には

居酒屋から出てきたサラリーマンの集団が

溢れかえっていた。

 

『ちょうどいい時間になったな』

私はひとりでそう呟いて、

またあの名刺を見た。

 

キャバクラなど、水商売の開店時間は

大体5時と相場は決まっている。

しかし開店と同時に来る客は少ない。

店が活気を帯びてくるのは、8時以降。

そこから深夜一時までの営業時間。

現在の10時という時間は店に向かうのであれば

ほとんどベストに近い。

 

私は名刺に書いてあった住所へと向かった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

歌舞伎町の区役所通りにある雑居ビル。

エレベーターで6階に上がる。

 

エレベーターのドアが開くと、

通路には

キャバクラ、スナックにガールズバー

さらにはサパークラブなど、

ありとあらゆる水商売系の看板が見えた。

 

私はこのフロアの奥から2番目の店、

ピンク色のネオン看板で

Bar Lounge 〜暁〜 と書いてある。

私はそのドアの正面に立って、

辺りを見渡した。

 

おそらくまだ昭和の頃に建てられたであろう

このビルの通路の壁は、

岩肌をイメージしてデザインされたのか、

妙に灰色でゴツゴツとした

コーティングが施されている。

 

その石の壁には、

ちょっと不釣り合いな、

少し小さめの木製のドア。

 

どんな店なのだろう、不安だ。

 

私はそのドアノブに手をかけつつ、

耳をドアにそっと近づけて、

中の音を探ろうと試みた。

 

中からは、どうやら

サラリーマンらしきおじさん達の

酔った笑い声がうっすらきこえてくる。

 

私は少しの安堵感を取り戻して、

ドアを『カランッ』と開けた。

 

店の中は思いのほか暗く、

間接照明の青い光が

テーブルの下や花瓶の後ろから差している。

 

奥の方に細長い店だった。

入って正面のL字型のカウンターは

店の奥でカクンと右手に折れていて、

その奥に5人がけのボックス席が2つある。

 

カラオケ用のテレビ画面が3台

散り散りに店の壁に張り付いている。

 

キャストの年齢は見る限り

一番若くて20代後半、

あとはほとんど30代らしく思われた。

 

ドア正面のカウンターにいた若めの女性に

『いらっしゃいませー!

   このお店は、初めて…ですか?』と聞かれたので

『はい、そうです』と答える。

『こちらにどうぞー、』と

そのまま正面にあった席に通された。

 

簡単な料金システムの説明があって、

最初のドリンクを聞かれた。

私が『一杯目だからビールで』と答えると、

女性は『はーい』と言って

バックヤードの方へビールを注ぎに行った。

 

ビールを待つ私は再び店内を見渡す。

『どの人が麗子ママなんだろ…』と

女性キャストを見回しても、

それらしきオバサンはいない。

 

先ほどの女性がビールを持って帰ってきた。

私は少し疑いながら小さくビールを飲んだ。

 

私がキョロキョロしていたせいか

『可愛い子いました?』と聞かれてしまった。

 

私はその女性と話しながら、

もう少し、この店の様子を伺うことにした。

 

何年前からこの店があるのか?とか

この店に来る客層は?とか、

他愛もない話にも、

とうとう行き詰まっってしまった私は

遂に『ママって、今日は休みなの?』と聞いた。

するとその女性はバツが悪そうに、

『あー、ママは…あの人です。

   ほら、電話の前に立ってる…。』

 

私は彼女に促されて、そちらに目をやった。

 

若い。

見た目は30代前半のようだった。

客はかなり入っているが、

どの客にも付かず、電話の前で、

ただ黙って立っている。

 

ヒールを履いていてよく分からないが、

身長は165,6センチといったところだろうか、

スリムですらっとしている。

クールな目元にツンとすました鼻筋。

色白な顔に暗めのブラウン系の口紅。

ウェーブのかかった黒髪のロングヘアーが

雪女的な美しさを醸し出していた。

 

私『綺麗な人だね』

女性A『そうですねー、でもあー見えて

            ママ、40超えてるらしいですよ?』

私『へー!全然見えないね!ほんとに綺麗。』

女性A『綺麗は綺麗なんですけど…』

私『ん?何かあるの?』

女性A『実はママ、喋らないんですよ。全然。』

私『あー無口なんだ。』

女性『無口とか、そんなレベルじゃなくて、

          ほんとに全く喋らないんですよ。

         私この店に来て、もう一年経つんですけど、 

         未だにどんな声なのか分からないんです。』

私『えー!それはよっぽどだね。』

女性『いつもあーやって、黙って立ってるから

        なんか他の女の子達も、

      ママに気を遣っちゃうっていうかなんていうか

       悪い人じゃないんですけどね?

      良い人か悪い人かも、分かんないって感じ』     

私『たしかに、接客業としては異常だよね。』

女性A『でも古いお客さんは皆さん、

          ママ目当てで来るんですよ。

          毎回、眺めてるだけで一言も話さないのに。』

私『ふーん、マネキンみたいだね。』

女性A『あっ、でもチーママのなつみさんなら

             ママと話したことあるかも!

             たぶん次、この席着くと思います。』

私『うん、分かった。ありがと』

 

私はそう言って乾杯し、彼女を見送った。

たしかに彼女の言った通り、

私の席にはチーママのなつみさんが来た。

なつみさんはシャキシャキした振る舞いで、

いかにも人当たりの良さそうな

チーママ向きの女性だった。

 

なつみ『えっ?ママの話?うーんそうねぇ。

            この店ができたのが大体10年ぐらい前で、

            その時から静かな人ではあったんだけど、

            さすがに今ほどじゃなかったと思う。  

           ご飯にも連れてってもらったことあるし。

            でもここ3、4年前からかな?

          業務以外のことは話さなくなっちゃったの』

私『へぇ、麗子ママになんかあったのかな?』

なつみ『えっ!お兄さん初めてなのに、

             よくママの名前知ってるね!』

 

私は『まずい』と思った。

ここでミッキーから渡された

名刺の事を話すと

少し面倒になると思ったので、

適当にごまかしておいた。

 

私『ねぇ、ママとお話って出来ないの?』

なつみ『出来ないことはないけど、

             たぶん何も話さないと思うよ?

             でも一応、ママ呼んでみようか?』

私『うん、お願いします。』

 

なつみさんはカツカツとヒールを鳴らして

麗子ママのそばへ近寄って

私が話したがってる旨を伝えると

なつみさんはそのまま、

奥の賑やかなおじさん達のテーブル席へと着いた。

 

なつみさんが去って、

空になった私のカウンターの向かいには

期待通り、麗子ママが来た。

 

f:id:seiteisama:20190405021513p:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ママ『いらっしゃいませ』

 

麗子ママは落ち着いた小さな声で私に言った。

 

女優の稲森いずみを少し

疲れさせたような雰囲気の彼女は

私の焼酎水割りを作りながら、

 

麗子ママ『ウチのお店は初めてですか?』

私『はい。そうです。紹介されて』

 

私は財布の中に入っていた名刺を見せる。

 

麗子ママ『これ、ずいぶん昔の名刺よ?…

                 誰からの紹介?』

 

私は遂に、コレをいう時が来たと思った。

 

私『ミッキーからの紹介』

麗子ママ『ミッキー?ディズニーの?』

私『いやいや、ゲイのミッキー』

 

ずっと氷のように無表情だった彼女は

少しだけ、ぽかんと口を開けたかと思うと、

すぐに驚いたように目を見開いた。

 

やはり、この人とミッキーは

知り合いらしい。

 

ミッキーを知る人間は、

この歌舞伎町でもきわめて少ない。

たまにいたとしても、

ゲイバーやオカマバーの店員。

ましてや、こんなに綺麗なママが

ミッキーの知り合いにいるなんて、

 

『ミッキーの話ができる』

私はそれだけで、なんだか嬉しくなった。

 

確かに彼女はほとんど喋らなかった。

しかし、無口と言われるわりには、

私とミッキーが知り合った経緯や

歌舞伎町でお世話になった話を聞いていると、

少しだけ口元が緩くなったように感じた。

 

その後も酒を飲みながら、

ママと私、そして彼にまつわる

思い出話は尽きず、そのまま閉店を迎えた。

私も年末で少し疲れていたのかもしれない。

そのまま、カウンターで眠ってしまった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

次の日私が朝に目を覚ますと、

ベッドの上だった。

しかし自宅のベッドではない。

 

殺風景な白い部屋に私はいた。

白い壁紙に白いフローリング

8畳ほどのこの部屋には、

ソファと冷蔵庫など、

生活に必要なものしかない。

本当にあとは、何もないのだ。

気分を変えてくれるような彩りのカーテンも

愛着が湧くようなぬいぐるみもない。

 

まるで、『人生がつまらない』と

この部屋が言っているかのようだった。

 

その退屈な部屋の主が、

ガチャリ、とすずりガラスの扉を開けて

シャワー室から出てきた。

濡れた黒髪をタオルで拭きながら

キャミソール姿のすらっとした女性、

麗子ママだった。

 

ママ『おはよう』

私『…、』

ママ『覚えてないの?昨日のこと』

私『え?あ、いや全然』

ママ『ふーん、』

私『え?昨日、何かしたっけ?』

ママ『何もしてないわよ』

私『あー、よかった。』

ママ『倍も近く年の離れたあなたに、

          興味なんてないわよ。それに

      『あの人』の友達に手を出すわけないでしょ?』

私『ああ、ミッキーね』

 

話を聞いていくと、どうやら私は

昨日ママの店で飲み過ぎて、

そのままお店で眠ってしまったらしい。

それをママがタクシーで

この部屋まで連れてきてきてくれたようだ。

私は白いシングルベッドに寝ていた。

じゃあママは?どこで寝たんだろう、

そこのソファだろうか?

でも大人が一人で横になるにしては

そのソファは小さすぎる気もする。

 

私は自分の枕を確認した。

今、私が頭を置いてる枕の横に、

四角いクッションが置いてあった。

かすかに女性の髪の匂いもする。

 

私『ここ、ママの家?』

ママ『そうよ?なんで?』

私『ん?なんか、やけに物が少ないから』

ママ『そうね、確かに。

         昔、色々と捨てちゃったの』

私『どうして?』

ママ『さぁ、』

 

私はシャワーを浴びるよう、ママに促された。

シンプルなシャワー室には

どこにでも売ってあるような

シャンプーとトリートメント、

そして石鹸の香りのボディソープのボトルが

3つ並んでるだけ。

殺風景なシャワー室には水カビひとつない。

給湯の設定温度は38度。正直ぬるい。

いつもより少し長めにシャワーを浴びたあと

髪をタオルでゴシゴシやりながら、

そのシャワー室を出た。

 

部屋の中にはコーヒーの香りが充満していた。

ママは先ほどのキャミソールから

スカートとニット姿になっていた。

これまた何の装飾も柄もない、

チャコールグレーのスカートに、

黒のハイネックニット。

 

ママ『はいコーヒー。

          インスタントだけど、よかったら。

           それともお水がいい?

          あなた二日酔いでしょ?』

私『うん、ありがと。お水も貰えると嬉しいな』

 

冷蔵庫から水の入ったペットボトルを

持ってきたママと2人並んで、

小さな二人がけのソファに座った。

 

茶色い合皮革のソファは安物なのか

お世辞にも。あまり良い座り心地とは言えない。

何より、まだママとの間に

若干の気まずさがあった。

 

ママ『あなた、家どこなの?この辺?』

私『うん、まぁまぁ近いよ。』

 

私はその時、ハッとある事を思い出した。

公共料金の払い込み用紙である。

昨日、まだ払わなくていいと思い、

そのままポケットの中に入れたのだった。

急いでポケットの中を確認するが、

見当たらない。

 

ママ『どうかした?』

私『いや、公共料金の払い込み用紙

      無くしたちゃったかも…』

ママ『あら大変ね、もしかして

        お家の電気でも止められちゃったの?』

私『…』

ママ『あら、』

 

自分の自堕落ぶりが

他人に明らかになるのは恥ずかしい事だが、

少しだけ、ママが笑ってくれたので

私の中の気まずさが少しは和らいだ。

 

それでもまだ、彼女には生気が感じられない。

 

ママ『もしかしたら、

         うちの店のゴミ箱に捨てたのかもよ?』

私『そうなのかなぁ』

ママ『今日取りにくれば?』

私『うん』

 

私はまたある事に気がついて、

財布を開いた。

そもそも公共料金を支払う金が

まだ残ってるのだろうか。

 

財布には2万6千円あった。

 

少しホッとしたと同時に、

昨晩ママのお店で飲んだときの

会計を済ませていないと分かった。

 

私『昨日の会計、まだしてないよね?』

ママ『そうね、でもいいのよ』

私『え?いいの?』

ママ『『あの人』から頼まれてるから、

          もしあなたが来たら、好きなだけ

           飲ませてあげてくれって。

          その分のお金は、大昔に頂戴したの。』

私『え?ミッキーが?』

 

コーヒーを飲みながら、

ママとしばらく話した。

時刻は、夕方の4時だった。

ずいぶんと寝てしまったようだ。

 

ママ『じゃあ、私もう行くから。

          お店開ける準備しないと、』

私『うん』

 

ママはそう言って私に部屋の鍵を渡すと、

細身の黒いダウンコートを羽織って

そそくさと出て行ってしまった。

 

私はほとんど知らない女性の部屋に、

ひとりで残される事となってしまった。

 

こういう経験は過去に何度かある。

勿論、ここまで素性の掴めない

女性のパターンは初めてだが。

 

女の部屋は男にとって、

なかなか面白いものだ。

見たことのない美容のスチーム機械や、

膨大な数の化粧品。髪を巻くコテ。

その全てが新しい気づきにあふれていた。

新しいハンドクリームを

勝手に手にとって塗ってみたり、

洗濯バサミにかかってるパンティを触って

こんなに軽いんだ!と思ってみたり。

 

でも、この部屋にはそれがなかった。

確かに、くまなく探せば

ハンドクリームもパンティもあるのだろうが、

心踊るようなものは1つもない。

ただ、白いベッドと茶色いソファとテーブル、

あと、なぜかこの部屋には似合わない、

『ラーメン怪獣 ブースカ』の小さな置物がある。

テレビもない、音楽をかけるオーディオもない。

気を紛らわす音といえば、

廊下のほうで洗濯機が

ゴウン、ゴウンとなるだけ。

ママは、本当にここで暮らしているのだろうか

まるで、綺麗な幽霊みたいな人だ。

まだ信じるわけにはいかない。

ソファには、ママが座っていた

おしりの跡がまだ残っている。

私は恐る恐る、そのくぼみに手を当てた。

その生温かさに私は少しだけ安堵した。

 

『ママは生きてて、何が楽しいんだろう』

 

素直にそう思ってしまった。

店ではほとんど誰とも喋らず、

家に帰ってもこの殺風景な部屋でひとり。

もしかして、

たまに来る若い男性客を酔わせて、

自分の家に持ち帰るのが趣味なのだろうか?

いや、それは考えづらい。

だとしたら、枕はちゃんと2つ持ってるはずだ。

 

そんな事を考えていると、

洗濯機がピーッピーッと鳴った。

 

少し面倒くさい思いはあったが、

私は一宿の恩義として、

その洗濯物を干してから、

家を出ることに決めた。

そこでやはり、彼女のパンティも触った。

意外にもピンクベージュのレースタイプだった。

 

f:id:seiteisama:20190405030243j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ママの部屋の鍵を閉め、

エレベーターで一階に降りて、

少し大きめのロビーを抜け、

マンションのエントランス出た。

 

四谷三丁目の交差点がすぐ目に入った。

見慣れた新宿通りには

年末で忙しい車がひっきりなしに流れていく。

 

私は後ろを振り返って、

出てきたママのマンションを見上げると、

意外と大きな建物であるのに驚いた。

 

『けっこう家賃高いぞ?これ賃貸かな?』

そう呟きながら新宿通りに向かって歩いた。

 

二日酔いの後の昼はお腹が空く。

今日は中華の気分だった。

 

新宿通り沿いにある

中華『寿楽』に入った。

 

私が前に、この辺りに住んでいた頃

朝の5時までやっている中華屋はとても貴重で、

飲み会終わりの帰り道は、

この店でよく夜食を食べていた。

 

ここには大木凡人にそっくりな

中国人のおばさんがいるのだが

今日は姿が見当たらない。

 

なるほど、

私はすぐに理解した。

昼だからだ。

いつも深夜にしか、この店に来なかった。

どうりで、あの大木凡人そっくりの

おばさんがいないわけである。

昼は全く知らない女性店員が、

忙しく、ガチャガチャと料理を運んでいた。

 

しかし、メニューは深夜も昼も変わらない。

何を食べようか迷った挙句、この日はいつもの

『海鮮タンメン&チャーハン セット』にした。

 

注文を済ませ、タバコに火をつける。

私はやはりママのことが気になっていた。

中華屋の大木凡人ママではない。

北川景子似のママである、

 

昨晩、ママの店のカウンターで、

確かに彼女も少しだけ喋ってはいたが、

基本的には私がずっと喋っていたので、

ママに関しては分からないことが、

まだまだ沢山ある。

この世のものとは思えない、

あの生気のない雰囲気。

ミッキーはママのことを

『優しくて明るい、良い人』と言っていたが、

一体全体、これはどういう事なのだろう。

 

そんな事をぼーっと考えていたら、

また、昨日のパスタ屋のように、

タバコの灰を落としてしまった。

が、今回は運良くセーフ。

灰皿の上だった。

 

女性の店員がせわしなく運んできた

『海タンセット』は

ここに住んでいた頃の味と

少しも変わっていなかった。

 

懐かしい味を一気に平らげて、

私は店の外に出た。

 

年末の新宿通りはタクシーが多い。

黒や黄色、緑やオレンジなど、

色とりどりのタクシーが、

まるでモザイク画のように通り過ぎていく。

それらの中にはどれ1つとして、

『空車』の赤い文字は見つけられなかった。

 

私は歩いて新宿へ向かうことにした。

 

新宿へ向かう道すがら、

私はあることを決心した。

ママからミッキーのことをもっと聞き出そう。

彼とどこで知り合って、

彼と何を話し、彼と何をして過ごしたのか、

なぜ彼から私の事を頼まれたのか、

 

そして、彼の死をどう受け止めたのか。

 

それを聞くことが、

私自身のためになると思った。

 

新宿通りを15分ほど歩くと、

すぐに東新宿まで付いた。

ママの店に行くには、

まだかなり時間が早い。

私はブラブラと街歩きをはじめた。

 

伊勢丹』のキラキラとした

美しいスーツや革靴を眺めて

いつかは自分で買おうと心を踊らせたり、

 

イシバシ楽器』で高いギターの試奏をして、

やっぱり自分の部屋の安物ギターとは違うな。

と、違いのわかる男を演じてみたり、

 

さまざまな美術用品を取り扱う

世界堂』では

見たこともない綺麗な色をした絵の具や、

一見、どう使うのか分からないような

彫刻用の金属のヘラなどを見て、

自分だったら、こう使うかな?と模索してみたり、

 

とにかく金を使わず時間を潰すなら、

東京で新宿の右に出る街はない。

 

時間はあっという間に過ぎて、

ママの店へ行くのに

ちょうどいい時間となった。

私は区役所通りでたむろする

黒人の客引きたちを横目に、

ママの店が入っているビルの

エレベーターに乗り込んだ。

f:id:seiteisama:20190405022059j:image    f:id:seiteisama:20190405022105j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

廊下を通って店のドアをカランと開けると、

昨日と同じ女性が『いらっしゃいませ』と

私を正面のカウンターへ案内した。

 

ビールを飲みながら少し待っていると、

ママが私のカウンターの向かいに来て

『探してみたけど、やっぱりなかったわ、』

と、あの落ち着いた小さい声で言った。

 

私は一瞬、

『ん?なんのことだ?』と思った。

 

そうだすっかり忘れていた。

私はそもそも、

公共料金の払い込み用紙を取りに

この店へと来たのであった。

しかし、もうそんな事はどうでもよかった。

 

私『そうか、残念』

ママ『そうね、でもどうするの?

          おうち帰っても電気つかないでしょ?

          今日も泊まっていく?』

私『お酒を飲んで、なりゆきで考えるよ』

ママ『あら、妙に落ち着いてるのね』

 

私はママの言った

『おうち』と言う表現が気に入らなかった。

子供扱いされてると思った。

だから、必要以上に落ち着いて見せた。

 

結局、その日も閉店まで飲んで

帰りはママとタクシーであの部屋へ帰った。

近くのコンビニで歯ブラシも買った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

今日もなんとか色々と話してはみたが、

まだ分からないことが多すぎる。

 

ママとミッキーは、よくカラオケに行って

朝まで歌っていた、とか。

 

カラオケの最後は必ず、

ミッキーのリクエストで

美空ひばりの『川の流れのように』を

ママが歌って締めるのが定番だった、とか

 

ママから聞き出せたのは、

そんなことぐらい。

 

私はママの部屋に帰ったあとも、

狭いベッドに二人で寝そべりながら、

また色々と質問したりした。

でも肝心の『ママとミッキーの関係』になると

ママは決まって『おやすみなさい』と

言い残して、寝たふりをしてしまう。

だから私も仕方なく

『おやすみ』と言って眠りについた。

 

今日と同じような生活が、何日か続いた。

昼は新宿などで時間を潰し、

夜はママの店で酒を飲んだ。

そのうちキャストの女の子や

常連のおじさん達とも仲良くなった。

 

ある日、

サラリーマン風の常連らしきおじさんが、

私のカウンター席の隣へ来るなり、

酔っ払った声で話しかけてきた。

 

常連『兄ちゃんすごいなぁ、

          ママとあんなに話せるなんて』

私『えぇ、まぁ。

   ちょっと共通の知り合いがいるもんですから』

常連『俺も昔はママと話せたんだけどさぁ、

          今はもうダメだ。眺めてるだけだよ』

私『いつ頃から話してないんですか?』

常連『うーん、もう3年とか4年になるな』

私『その前は普通にお話してたんですよね?』

常連『そうだよぉ!ママ、昔は明るくってさ!

          それであの綺麗な顔だろ?

          俺も若い時は結婚してください!

          なんて言っちゃったりして、

          飲んでない、シラフなのにさ!

          あと彼女、歌が本当にうまいんだよ!

          兄ちゃん知らないだろ?』

私『それは、全然知りませんでした。』

 

サラリーマンのおじさんはそう言って、

仲間達のいるボックス席へと帰り

女の子達のすすめで

最近のJ-POPの歌を大声で歌った。

 

年配のおじさんが最近の歌を

頑張って歌っているのは、

見ていて心が痛い。

しかもそのイタさに輪をかけて、

おじさんは歌が下手だった。

自分のリズムで歌うタイプ、といえば良いのか。

でも彼は楽しそうだった。

 

ママがバックヤードから戻ってきて、

私のカウンターに付いた。

 

私『ママ、昔は明るかったんだって?』

ママ『なにそれ?別に、今と変わらないわよ?』

 

あっさりとかわされてしまった。

なぜママが無口になったのか

聞きだす良いチャンスだったのに。

 

その日も同じように、

ママとタクシーで部屋へ帰った。

 

ベッドの上に、並んで寝そべりながら

私は彼女に聞いた。

 

私『ママが無口になったのってさ、

      ミッキーと何か関係あるんてしょ?』

ママ『さぁ、どうなのかしらね』

私『だって、常連さんも店の女の子達も

     ママが無口になったのは、三、四年前だって。

       ミッキーが死んだのも、その辺じゃない?』

ママ『さぁ知らないわ、おやすみなさい』

 

彼女はそう言って壁の方へ寝返りを打った。

私は思い切って、

彼女の左肩に手を当てると

そのとがった口の横にキスをした。

ほとんど何も考えずに、キスをした。

 

彼女もさすがに驚いたようで、

『なんなの?一体…』と

切れ長の涼しい目をぱっちりと開いている。

暗がりの中でも、それははっきり分かった。

 

私『そっち向いて欲しくなかったから、

   ねぇママ、お願いだからさ、教えてよ。』

 

彼女はやれやれ、とこちらに向き直った。

私は彼女のウエストに手を伸ばし、

その細い身体を、近くに引き寄せた。

彼女も彼女で、

白い両手を私の首筋に伸ばし、

優しくそっと掴んだ。

 

ベッドの上で向かい合いながら、

しばらく見つめ合った後、

 

私『やっぱりミッキーが死んだのと

      何か関係あるんでしょ?』

ママ『えぇそうね、たしかに』

私『やっぱり悲しかった?』

ママ『ええ、とてもね』

私『俺も、そうだよ。』

ママ『あなたとは、少し違う感情だろうけど、』

私『違うって?』

ママ『若い頃、付き合ってたの。彼と』

私『え?ママが?

     でも、ミッキーはゲイだよ?』

ママ『彼自身、それに気づいたのは35歳の時、

          それまでは、彼は普通の男で

          私たちは普通の恋人だったの』

私『なるほど、ミッキーはある日

      自分がゲイだって気づいて、』

ママ『そう、それで私、フラれちゃったの。

           二人で行った京都旅行でね。

           あの人から突然、その事を打ち明けられて、

          もう10年以上前のことね。』

私『その頃から、ママは塞ぎこんじゃったの?』

ママ『うーん、少しはそういう気分になったけど

         自分のお店のこともあったし

        そこから何年かは頑張って笑ってたわ』

私『でも、四年前にミッキーが死んで、』

ママ『そう…それで、もうなんだか、

        全部どうでもよくなっちゃったの』

私『ミッキーのこと好きだった?』

ママ『えぇ、』

私『今でも好き?』

ママ『そうね、悔しいけど。』

私『俺もだよ。今でもよく、

      ミッキーのことを思い出すことがある』

 

ママは私と抱き合ったまま、

そっと目を閉じた。

涙を隠すためだったのかもしれない。

 

私『明日さ、京都に行かない?

       お店、日曜は休みなんでしょ?』

ママ『え?あなたと?

          嫌よ京都なんて、わざわざ

       悲しくなりに行くようなもんじゃない』

私『行こうよ。

      京都で別れたその場所から、

      また新しく始めればいいんだよ。』

ママ『始めるって、なにを?』

私『止まってるんだよ、時間が』

ママ『私の?』

私『そう。だからまたその場所から始めなきゃ』

ママ『そんなことで、』

私『大丈夫だよ。絶対。』

ママ『はぁ、呆れた。まあいいわ。

         一応考えておく、

         お寝坊のあなたが、早起きできたらね』

私『起きるよ。必ず』

ママ『おやすみなさい』

私『おやすみ、』

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

品川駅の京都行きホームは

思いのほか空いていた。

たしかに、いまは行楽シーズンでもない。

ましてこんな年末に国内旅行するなんて

普通はあまり考えない。

 

大勢の人々がせわしなく、

電車から降り、品川の街へ駆け出していく。

あくせく時計を見ながら改札へ急ぐ

スーツ姿のサラリーマンたちは、

現在、そして未来という

『時間』に追われていた。

 

ギラギラと銀色に光る

無数の腕時計が、

私たちの横を通り過ぎて、何処かへ行く。

 

ふと、隣に立っているママをみる。

彼女には、彼らのような『時間』がないのだ。

 

私たちの京都の旅は、

止まったままの『時間』を取り戻す旅であった。

 

f:id:seiteisama:20190405023424j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

東海道新幹線は私達を乗せて、

小田原を抜け、名古屋を過ぎる。

隣の席のママは、

黒くて細身の、丈が長いダウンコートを

膝にかけ、足を組んで座っている。

 

二人で車内販売の駅弁を食べながら、

ママがポツリと呟く

『この駅弁、確かあの人とも食べた…』

私がママの顔をちらりと覗くが、

クールなママは果たして懐かしんでいるのか、

駅弁が美味しいのか、

それとも不味いのかすら、分からない。

 

私はこの行きの新幹線で、

駅弁をむしゃむしゃ食べながら、

ある事を心に決めた。

 

私は、今からミッキーになるのだ。

 

この京都旅行で、

私は自分自身としてではなく、

ママにとっての恋人『ミッキー』の役を

できる限り全うしようと心に決めた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ほとんど京都に関しては素人の二人である。

現地での行き先は、

まるで修学旅行のような王道コースだった。

 

三十三間堂で千体の金色観音を見て、

その少しずつ違う一体一体の顔の中で、

お互いの顔がどれに似ているかを探してみた。

 

西本願寺では、境内に敷き詰められた

綺麗な白い砂利を

わざとザッザッと鳴らして歩き、

暖房もない、寒くて広い本堂で

正座しながらお坊さんの講話を聞く。

でもやっぱり途中でつまらなくなって、

『もう出ようか?』とひそひそ話し合い、

冷たくきしむ廊下を

今度は音を立てないように

こっそりと抜け出したりした。

 

西本願寺の横にある小さな食堂、

そこで食べる、

澄んだ色をした。関西風きつねうどん。

 

清水寺の、あの有名な舞台が

意外に傾いている事に二人で驚いた。

 

10年前、

ママがミッキーと旅をした京都の街を

全くそのままエスコートした。

 

彼女は旅先の所々で、

少しだけ冗談を言うようになった。

 

きっと私はママの彼氏に、

つまり、あの頃のミッキーには

とてもなりきれてはいないだろう。

ミッキーと私とでは、

姿かたちがまるで違うし、

そもそも彼が女性相手に

どういった振る舞いや声色で接するのかも、

一度も見たことがないし知らない。

 

それでも私は、

彼と一緒にいたころの

ママの表情に少しだけ触れることができた。

はにかみながら

冗談を言って笑う彼女は、

本当に20代に見えた。

私はそれだけで嬉しかった。

それだけに、ふと我に帰った時の

彼女の悲しそうな目を見るのが辛かった。

 

その夜、

私達二人は京都の繁華街、

新京極へ行って夕飯を食べる事にした。

 

着いてみると意外にも、

かつての繁華街であった

新京極はシャッター街となっていた。

ママが10年前、ミッキーと二人で飲んだ

赤提灯の焼き鳥屋も、

もう無くなってしまっていた。

 

ママ『時間が経ったんだもん、あたりまえよね』

 

時が止まったままの彼女には、

残酷な結果だった。

 

ミッキーとの京都旅行の再現は、

思わぬ形で終わりを迎えた。

 

『仕方ない』と呟くママの顔は、

あの氷の冷たさを取り戻していた。

 

私達はタクシーで

ホテルのある三条まで戻り、

その近くにあった、

いかにも京都のOLが好みそうな

ちょっと小綺麗な焼き鳥屋に入った。

 

通された大きなテーブルは、

白っぽい木材で出来た4人がけ。

ドライな質感の灰色の木のテーブルに、

凍ったままの彼女と向かい合って座った。

 

なんだか、また遠くなってしまった。

無闇に空いた4人テーブルが、

さらに心理的な距離を大きくした。

その隙間と、あと何かを埋めるように

私はビールの他にも、

焼き鳥盛り合わせ15本や

水炊きを注文した。

 

オシャレな店は、料理の出が遅い。

不安な私はたまらず、

すぐに出てきそうな

『ナムル盛り合わせ』を追加で頼むが、

それすらも出てくるのが遅い。

 

ママ『ちょっと、結局私が払うんだから、

          あんまりボカボカ頼まないでちょうだい』

 

その嫌味な冗談に、

清水寺での微笑みはなかった。

 

私『すみません、』

ママ『そんなに真に受けないでよ。

          好きなもの頼んでいいから、

         そんなに焦らなくていいってこと。』

 

なんとか間を埋めよう、という

私の考えまでも見透かされていた。

 

だいぶ待って、

ドサドサと料理が運ばれてくる。

ナムル盛り合わせは、結局、一番最後に来た。

 

私はママに、

ミッキーとは焼き鳥屋で何を食べたのか?とか

ミッキーとは焼き鳥屋でどんな話をした?とか

そんな事を聞いて、沈黙を埋めた。

 

もう『彼になりきる』なんて

青臭い意気込みは、とっくに消えていた。

 

しばらく話しても、

彼女の表情が変わることはなかった。

私は固まった雰囲気を紛らわすように、

タバコの箱を開けて、

一本取り出し、火をつけた。

 

ママ『それ、あの人の真似?』

 

彼女は唐突に、そう言った。

しかし何のことか分からない。

最初、タバコの銘柄の話かと思った。

でもミッキーが吸っていたのは

ラッキーストライク

対して私はセブンスターである。

 

私『えっ?なに?』

ママ『そのタバコの持ち方よ』

 

初めて気がついた、

私は中指と薬指でタバコを持つ癖がある。

それが、ミッキーと一緒だと言うのだ。

 

ママ『それに、』

私『え?まだなんかあるの?』

ママ『あの人、セブンスター吸ってたのよ?

          私と別れてから変えたらしいけどね』

 

そんな事、ミッキーの口からは

一度も聞いたことがなかった。

まったく意図しなかった偶然の一致に

私はあっけにとられてしまった。

 

ミッキーは私と過ごした日々の中で

かつて、自分が吸っていた

セブンスターを咥える私の姿を見て、

一体何を思ったのだろう。

そんな事が気になっていた。

 

ママは、その細身の体からは

想像出来ないほど食が太く、

焼き鳥も、水炊きもハイペースで口に運んだ。

歌舞伎町のお店ではほとんど飲まないのに

ここではビールもガツガツのんだ。

少し、やけ食いとやけ酒にも見えた。

 

2時間ほど経つと、

彼女の雪女のような白い頬も、

うっすら赤く染まっていた。

 

ママのカードで会計を済ませ、店を出た。

f:id:seiteisama:20190405023647j:imagef:id:seiteisama:20190405023830j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

焼き鳥屋からホテルまでは

歩いて3分もかからない。

彼女は酔っ払ってることを

私に悟られたくないのか、

私の歩く二歩前を早足でずんずん歩く。

 

ホテル内のロビーで

バーの看板を見つけた。

 

私『ねぇ、あのバー寄ってかない?』

ママ『ん、なんでよ。』

私『いいじゃん、まだ10時前だよ?』

ママ『そうやってまた夜更かしするから、

          あなたは『お寝坊さん』なのよ。』

私『せっかく京都まで来たんだし、

       ねぇ行こうよー。ここは奢るからさ?』

 

もうほとんど、なし崩し的に

ホテル内にあるバーに入った。

 

高級なホテルのバーは、

ビール一杯で1200円だった。

私はバーの暗がりで、

ポケットの財布の中身を確認した。

その結果、

当然チビチビやる事にした。

 

私はメニューを見ないまま、

ジントニックを濃いめで頼んだ。

『その店がいいバーかどうかは、

   ジントニックを飲めば分かる』

そんな言葉もあるわけで、

これを最初に頼むと、少しツウっぽくなる。

安いから頼んだとは、あまり思われない。

 

彼女もまた、メニューを見ずに

マティーニを注文した。

 

大きな一枚板のカウンターは

上質な赤茶色をしており、

そのトーンが暗い店内に良く映えた。

 

カウンターの向こうには、

琥珀色に輝くウイスキーやブランデー、

様々な色やユニークな形をした焼酎瓶などが、

一つ一つの佇まいはそのままに、

全体の不思議な調和をもって、

壁一面に並べられていた。

 

程なくして、私の前には

ボンベイサファイアで作った

細長いジントニック

彼女の前には

オリーブの実を沈めたマティーニ

コルクで出来たコースターの上に置かれた。

 

会釈するように乾杯すると、

ママは小さなマティーニ

ひと息で飲み干し、

オリーブの実をガブっとかじった。

 

ママ『気にしなくていいわよ、

          自分のお代は自分で払うから。』

 

私は胸を撫で下ろした。

ママはすぐに

スコッチウイスキーをダブルでオーダーした。

 

私『酔っ払ってるでしょ?』

ママ『ぜーんぜん酔ってない!』

私『それ酔っ払ってる人が言うやつだよ?』

 

その後もママはハイペースで飲み続け、

バーテンダーも『この人、大丈夫か?』

という顔色になってきたあたりで

ママは両ひじをカウンターに付いて、

がっくり頭を落として下を向いた。

 

私『ママ、大丈夫?』

ママ『うーん、だめ。このまま死のうかな』

私『だめだよ?ここで死んじゃ、

      お店に迷惑かかるでしょ?』

ママ『迷惑かかるだけマシよ』

私『?』

ママ『強がって、誰にも相談しないで、

      ひとりで死ぬヤツなんかより、よっぽどマシ。』

私『ママ。違うよ。ミッキーは…』

 

前後不覚とはこの事だろう。

ママの話は、脈絡が飛び始めている。

しかし、そういう時に限って、

普段は口にしない本音を話したりするのが

酒の力でもあった。

 

ママ『分かってるわよ。

        でも、最後くらい相談して欲しかった…』

私『…。』

ママ『あの人、ゲイになってからは

         それまでの友達もほとんどいなくなって、』

私『…。』

ママ『だからあの人、誰にも頼らなかった。

          グチぐらいこぼしたらいいのに。

          人に迷惑かけないようにって

          たった一人で生きて

          最後には、誰からも忘れられて、

          そうやって、ひっそりと死んでいったの。』

私『…。』

ママ『あの人が可愛そう…。

          だから、せめて私ぐらいは、

        ずっと悲しんでいてあげなきゃ。

         あの人が完全に消えちゃう気がするの。』

私『…でも…、だからってママが…、

    ママが暗い人生を送ることないんだよ?』

 

ママは私の言葉を聞いてか聞かずか、

そのまま、完全に頭をおとし、

カウンターの上にうなだれた。

 

その夜、彼女は始めて涙を見せた。

 

私は彼女の肩を担いで、

ホテルのバーを出た。

 

f:id:seiteisama:20190405023935j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

すれ違うホテルのスタッフからの

奇異の視線を浴びながら、彼女の肩を担ぎ

唐草模様のカーペットの廊下を進む。

 

『りょうちゃん、ごめんね?』

と舌足らずな口調でママがいう。

この時、初めて名前で呼ばれた。

 

部屋の鍵を開けて、ママをベッドに転がす。

 

酒を飲んだせいか、部屋がやけに暑い。

ベッドの上で『うーん、』と

ジタバタもがくママは

私よりも、もっと暑そうだった。

エアコンの暖房を切り、

床に落ちたママの黒いダウンコートを

クローゼットのハンガーにかけ、

ママの着ていたニットを脱がせ、

スカートを下ろす。

 

ママは、何を私のような若造相手に

気合いなんて入れてるのか、

かなり過激めの黒い下着だった。

 

そのまま素っ裸にしてやろうとも思ったが、

ママが苦しそうだったので、

ブラジャーのホックを外しただけでやめた。

 

ママをそのままベッドに転がして

身体の熱を逃がしたあと、

よく洗濯されたサラサラの羽毛布団をかけ、

私はシャワーを浴びた。

その後ベッドのある部屋に帰って、

ママがすっかり寝ていることを確認すると

そのサイドテーブルに

水の入ったペットボトルを置いた。

 

私もその日は濡れた髪のまま、

自分のベッドに入り、

考えごとをする間もないままに寝た。

 

f:id:seiteisama:20190404234245j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

朝、ドライヤーの音で目が覚めた。

 

開かない目であたりを確認すると、

もう、窓の外はすっかり明るくなっていた。

 

バスルームの方で、

ママが髪を乾かしているようだった。

 

昨晩、ママのベッドサイドに置いた

ペットボトルの水をちらりと確認する。

 

少しだけ減っていた。

 

ドライヤーから出る風の音が消えた。

ガタ、ガチャっと

テーブルに置く音が聞こえて、

その後すぐにママがバスルームから出てきた。

 

やはり、というべきか、

彼女は黒い下着姿のままだった。

 

ママ『あら、起きたの?』

私『うん、今ね』

ママ『昨日はごめんね?迷惑かけちゃって』

私『いや、いいってば。

      俺も前に同じようなことあったし。』

ママ『そうね、あなたが初めて

          ウチのお店に来た日ね?』

私『そうそう、それに昨日のこと

      覚えてないでしょ?おあいこだよ。』

ママ『覚えてるわよ?』

私『え?全部?』

ママ『もちろん全部。ブラ外したでしょ?』

私『へー覚えてるんだ。大したもんだね、

      あんなに酔ってたのに。』

ママ『あなたと一緒にしないで?

          場数が違うのよ。経験の差ね。』

私『はいはい。』

ママ『あなたこそ、よく起きたわね?

          いつもはお寝坊さんのあなたが』

 

『眠りが浅かったから』

とは言えなかった。

 

一見、ぐっすり寝てるようで、

実は一晩中、ママのことを考えていた。

 

ママ『やっぱり京都も冷えるわね。』

私『そうだね。エアコン入れたら?

      あと、そこのチャンネル取って。』

ママ『チャンネルじゃなくて

        『リモコン』でしょ?』

私『そうそう、リモコン』

 

彼女はテレビ横に置いてあった

リモコンを取って私のベッドに近寄ると、

そのまま、私の羽毛布団の中に入ってきた。

 

ママ『はい、『リモコン』。』

私『まったく、しつこいな。ありがと』

 

壁を背もたれにして二人で並び、

テレビの電源をつける。

中ではロケ番組のキャスターが

ハキハキとした京都弁で、

午前中の錦市場をリポートしていた。

 

下着姿のママと、はだけたバスローブの私。

 

もし今、誰かが部屋に入ってきたら

確実にセックスの後だと思われるだろう。

 

ちらりと横目で、

彼女の身体を見る。

40代とは思えない、細くて華奢な上半身。

控えめな白い胸元に綺麗な鎖骨。

 

おそらく確信犯だろう。

白い肌に黒下着の破壊力は

相当なものだった。

 

私『ずいぶんと過激な下着つけてたんだね。』

ママ『それで、昨日は

         外したくなっちゃったの?』

私『いや、あんたが苦しそうだったからさ。』

ママ『…したいの?』

私『いや、まさか』

ママ『どうして?おばさんだから?』

私『バカだな。ママは綺麗だよ?

      でもほら、朝だから。

      それに俺もまだ寝起きで髪ボサボサだし、』

ママ『冗談に決まってるでしょ?

         なに本気にしてんの?』

私『まいったな…』

 

まんまとやられたフリをして、

ベッドを降りる。

ジャンケンで後出しをされたら、

誰も勝てない。

 

ネイビーのベルベットジャケットに袖を通し、

黒のスラックスを履いた。

ホテルのスリッパを突っかけて

『タバコ吸ってくる』と言い残し

部屋を出た。

 

朝の身支度で

ざわついた雰囲気が漂う

ホテルの廊下を歩きながら、私はひとり

『危ないところだった…』と呟いた。

 

男女の交わりというのは、

膨大な『カマの掛け合い』である反面

その勝負は意外にも、一瞬で決まる。

 

無論、あんなに綺麗な彼女とセックスするのは

私としても、やぶさかではないが、

少なくとも今は、その時ではない。

 

あの頃から止まったままの、

彼女の『時間』を取り戻さなくては、

この旅の意味がない。

 

やはりミッキーから目を背けてはダメだ。

そう思った。

 

喫煙所でタバコの箱を開けると、

もう一本も残っていなかった。

そのまま部屋に戻っては、

なにかと不自然だと思い、

時間つぶしにスマホを開く。

これまた、充電がほとんどない。

 

残された時間は少ない。

直感的に悟った。

 

再び部屋に戻る。

彼女はまだ下着姿のままだったが、

この短時間で化粧直しを済ませていた。

 

素直に綺麗な女だな。と思った。

惜しいことをした。と思った。

 

私『朝食。バイキングがあるってよ。』

ママ『そう、じゃあ着替えたら行きましょ。』

 

少し他人行儀になったママの

身支度は思いのほか早く、

私が歯磨きを終える頃には、

既にコートまで着替えていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホテルのロビーは

朝の忙しさを詰め合わせたような

ざわめきに溢れかえっていた。

 

夜中は高級感のある、

落ち着いた佇まいのロビーも、

朝の忙しさの前には形無しである。

 

朝食会場はロビーのすぐ横だった。

高級ホテルの朝食がどんなものか、

楽しみだった私はまっすぐ会場に向かう。

 

ママは、少し足取りが重いように見えた。

 

私『どうしたの?具合悪い?』

ママ『…なんか恥ずかしくなってきた。』

私『なんで?』

ママ『だって私とあなたで、

         ほとんど倍も歳が離れてるのよ?

         若いホストに騙されてる

        可愛そうなおばさんだと思われちゃう…』

私『変なこと気にする人だね。』

ママ『だって…』

 

人数のピークを過ぎた朝食会場は

とても空いていた。

料理が盛り付けてある銀色の大きな皿は

朝の光を反射してたまにキラっと光る。

オレンジ、アップル、牛乳、アサイーなど

20種類ほどあるドリンクの大瓶は

まるで絵の具のパレットのようだった。

 

私はクロワッサン。フレンチトースト。

それにバターをスプーンで一欠片とると、

あとは定番のウインナーやスクランブルエッグ

ほうれん草とベーコンのソテーなど。

ドリンクの一杯目は珍しく、

コーヒーではなく牛乳を選んだ。

こういうホテルの牛乳は濃くてうまい。

 

料理を取るのに夢中になって、

ママを見失った。

 

テーブルに着いて、

牛乳を飲みながら彼女を待った。

 

彼女は思いのほか、すぐに来た。

 

和食だった。

 

ご飯と赤みその味噌汁。

鰆の西京焼きに京野菜の漬物の盛り合わせ。

あと温泉卵もあった。

 

私『和食なんだね』

ママ『なに?歳だって言いたいの?』

        あなたこそ、よくパンなんか

        食べられるわね。胃がもたれるわよ?

      それに、ほら京都だし。和食でしょ。』

 

私は『それがおばさんなんだよ』と言いかけて、

彼女と向き合って朝食を食べた。

 

何故だろう、洋食を食べる姿より

和食を食べる姿の方が品が出る。

 

彼女の箸の持ち方はとても綺麗で、

持ち上げた味噌汁のお椀に添えた右手に

私は強く、彼女の『女性』を感じた。

 

結局、ママの持ってきた京料理が美味しそうで

私もバイキング2周目は和食にした。

 

味噌汁は酒を飲んだ胃に染み渡り、

京野菜の漬物は程よい風味と歯ごたえで

咀嚼のリズムを作り出す。

 

パンとバターなんかクソくらえだ。

やっぱり和食が一番だ。

本当にそのぐらい思った。

 

そもそもホテルとは、日常にはない

『特別感』を得る場所だが、

そこでの朝は、より一層特別である。

 

結婚もしてないふたりが、

まだベッドで寝ている片方の布団を直し、

自分は髪を乾かし、化粧を直す。

朝のニュースを二人で見て、

ほんの小さなことで気まずくなり、

タバコを吸いに出て行く、

1つのテーブルに向かい合って朝食をとる。

自分の料理だけじゃない。

相手の飲み物も気にかける。

 

よく考えれば、何もかもおかしな話だ。

それだけ朝を共有するというのは

特別なことだ。

 

朝は、とことん無防備である。

互いのことを知ろうとした時、

たとえどんなに深い夜を過ごしたとしても

そこでは結局、互いが気を張っていたり、

下心を隠しながらカッコつけていたり、

ある種の『ポーズ』をとった上での

付き合いでしかない。

 

朝というものが持つ、

その無防備さの一点には、決して敵わない。

 

私はこの朝で少しだけ、

ママを知れた気がした。

それは彼女も、そうだと良いのだが。

 

f:id:seiteisama:20190404234658j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホテルのエントランスを出ると、

冬の京都の香りがした。

街を走る車が巻き上げる煙や、

朝のカフェから漂う香ばしい都市の空気。

そのどこか遠くでは、

線香にも似た煙の匂いが微かにあった。

 

私とママの二人はタクシーに乗って、

北野天満宮へと向かった。

 

神社の参道には、

クレープやお好み焼きなどの屋台が立ち並び。

その少し外れた柳の下では、

ゴザを敷いた骨董市が店を開いていた。

 

ママは、物欲がないように見えて

意外とその骨董市には興味深々だった。

 

私『好きなの?そういう古いの』

ママ『おばさんだって言いたいんでしょ?』

私『違うよ、ママも物とかに興味あるんだーって』

ママ『無いわよ』

私『え?』

ママ『ほら、『あの人』が

          こういうの好きだったでしょ?』

私『ミッキー?』

 

私は昔の記憶を辿っていた。

たしかに、ミッキーの店には

よく分からない中国の置物や

大きな青磁器があったような気がする。

 

ママ『私も、あの時は分からなかったけど

         今見たら何か良さがわかるのかな?って、

       でもやっぱりダメね、ちっとも分からない。』

私『無理に分かる必要はないよ。』

 

その後も、ママは骨董市の前にしゃがみ込んで

大きな陶磁器の皿や、古いキセルなどと

にらめっこしていた。

 

私は屋台の方へと戻り、

何か京都らしい食べ物がないか探してみた。

 

しかし、いかに京都といえど

縁日の屋台では、東京と何も変わらなかった。

 

大人しくチョコバナナを買って

ベンチに座って食べていると、

先ほど屋台の道を通った時には見えなかった

細い『小道』を見つけた。

 

ベンチから腰を上げて近づいてみると、

そのあまり整理されていない小道は、

奥へと続いている。

 

のんきにチョコバナナを食べながら、

その小道を奥へと進んだ。

 

そこでは骨董市のようにゴザが敷かれていて、

置かれている商品は、骨董までもいかない

昔懐かしのおもちゃなど、

ビニール製のフィギュアが並べてあった。

 

そのフィギュアの中に、

見覚えのある顔を見つけた。

 

ママの殺風景な部屋にいた、

『ラーメン怪獣 ブースカ』の置物である。

 

その愛くるしい、黄色くて丸いフォルム、

そしてこのマヌケな表情。

『ラーメン』と『怪獣』という絶妙なミスマッチ。

私も、一目みた時から欲しいと思っていた。

 

手に取って、足の裏の値段を見る。

『1500円』と書いてあった。

 

少し高いと思ったが、記念に買った。

ブースカは新聞紙で包まれて

私の黒いロングコートのポケットに収まった。

 

ママのところへ戻ると、

彼女はまだ柳の下にしゃがみ込んだまま、

骨董品とにらめっこしていた。

どうやら店の親父さんが、

しつこく売りつけようとしているようで

ママも引き際を見計らっているようだった。

 

私『そろそろ行かない?

      新幹線の時間もあるし』

ママ『ええそうね。もう行かなきゃ』

 

名残惜しそうな

骨董品店のオヤジさんを残して、

私たちはその場を後にした。

 

道路を流れるタクシーを拾いながら、ママに

『どう?骨董品の良さは分かった?』と聞いた。

彼女は間髪入れずに『全然!』と答えた。

 

京都駅へのタクシーに揺られながら、

旅は静かに終わろうとしていた。

 

ママは駅の売店で、

お店の女の子に配るお菓子を

何箱か買っただけで、

他にお土産は何も買わなかった。

 

帰りの新幹線に揺られながら、

ママは窓の外を見ていた。

 

私もこの旅が何だったのか、考えていた。

 

楽しくなかったわけではない。

むしろ楽しかった。

この京都で、無口なママの楽しそうな表情も

何度か見ることができた。

 

でも、これで良かったのだろうか。

 

当初の目的は果たせたのだろうか。

 

ママは、ミッキーと別れたままの

『止まった時間』を取り戻せたのだろうか。

 

彼女のために、私は何が出来ただろう。

 

そんなことばかりを考えていた。

 

私『ママの部屋にいるさ、ブースカの置物?

      あれ何?ママの趣味?』

ママ『あーあの子ね、けっこう可愛いでしょ?

         でも私が買ったんじゃないの』

私『誰かからもらったの?』

ママ『『あの人』がね、昔くれたのよ。

          あんなのどこで見つけたんだか、

          京都旅行の時にポロっと渡されたの。

          引越しする時に、何度か処分も考えたけど

          可愛いから捨てられなかっただけ。』

 

私はじっとりと冷や汗をかいていた。

驚きを悟られないようにしながら、

コートのポケットの膨らみを握りしめた。

 

ママ『だけどもう、あの子ともさよならしなきゃ

          見るたびに彼のこと思い出しちゃうから』

私『捨てちゃダメだよ』

ママ『なに?あなた、あの置物が欲しいの?』

私『違うよ。ミッキーのこと忘れなきゃ、なんて

      ママが思う必要ないってこと。』

ママ『そう、』

 

ママはそう言うと、

少し安心したのか、

私の肩にもたれたまま眠ってしまった。

 

私はひとり、東海道新幹線に揺られながら

流れていく景色を眺めていた。

 

この京都旅行といい、

セブンスターの事といい、ブースカといい、

単なる偶然なのだろうか。

 

ただならぬ、何か大きな力が、

私たちを、この京都へ呼び寄せたのだと

この時、改めて悟った。

 

ポケットの中のブースカは、

まだ、ママには見せないでおいた。

 

f:id:seiteisama:20190404234841j:image

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

夕方、新幹線が品川駅に着くと、

ママは『お店に行く、さよなら』と言って

旅行の名残り惜しさもなく、

あっさり山手線に乗って行ってしまった。

 

今日が年内、最後の営業日らしい。

 

ママを見送ったあと、

やっぱり私も山手線にのった。

ママを追いかけた訳ではないのだが、

 

もうママに会えないんじゃないか。

 

なんとなく、そんな気がしていた。

 

f:id:seiteisama:20190405024202j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

新宿に着いた。

もちろん東口、歌舞伎町である。

 

ママに、ブースカを渡さなければ。

 

でもお店に行くには、まだ時間が浅い。

幸い、歌舞伎町には知り合いは沢山いる。

私はアテもなく歌舞伎町をぶらつきながら

顔なじみのキャバ嬢やホスト、

居酒屋の主人やラーメン屋のオヤジたちに

年内最後のあいさつを済ませていった。

 

豚骨くさいラーメンをすすりながらも、

頭の中はママのことで一杯だった。

 

このままで、京都旅行は終われない。

でも、もう一度ママに会ったとして、

一体何を言えばいいのか。

 

『もうミッキーのことは忘れなよ』

違う。

『気晴らしに俺と付き合っちゃう?』

これも違う。

 

ママの心に刺さる一言を、

あーでもない、こーでもないと推敲するうちに

時刻は12時を回っていた。

 

f:id:seiteisama:20190405024245j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

もはや制限時間いっぱい。

ついに、『勝負』をしなくてはならなかった。

 

ママのお店に行くと、

年内最後の営業日ということもあってか

お客はいつもより多かった。

 

ママは相変わらず電話の前に立って、

表情も変えずに店内を眺めている。

 

彼女は私を見つけ、小さく手を振った。

 

ママと私はカウンターで向かい合って、

さっきまで一緒に旅行していた事を

周りには悟られまい、との思いで

不思議な『ぎこちなさ』を形成していた。

 

私はいよいよ、

ブースカの置物をポケットから出して、

彼女のテーブルの前にトンっと置いた。

 

ママ『なに?私の家から持ってきたの?』

私『違うよ。実は俺も買ってたんだ、京都で』

ママ『…、』

私『すごいでしょ?本当に偶然なんだ。

      昔、ミッキーがママにプレゼントしたなんて

     本当に、全然知らなかった。』

ママ『不思議ね。とても』

私『うん。本当に不思議なんだ。』

 

ママはブースカを手に持つと、

ブースカの足の裏にある値札シールを見た。

 

ママ『1500円…。意外と安かったのね、この子』

私『このお店にさ、コイツ置いてくれない?』

ママ『え?うちのお店に?』

私『そう。やっぱり嫌かな?

      またミッキーのこと思い出しちゃう?』

ママ『そうね。やっぱり…

         もう、いい加減に忘れなきゃ』

私『忘れなくていいと思うんだ。』

ママ『…?』

私『ミッキーのこと、忘れちゃダメだよ。』

ママ『えぇ、そうね。』

私『これを見ればさ、

     ひとりじゃないって思うでしょ?』

ママ『ひとり?』

私『ミッキーのことを覚えてるのが、

      ママだけじゃない。俺も思い出して

      一緒に楽しくなったり、悲しくもなれる。』

ママ『えぇ、たしかに』

私『そうやって、俺たち2人で

     彼のことをずっと忘れずにいようよ。

     この『ブースカ』が、その約束。』

ママ『…嬉しい。本当に。』

 

彼女はそういうと、壁面に並べられた

ブランデーやウイスキーのボトル棚に

ちょこん、とブースカを置いた。

 

ママの心に響く一言は、

推敲に頭を悩ませた割には

案外、すらすらと口から出てきた。

彼女は私の方を、なかなか振り返らなかった。

人差し指を鼻にあてがい、

小さくすすりながら泣いているようだった。

 

やっとこちらに振り返ったママは

目が少し赤くなってるのが分かった。

 

ママ『りょうちゃん。今年は本当にありがとう』

私『こちらこそ、迷惑かけてごめんね?』

ママ『うんうん、いいの。

          本当に長い間、死んだ彼の事ばかり考えて、

          時間を無為に過ごしてきたけど、

          今は少し、前に進んでいける気がするの』

私『愛する人の事を考えた日々は、

       無駄なんかじゃないよ。人生は長いよ?』

ママ『本当にそうね。

         まだ私の半分しか生きてないあなたに

         言われたくないけど。』

私『ねぇ歌ってよ。カラオケあるんでしょ?』

ママ『はぁ、私が?』

私『常連さんから聞いたよ、

      ママは歌がうまいって』

ママ『いやよ、何年歌ってないと思ってるの?』

 

私はママの返事も聞かず、

カウンターの端にあったデンモクをいじっていた。

 

店内に散らばった三台のテレビ画面は

古めかしいフォントで、

あの有名な曲名を映し出していた。

 

常連は『おっ!麗子ママ!!

            久しぶりに歌ってくれるのかい!?』

などと囃し立てるものだから、

客やキャストを含めた店の全員の注目は、

ママと私のテーブルに集まった。

 

チーママのなつみさんが、

気を利かせて店内の照明を下げ、

私とママのテーブルだけを照らしてくれた。

 

その頃、店内にはすでに、

おしゃべりなんかをして

歌を妨げるような人間はひとりもいなかった。

 

ママは渡されたマイクを静かに手に取ると、

彼女の年齢からは、とても考えられない、

まるで少女のように透き通った声で、

優しく語るように、ゆっくりと歌い始めた。

 

 

 

                       『川の流れのように

 

                                                      歌 : 美空ひばり

                                                   作詞 : 秋元康

 

知らず 知らず、歩いてきた。

細く長い、この道。

振り返れば遥か遠く、ふるさとが見える。

 

でこぼこ道や、曲がりくねった道。

地図さえない。それもまた、人生。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかに、幾つも時代は過ぎて

 

ああ、川の流れのように

とめどなく、空が黄昏に染まるだけ。

 

 

ママが1番を歌い終わった時点で、

店内は盛大な拍手に包まれた。

中には涙を流す常連のおじさんもいた。

彼女の圧倒的な歌唱力もさることながら、

その歌声は純粋で、まっすぐで、

曇りなき響きの美しさは

それだけで人の心を打つものだった。

店内を包みこむ温かな拍手は、

歌の間奏でも、鳴り止むことはなかった。

 

 

                         〜   2番  〜

 

生きることは、旅すること。

終わりのないこの道。

愛する人、そばに連れて、夢さがしながら。

 

雨に降られて、ぬかるんだ道でも

いつかはまた、晴れる日が来るから。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかにこの身を任せていたい。

 

ああ、川の流れのように

移りゆく季節、雪解けを待ちながら。

 

ああ、川の流れのように

ゆるやかにこの身を任せていたい。

 

ああ、川の流れのように

いつまでも青いせせらぎを聞きながら。

 

 

店内を満たす、

割れんばかりの拍手に包まれながら、

ママが少しの間、目を閉じたかと思うと、

彼女の頬を、涙がひとすじ、キラッと流れた。

 

『皆さん、今年は本当にありがとう。

      来年も、どうぞよろしく。』

 

彼女はそれだけを静かに言って、マイクを置いた。

 

店の照明がほんわりと明るくなる。

これが今年の『お開き』だと、

客の誰もが素直に受け取った。

 

常連客たちは、ぞろぞろと

コートやマフラーを手に取り、

玄関でママと一言、あいさつを交わしてから

歌舞伎町の冬空の下へと帰っていった。

 

客が全員帰った店内で、

私とママの2人だけになった。

 

ママ『りょうちゃん。』

私『なに?』

ママ『ありがとう。』

私『いいんだよ。お代は要らない。』

ママ『タダでお酒飲んでるくせに』

私『またそうやって嫌味ばっかり言って、』

ママ『今日はどうするの?またウチ泊まる?』

私『いや、今日は帰るよ。』

ママ『あら、終電はもうないのよ?』

私『この辺に住んでる知り合いも多いから、

      今日はそこに泊めてもらう。大丈夫。』

ママ『あらやだ、若い子のところでしょ?』

私『そう。こう見えて俺、結構モテるのよ?』

ママ『あっそ、』

 

私は明るくウソをついた。

彼女はそっけなく、私に背を向けると

ボトル棚の方に居直った。

新たな居場所を得た『ブースカ』も

そこで、にんまり笑っていた。

 

私『寂しい?』

ママ『全然』

私『じゃあ、行くね。』

ママ『…。』

 

私はコートを羽織って、マフラーを巻いた。

ボトル棚の方を向いたまま動かない、

彼女の長い後ろ髪をちらりと横目で見て、

店のドアをカランッと開ける。

 

でも、どうしても気になって、

またママの方を振り返ってしまった。

 

彼女もやっぱり、私の方を見てくれていた。

 

よかった、笑ってた。

 

きっとこれが本当の、

ミッキーに見せていた顔だ。

 

私『また、来てもいいでしょ?』

ママ『ええ、お待ちしてます。』

私『それじゃ、ママ…色々とありがと』

ママ『うん、りょうちゃんありがとう。本当に。』

 

最後にそう言って、私たちは別れた。

黒いロングコートの私は、

襟を立てて首をすぼめ、

年末で騒がしく活気付く、

夜の歌舞伎町をひとり歩いていった。

 

街には沢山の人がいる。

その一人一人に、忘れられない誰かがいて、

その一人一人に、そばにいてくれる人がいる。

 

この新宿 歌舞伎町だけが、

ヒューマンドラマの舞台ではない。

この街は、それを少し、

分かりやすくしてくれるだけ。

 

東京の空は一段と高く見えた。

 

私の大好きだった、

ミッキーへの恩返しが、終わった。

 

彼がかつて愛した女への、

私なりの奉公が終わった。

 

今日から私は、ただの男に戻ろう

そして今日から彼女も、ただの女。

 

歌舞伎町の冬空を見上げて歩きながら、

私はポツリと、そう、呟いた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終わりーーー