聖帝さまの小話

基本、思い出。

『渓流』

 

東北地方を縦断する奥羽山脈の北の果て、

青森、秋田にまたがる白神山地の奥深く。

 

ブナの原生林の中を渓流が流れる。

これは、その奥入瀬(おいらせ)渓流に生きた、

一匹の魚のお話。

 

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今日もイワナ(岩魚)は、

水の中から水面を見上げ、

自分の姿を見ては、嫌な気持ちになっていた。

 

平たい口に、上へ向いた目、

三角形の寸胴な身体。どんよりした体色。

 

梅雨明けのからりとした光の中を

渓流は勢いよく流れていく。

上流の激しい水の流れは、

水面に映る彼の姿を歪めて

一層醜くして彼に見せた。

 

彼はいつも、それを見ると頭を抱え、

尻尾で川底の泥を巻き上げて辺りの水を濁し、

水面が見えないようにした。

 

イワナは川の上流で流れが激しく、

ゴツゴツとした大きな石がある場所を

自分の住みかにしていた。

決して住みやすい場所ではない。

それでも彼は、岩の間を流れる

上流の綺麗な水が好きだった。

 

彼は美しいものが好きだった。

彼は誰より、美しいものを愛する心を持っていた。

 

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『ヤマメ(山女魚)のようになりたい。』

 

彼はいつもそう思っていた。

広い渓流を、あんなに美しい色の身体で、

まるで空を飛ぶように泳いで、

たまにヒラリと身を翻し、

銀色の腹部をキラッと水面に光らせる。

それが彼の夢だった。

 

彼はいつも川の上流から、

ゴツゴツとした岩場に隠れて、

ヤマメの美しい泳ぎを

羨ましそうに眺めているばかりだった。

 

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そんな彼にも唯一の楽しみがあった。

 

たまに水面からぴょんと跳ねて岩の上に登り、

緑色に苔の生えたフカフカの岩の上で、

外の景色を見るのが好きだった。

こういう時だけは、

彼の平たい腹が役に立った。

水の中にいる時は見えなかったものが、

ここに来るとよく見えた。

 

キラキラとした水の流れ、

浮かんではすぐ消える小さな泡、

川岸に生えた山菜や、鮮やかな色をした花々、

ふと遠くに目をやると、

大きなブナの木が、風に枝を揺らしながら

抜けるように青い初夏の空へと伸びている。

 

彼は目を閉じて、渓流の『音』を聞く。

木々の葉っぱが擦れ合う音、

水が岩に当たってはじける音、

どこかで美しい鳥の声が

森の主旋律を奏でている。

そうして、この渓流全体が

調和を持って生きていることを彼に知らせた。

 

彼のように平たい腹を持たない魚たちは、

岩に登ってこの景色を見ることはできない。

彼は岩の上でこうしている時だけ、

『もしかすると、自分の人生も、

悪いものではないのかもしれない。』と思えた。

 

しかし、いつも時間が経つと

エラの動きが速くなる。

だんだん息が荒くなってくる。

ぬめり気のあるはずの自分の肌が乾いてゆく、

 

『これはいけない』と思い、

水の中へザブンと飛び込む。

 

心地よい、彼が大好きな上流の冷たい水だ。

彼は冷たい水の中へ戻って身体を慣らすと

いつも岩場の陰で目を閉じながら、

先ほど、苔の生えた岩の上で感じた

渓流の美しさを、味わうように思い出していた。

 

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ある日のこと、

彼はいつものように、

カフカの苔が生えた岩の上に登って

渓流の美しさに見とれていた。

 

すると彼は、

遠くに見える中流の方に何かを見つけた。

いつもは見たことのないものである。

川岸の砂利を踏んで

ザッザッ、という音を立てながら

だれかが近づいてくる。

手には、長い棒を持っていて

その先から垂れる透明の細い糸がキラっと光った。

 

彼は少しの間、口をポカンと開けていたが、

すぐに状況を把握して

ゴクッ、と唾を飲み込んだ。

 

『釣り人だ…。』

 

この渓流に、釣り人が来たのである。

イワナは急いで水の中へザブンと飛び込んだ。

 

彼は大変なものを見てしまったと思い、

この辺りでは1番大きな岩の下に隠れて、

目を閉じてブルブルと震えていた。

 

『間違いない、あれは釣り人だ。

ついにこの渓流にも釣り人が来たんだ…。

今日、この川で誰かが釣られて、死んでしまう。』

 

彼はその日ばかりは

たとえどんなに美味そうな羽虫が

流れてきたとしても、

絶対に口を付けないと固く誓った。

 

『そうだ、今日は何も食べなければいいだけだ。

   とにかくそれだけ守れば、釣られなくて済む。』

 

彼がそう自分に言い聞かせて、

ほんの少しの安堵を手に入れたのも束の間、

『ヤマメ』達の事が気になった。

 

岩の上の景色を知らないヤマメは、

今日起こっている、この事実を知らない。

 

『ヤマメ達にも知らせなくては…』

 

彼はプクプクっと泡を吐いて、

川の下にいるヤマメ達に

『釣り人が来た』と

知らせようとしたのだが、

流れが激しい上流からでは、

その泡はすぐに岩に当たって消えてしまった。

 

『どうしよう…』

 

彼は迷っていた。

川の上流から中流へ下るのは、

泳ぎの苦手な彼にとって容易なことではない。

それに、水の温度も中流になれば高くなるし、

プランクトンの量だって、全然違う。

イワナである彼にとって、この川下りは

『死』を覚悟しなければならなかった。

 

『でも知らせなきゃ…』

彼は誰より美しい水を好んでいたのと同時に

誰より、美しいものを愛していた。

 

彼はヤマメの美しい泳ぎを、心から愛していた。

 

『よし…。』

 

彼は上流の冷たい水を名残惜しそうに

腹一杯に吸い込むと、

中流へと続く、この辺りでは1番大きい岩を

目一杯の力で飛び越えた。

 

彼は自分の美しさに気付いていない。

 

死の恐怖を退けた彼は、

その身体に初夏の光を宿して、

渓流の空の中でキラリと光った。

 

彼の人生を賭けた、決死の川下りが始まった。

 

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慣れない川の流れに押され、

何度も尖った岩にぶつかった。

 

途中で美味しそうな羽虫の死骸が

プカプカ浮いているのを見つけた。

彼はこれはありがたいと、口を大きく開けて

思わずバクッと食べてしまいそうになったが、

すんでの所で釣り人の姿が頭をよぎり、

なんとか踏みとどまった。

 

激しく泳いでいるせいか

中流の水質が合わないせいか、

彼のエラの動きはどんどん速くなってくる。

どうやら、そう長くは持たないらしい。

 

彼は傷だらけになりながら、

薄れゆく朦朧とした意識の中で、

やっとヤマメのいる中流へと辿り着いた。

 

彼は一匹のヤマメを見つけると、

息も絶え絶えに、

この辺りに釣り人が居る旨を伝えた。

 

それを聞いた伝令係のヤマメはすぐに

ヒラリと身を翻し、

矢のような速さで、

仲間たちの元へと泳いで行った。

 

『よかった…これでみんな大丈夫…、』

 

ふいに安堵と達成感が込み上げてくる。

同時に、傷ついたその身体を

自分ではどうにもならないほどの疲労感が襲った。

 

彼は少しの間、眠ることにした。

 

川幅の広い中流を、

白い腹部を上にしてプカプカと浮きながら

中流をさらに下へ下へと、

彼は流れて行った。

 

どれくらい流されたのだろう。

気付くと彼は、川岸に落ちていた

折れたブナの枝に引っかかって

そのまま川岸の砂利に打ち上げられていた。

 

『ああ、体が乾いていく…』

 

そう思っても、

彼にはもう動く力が残っていない。

最後にもう一度だけ、

あの冷たい上流の水を飲みたかった。

彼はそっと目を閉じて、

自分の大好きだった、

あの故郷の水の流れを思い出していた。

 

彼の命は、あと数分もないように思われた。

 

すると、また遠くから

ザッザッと砂利を踏む音が聞こえる。

その音は彼の前で立ち止まり、

力無く倒れている彼の身体に大きな影を落とした。

 

『じゃ!なにしてこっただ下の方さ

   イワナっこ居だってや!?』

(おや!どうしてこんな下流イワナがいるんだ?)

 

釣り人は、驚いた様子で

彼の傷だらけの身体を眺めた。

 

釣り人は、口をパクパクさせながら倒れている

彼の身体に手を伸ばしてそっとすくい上げると

 

『まんずおめも、

  慣れねぇとご泳がされでむじぇかったえ?』

(しかしお前も、慣れないところを泳がされて

苦しかったろう?)

 

と彼に向かって慈しむように呟いた。

 

死が近づいた彼は、ぼーっとした頭で

『人間も、そう悪いものではないのかもな』

と、素直にそう思った。

 

釣り人は彼を持ち上げて辺りを見回して、

ブナの枝が垂れ下がって木陰になっている、

この辺りでは1番涼しそうな淵へ、

ポンっと彼を放りなげてやった。

 

その瞬間、

きっとそれは、時間にして1秒もなかったろう。

初夏の光がキラキラと光る渓流の空を、

ほんの一瞬ではあったが、

彼は確かに渓流の空を泳いだ。

 

ザブンッと水しぶきを上げると、

彼はそのまま、

木陰のかかった涼しい小淵に身を沈めた。

 

涼やかな心地よい水が彼の身体を包む。

 

『ここにも、こんなに綺麗な水があったんだ…』

 

彼は暗い水の底に沈みながら、

大嫌いだったはずの水面を見つめる。

中流の穏やかな水面は、上流とは違い、

彼の姿を歪めることなく、そのまま映し出した。

 

それを見た彼は、

『自分の人生も、そう悪いものではなかった。』と、心から思った。

 

彼は暗く涼しい川底で、

最後の美しいひと時と戯れたあと、

そっと目を閉じた。

 

川岸の釣り人はそれを見て、

まるで何かを感じたようにしゃがみ込み、

川でジャブジャブと手を洗うと、

 

『今日はさっぱど釣れねがったじゃい、

   もう、家さ帰るとすっぺし。』

(今日はさっぱり釣れなかったな、

もう家に帰るとするかね。)

 

そう呟いて、釣竿をたたみ

川岸の道を、里の方へ帰っていった。

 

東北地方、奥羽山脈の北の果て、

緑がうっそうと生い茂る白神山地の奥深く、

 

ブナの原生林は梅雨明けの雨露を

初夏の光にキラキラと揺らしながら、

遠くから吹く涼やかな山風を、

渓流へと運んでいた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終わりーーー

 

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