聖帝さまの小話

基本、思い出。

『ねぇ千秋』

 

ホテルの外は雨が降っているらしい。

ベッドシーツに裸のまま寝転がり、

左手のタバコに火をつける。

ゆらゆらと立ち上がる白い煙は、

私の身体を過ぎて窓の方へ流れていく。

 

ホテルの部屋で吸うタバコは、

いつも苦い背徳の味がする。

 

その白い煙の向こうでは、

千秋が下着も付けないで

裸のままペットボトルの水を飲んでいた。

 

ホテルの窓からは青白い月が見えて、

その光が梅雨のムワッとした

重たい熱気に差し込んでいる。

 

レースのカーテンから漏れる月の光が、

彼女のツンと膨らんだ乳房を照らしていた。

 

どこまでもサラサラに洗濯された

ホテルのベッドシーツは、私たちの汗で

そこだけ雨が降ったように湿っている。

 

私はベッドの上から、彼女に話しかける。

 

私『ねぇ千秋』

 

千秋『ん?なに?』

 

私『俺さっき、夢を見たんだよ』

 

千秋『そう、』

 

私『狭くて暗い部屋でさ、千秋が泣いてたんだ。

      あれは、あんたがまだ小さい頃だったと思う。』

 

千秋『やめてよ、そんな夢の話。』

 

私『それでね?うまく思い出せないんだけど、

       黒い影の男がいたんだ…背が低くて、』

 

千秋『もう!やめてってば!』

 

突然、彼女は声を荒げて

持っていた空のペットボトルを私に投げつけた。

いつもクールな彼女らしくないと思った。

 

ペットボトルに少しだけ残っていた水が、

シーツに滴って、なんだか泣いてるように見えた。

 

千秋『私も見たの、夢。』

 

私『え?どんな夢?まさか同じ夢とか?

       なんだか不思議だね、』

 

千秋『違うの。もっと不思議なの。』

 

私『…どういうこと?』

 

千秋『『あなたの夢』を見たのよ。』

 

私『俺の夢?どういう事?』

 

千秋『……』

 

歌舞伎町の汚れを洗い流すかのように、

雨の音だけが、この部屋に響いていた。

 

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2019年、6月某日。

 

今年の梅雨は、

連日の真夏日が続いていた。

 

梅雨の西陽に照らされる電車内は

かなり冷房が効いているはずなのだが、

それでもまだ暑い。

私は紺色のジャケットを脱いで、

長袖のシャツ一枚になると、

汗ばんだ首元をパタパタしながら

新宿へと向かう総武線に揺られていた。

 

大都会『新宿』はいつものように

人の群れでごった返していた。

 

JR 新宿駅 東口改札

 

6月とは思えない暑さに、

街を歩く若い女性たちは

春とも夏ともつかない服装で

新宿ルミネエストの中へ歩いて行く。

 

服装の自由がきかない

汗だくの中年サラリーマン達は

グレーのハンカチで額の脂汗を拭きながら、

公害さながらの臭気をまとって

改札の中へ吸い込まれていく。

 

少し耳を広げると、

どこかで中国人家族の大きな声が聞こえる。

あれは怒鳴っているのだろうか、

それともあれが、彼らの普通なのだろうか。

 

とにかく新宿は不快指数の高い街である。

丸の内や日比谷、青山はこうではない。

 

誰かが言った、

 

『新宿はどんな人間も拒まない』

 

金持ちも貧乏人も、容姿の美醜も問わない。

ホストも風俗嬢もいれば、オカマもゲイもいる。

騙す奴がいれば、騙される奴もいる。

 

確かにそうだ、この街は誰も排除しない。

同時にそれこそが、

この街の功罪そのものだろう。

 

かくいう私も、

新宿のそんな部分を便利に愛しているし

また、しばしば助けられてもいる。

 

待ち合わせの時間が迫っていた。

今日の相手は時間にうるさい。

遅刻すると少々、面倒なことを言われそうなので

私は足早に新宿東口交番前を

歌舞伎町方面へまっすぐ進み、

新宿大ガード近くの珈琲店に入った。

 

待ち合わせの時間には間に合った。

あと2分はある、

制服を着た若い女性の店員に

『禁煙、喫煙どちらになさいますか?』

と聞かれ、私は迷ってしまった。

 

今日は、彼女はどちらを選ぶだろう。

 

少し迷って喫煙席に通してもらった。

 

2人がけのテーブルにガラス窓を背にして座る。

すぐに先ほどの店員に注文を聞かれたので、

メニューも見ずにアイスコーヒーを頼んだ。

 

タバコに火をつけながら辺りを見回すと、

19時前の店内には、

先ほど化粧を直したであろう仕事帰りのOLや、

やたら声の大きな大学生たちが目立った。

 

考えてみれば今日は金曜の夜だ。

この後、新宿で飲み会でもあるのだろう。

 

私がテーブルで煙を燻らせながら

アイスコーヒーを待っていると、

ふいに、さっきまで大声で話していた

学生たちの声がピタリと止まった。

 

階段をのぼってくるヒールの音が聞こえる。

ウェーブがかったダークブラウンのロングヘア

こちらがちょっと恥ずかしくなるぐらい

丈の短いオフホワイトのドレスワンピには

ピンクベージュのビジューがあしらってある。

新宿に照りつける西陽を

彼女の両耳にぶら下がった真珠が反射して、

キラッと光る。

 

時間ぴったり、

『千秋』が来た。

 

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私が彼女に向かって合図を送ると、

彼女はすぐに気づいてこちらに歩いてきた。

 

静まり返った大学生のグループは

通り過ぎる千秋の姿をまじまじと見つめている。

 

彼女は席に着くと、

おしぼりをうちわがわりにパタパタとさせて

『暑いわね、待った?』と私に聞くので

『うーんちょっとだけね、2分待った。』と答えた。

 

『待った』と言ってもほんの2分である。

この程度、待ったうちには入らない。

 

自分でも、なぜそう言ったかよく分からない。

『全然待ってないよ』

今からデートをする男女にとっては、

普通に考えたらこう答えるのが定番だ。

馬鹿正直に2分待ったと答える方がおかしい。

頭では分かっているのに、

それでも私は『2分待った』と言った。

 

もしかして、自分でも気付かないうちに

彼女の前では正直であろうとしているのかも、

ふと、そんな他愛もない事を思った。

 

彼女はアイスティーを頼むと、

肩にかけていたジミーチュウの

小さなカバンの中から

薄いタバコの箱を取り出す。

 

私『今日はどう?喫煙席でよかった?』

千秋『そうね、この後も別に仕事とかないから』

 

私は彼女のタバコ入れに手を伸ばすと、

黒いジッポライターを取り出し、

ダイヤルを回して火をつけた。

 

千秋『ありがと』

 

彼女が顔を近づけて、タバコに火をつける。

 

かすかにイチジクのフレーバーが香る煙は、

彼女の後方のテーブルにいる

大学生グループの席へと流れて行く。

 

千秋『あっそうそう、はいこれ』

私『なに?もしかして誕生日プレゼント?』

千秋『そう、伊勢丹の』

私『あんた本当に伊勢丹好きだねぇ、ありがと。』

千秋『今日ちょうど買い物したついでにね、

          ねぇ、開けてみて?』

 

紙袋から細長い箱を取り出す。

中にはネクタイが入っていた。

紺地に紫の、光沢があるダマスク柄、

 

私『さすが、俺の趣味よく分かってるね』

千秋『これで完璧でしょ?』

私『そう、完璧。

     俺も今日はネクタイ締めてこなかったよ。』

千秋『なに?私が買うって思ってたから?』

私『それは流石に偶然だけどね、』

 

私はネクタイを取り出しながら

どこかに値札がないか探す。

プレゼント用なので、当然取り除かれてる。

さすが、抜かりがない。

 

私『じゃあ、トイレで付けてこようかな』

千秋『ついでに髪でも直してきたら?』

私『え?髪?』

 

私が目線を上にやると、

前髪が1束だけ、びょんと前に倒れていた。

 

自分のアイスコーヒーを飲み干し、

ネクタイを持って奥の化粧室へ向かう。

 

洗面台の鏡の前で、シャツの襟を立て

貰った紫のネクタイを締める。

今日の濃いネイビーのジャケットにもよく合う。

そのついでに前髪も直す。

これでバッチリ、キマッた。

 

今日は彼女との楽しい夜になるはず。

それは確かにそうなのだが、

何故か、不安なのだ。

 

今夜、私と彼女の何かが変わってしまう気がする。

 

私は少しの間、鏡の自分を見ながら

『今日は俺たち、どうなるんだろう…』と呟いた。

 

その理由が何なのかは自分でも分からないが、

私の心のずっと深いところで、

何かが静かに、さざ波を立てていた。

 

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トイレを出て席に戻ると、

彼女はタバコ片手に足を組んで席に座り、

誰かに電話を掛けているようだった。

 

不意に彼女の短いワンピースと生脚に目がいく、

 

女という生き物は、恥ずかしくないのだろうか。

男だったらとてもじゃないが、

恥ずかしくて、そんな風に肌を出せない。

まず男と女を同じに考えること自体、

間違っているのかもしれない。

 

私は黙って席に座り、

自分のタバコを一本取り出しておいて

火は、まだ付けないでおいた。

 

彼女は電話を切ると

『お店の予約取れたよ』と明るい声で私に言う。

 

言い忘れていたが、

今日は私の誕生日のお祝いである。

 

私『今日は高いお店連れてってくれるんでしょ?』

千秋『そんなに高くはないけど、

          今日はね。割烹料理のお店、いいでしょ?』

私『へぇ、割烹料理?珍しいね』

千秋『誕生祝いなんだから、

          なんか変わったことしないとね。』

私『何時から?』

千秋『19時30分、もうすぐね』

私『じゃあ、もう出ていい頃だね。』

 

私は黙って、取り出したタバコを箱にしまった。

 

普通、こうやって何かを祝われる時などは、

店の名前でも聞こうものなら、

嘘でも大げさに喜んだりするものなのだが、

私はそういうことはしない。

彼女も比較的、似たようなところがある。

 

無論、嬉しくないわけではない。

でもわざとらしく喜んだりはしない。

無理にありがとう、とも言わない。

お互いに無頓着を装って、クールにやり過ごす。

そうしないと、私たちの間にある

何かが壊れてしまいそうで不安なのだ。

 

それが人との付き合い方として正しいのか、

正直それは分からない。

でも私と千秋は長い間、

そうやってお互いと付き合ってきた。

あるいは自分自身に対しても。

 

千秋は『じゃあ行こっか』と言って、

灰皿でタバコを消して席を立った。

 

私もスマホを胸ポケットにしまって席を立つ、

 

千秋は元から背の高い女だが、

今日は一段と高いヒールを履いているらしく、

私と並んでも、さほど変わらないように見えた。

 

茶店の急な階段で、

ふと千秋のことが心配になって振り返る。

ハイヒールの彼女は手すりを掴んで、

身体を少し斜めにして降りてきた。

 

私が『大丈夫?』と聞くと

彼女は『大丈夫』と答えた。

 

階段の下から見上げると、

彼女の白い太ももが見えた。

パンツも見えるかな?と思ったが見えなかった。

 

それでふと思い出したのだが、

彼女の右腰には薔薇のようなタトゥーがある。

 

6月のむっとした空気が

新宿の路地裏を吹き抜ける。

 

彼女と初めて会った夜も、

確かこんな風に蒸し暑い夜だった。

 

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今から6年前の2013年 夏 渋谷

 

あれは私がまだ大学一年生で19歳の頃。

巷では脱法ハーブが流行っていて、

当時の渋谷では、クラブはもちろん

居酒屋の個室、カラオケボックスなどで

若者達が毎晩、それに興じていた。

 

道玄坂やセンター街では毎晩のように

どこかの大学生が酒とドラッグで倒れ、

救急車はサイレンを鳴らし、

警察が事情聴取しているというのが日常茶飯事で、

それこそが私にとっての渋谷の原風景だった。

 

その頃、ナイトクラブの入場規制は

今とは比べ物にならないほど緩く、

当時19歳だった私は、なんの不思議もなく

夜の社交場に出入りすることが出来た。

 

atom』『vision』『womb』

そして『T2』(現在のTK)

渋谷のクラブは数え挙げればきりがないが、

大きくはこの4つ、

私は比較的、センター街地下の

『T 2』に行くことが多かった。

 

地下にある暗い店内は、

腹を打つような重低音のビートに合わせて、

『大人』達が男女入り乱れ、

色とりどりの酒が入った小瓶を片手に踊っていた。

もくもくとタバコの煙が立ち上がり

それがライブ会場でいうところの

スモークの役割を果たして

クラブ内を走る極彩色のビームライトを

より一層鮮やかに映し出した。

 

レディーガガ、テイラースイフトマルーン5

終電前の渋谷のクラブはどこも

これらのゴールデンチューンを流して

若者達を一晩の色恋へと誘い、

あの街の誰もが、その要請に応えていた。

 

私はその日、少し思うことがあって

一緒にいた大学の友人達が帰った後、

誰にも話しかけずに1人で奥のソファーに座り、

テキーラとビールを交互に煽っていた。

 

おそらく、あの場にいた者の半数近くは

法の合否を問わず、

何かしらのドラッグに興じていたと思う。

トイレの個室を開ければ、

誰かがドラッグセックスに興じている。

そんな時代だった。

 

突然、向こうから凄い勢いで

ハイヒールが飛んできた。

あわや目を直撃しようかというその放物線は

少しそれて、私の額を直撃した。

 

ペタペタと裸足の女が歩いてくる。

彼女は私の膝の上に腰掛けると、

私の耳元に口を寄せ、話しかけてきた。

 

『ごめんね?痛かった?ねぇあんた何才?』

と聞かれたので

私は正直に『19』と答えた。

 

女『え?19!なんだ、まだ赤ちゃんじゃない!』

 

彼女は自分の方が年上だと分かって

気が大きくなったのか、私の肩に手を回してきた。

 

丈の短いワインレッドの

タイトなワンピースを着た、

香水の匂いをムンムンと振りまく都会の女。

でも何故か、懐かしい感じのする女だった。

 

彼女が図々しく、

『ねぇタバコ一本ちょうだい?』というので、

仕方なく2人で吸った。

 

女『あんたセブンスターなんて吸ってんの?

      たぶん、早死にするわよ。』

 

もらいタバコしておいて、図々しい女だ。

と私が呆れた瞬間

彼女は私のテキーラを手にとって口に含むと、

勢いよく口移しで私の口に流し込んできた。

 

私があっけにとられて彼女を見つめていると、

彼女は顔を私に近づけたまま、

諭すような声で言う。

 

『あんたね、眼が赤ちゃんなのよ。

   そう、そうやって何でも見ちゃうの。

    良いものも悪いものも、何にも考えないで。

    目の前にあるものぜーんぶ見て、

    そして吸収しようとしちゃってるの。

    自分では大したことないよって

    ポーカーフェイス気取ってるけど、

    心の中では、ちゃんと傷付いてるのよ。』

 

彼女は私の胸に手を当てる。

白くて華奢な手、人差し指のネイルが欠けて

少し血が出ている。

 

彼女はかなり酒に飲まれているようだが、

言うことだけは冴えていた。

 

唐突に、彼女はその白い手で

私の顔をぐしゃぐしゃにした。

私の口からこぼれたテキーラと混ざって、

彼女の手からなんとも言えない、

女のいい匂いがした。

俗に『いい女の匂い』ともいう。

それが新宿にある伊勢丹百貨店の

化粧品売り場の匂いだと分かったのは、

それから何年も後のことだ。

 

いつのまにか彼女は私にまたがるように座り、

私の顔や髪をもみくちゃにしながら、

キスまでし始めた。

 

大股を開いた彼女の短いスカートはめくれ上がり

ほとんどパンツまで見えてしまっている。

 

すると、彼女の右のふとももの辺りに、

花の絵のようなタトゥーを見つけた。

私がそれをじっと見つめる。

 

『なに?気になるの?』と彼女に聞かれたので

『うん、』と答える。

 

彼女は少し困ったような顔をして

『見なかったことにして?』と囁いた。

 

だから私も、それ以上詳しくは聞かなかった

 

私が『もう片方の靴は?どうしたの?』と聞いて、

ビームライトが走るクラブ内を2人で探した。

 

思えばあの頃の渋谷は、何か変だった。

私や彼女を含めた渋谷の若者達は

そんな都会の狂乱の真ん中で、

人間でも獣でもない『何か』になろうと、

閃光と爆音の中に、両手をかざしていた。

 

その夜、私は初めてタトゥーのある女と

渋谷の安いホテルでセックスをした。

 

いま思い返せば、

千秋とあんなに眼を合わせて向き合ったのも

あの夜だけだったように思う。

 

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ずっと昔の事を思い出してしまった。

最近、こういうことが多いように思う。

 

私たちが珈琲屋の階段を降りると、

あたりはすっかり暗くなっていた。

 

新宿通りのタクシーは赤いランプを灯して

飛ぶように走り抜けていく。

 

ビックカメラやマルイのビルは

梅雨の夜空に巨大な光の塔となってそびえ立ち、

地上では風俗や居酒屋の客引きが

形式化された文句と決まりきったトーンで、

道行く大衆の足をとめている。

 

あたりはすっかり、我々の慣れ親しんだ

夜の新宿を演出していた。

 

私たちは予約していた

割烹『中嶋』へと向かうことにした。

 

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店内に入ると

少し柔らかにオレンジがかった

明るい木材のL字カウンターがあり、

その向こうが調理場。

カウンター席と調理場は、

大きなガラスで仕切られてある。

 

さすが、名のある割烹だけあって

掃除が行き届いている。

目の前の大きなガラスを見渡しても、

水垢ひとつ見当たらない。

 

瓶ビールを注文して乾杯する。

グラスも上品な大きさ。

表面を磨きあげたかのような徹底洗浄で

サッポロ黒ラベルの星まで輝いて見える。

 

お通しで出された

『鱧(はも)の煮こごり』をつまみながら

 

彼女が先に口を開いた。

 

千秋『あっ、お誕生日おめでとう』

私『ありがとう。まだちょっと先だけどね』

千秋『いつなの?』

私『20日

千秋『なんだ、じゃあまだ24歳?』

私『そうだね。あと少しで25歳。』

千秋『まだまだ、赤ちゃんね』

私『そういうあんたは?何歳なの?』

千秋『教えない。』

 

実のところ、私は彼女の年齢を知らない。

おそらく2つか3つ上だと

何となくアタリは付いているが

正確なところはよくわかっていない。

そして不思議と、その事を彼女に

突き詰めて聞こうとも思わなかった。

 

互いの関係をできるだけ曖昧にしておきたい、

私と千秋がよくやる距離の取り方だ。

 

私『この煮こごり、美味しいね』

千秋『そう?ここは天ぷらも美味しいの。』

 

千秋はこの店の常連らしく、

ほとんどメニューを見ないで注文していた。

 

私『知り合ってから、もうかなり長いよね。』

千秋『そうね、もう5、6年は経つ?』

私『そう、そのぐらいだね。

       あのさ、初めて会った時のこと覚えてる?』

千秋『ごめん悪いけど覚えてないわ。最近はもう、

          1週間前のことだって忘れちゃうから。』

 

千秋はそう言ってビールグラスに逃げた。

頭のいい彼女のことだ、覚えてないはずがない。

でも確かに、その日の出来事に関しては

私も恥ずかしいので、その話はやめておいた。

 

私『そう、こないだ部屋を掃除してたらさ

       面白いもの見つけたんだ。ちょっと見てよ。』

千秋『なに?』

 

私は財布の中から、一枚のコインを取り出した。

大きさは500円玉ぐらいで、

裏面には『双頭の鷲』があしらってある。

 

千秋『なにこれ、外国のお金?』

私『そう、ルーブル。ロシアの貨幣だよ。』

千秋『へぇー、初めて見た』

私『昔ね、ナスタが部屋に置いてったんだ。』

千秋『あぁ、ナスタ。あの子ね』

私『なんだよ白々しいな、

       何回か一緒に飲みにも行ったろ?』

千秋『そうだっけ、あんまり覚えてない

          あの子、ロシアで元気にしてるの?』

私『この前、手紙書いたんだけどね。

      まだ返事は来ないんだ。』

千秋『ふーん』

 

 

『ナスタ』とは、

当時、四ツ谷にあった私の部屋に

一時期、居候していたロシア人の女性である。

本名は確か

『ナスティア=リュキーニシュナ=ヴォルチコワ』

そんな感じの長い名前で、略してナスタである。

 

私は最初、上海で彼女と出会って、

それから何年かした後、

たまたま日本に来ていた彼女と再び知り合った。

 

当時、彼女は日本に家がなかったようなので

しばらく私の部屋に泊めて、

面倒を見たりしていた。

その後、日本での生活に慣れた彼女は

歌舞伎町で我々の仲間の一人として

過ごすことになるのだが、

突然、仲間の輪に飛び込んできたナスタを

千秋はあまり心良くは思っていないようだった。

 

2017年の春、

彼女は突然、ロシアへと帰っていった。

   

         ブログ   『ウラジヴォストクのナスタ』を参照

 

割烹着の女性店員が私たちのテーブルに

あんこうの唐揚げ』を運んできた。

 

千秋『そうそう、これも美味しいの!』

私『あんこうって冬のイメージだけどな』

千秋『この時期が一番美味しい

         あんこうだっているのよ。知らないけど、』

 

千秋は女性にしてはよく食べる方で、

彼女のキツい性格の割には、

食べ物の好き嫌いもない。

 

大根おろしと生姜をのせて食べる

あんこうの唐揚げは確かに美味しかった。

 

その後も次々に運ばれてくる料理は、

一品一品どれも唸るように美味しくて

瓶ビールも2人で4、5本飲んで、

お互い、酔いが回ってきたように思った。

 

千秋は焼酎『青鹿毛(あおかげ)』を

頼むと言ったので、私もそれに合わせた。

 

私『なんか最近、大切な人に限って

       俺達から離れていっちゃう気がするんだ、

       ナスタもそうだし、松田もバイク事故で…』

千秋『そうね、確かに。

         あなたにとってはミッキーもそうね。』

私『あぁ、そうか、千秋も一回だけ

      ミッキーに会ったことあるんだもんね。』

千秋『変な人だったなーってイメージしかない。』

私『まぁ、あながち間違ってはいないけど』

 

『ミッキー』とは、私が田舎から上京してから

ずっと歌舞伎町で私の面倒を見てくれていたゲイで

東京での父のような存在だった。

2014年の年末、彼は風呂場でヒートショックを

引き起こしてそのまま死んだ。

 

それが事故死なのか自殺なのかは

今となっては誰にも分からない。

         

                     ブログ『グッデイ・グッバイ』を参照

 

土瓶に入った肉豆腐は、

最初はとても美味しかったのだが、

時間が経ったせいか、

今は牛脂が、つゆの表面に浮かんできている。

 

カウンターの向こうに見える厨房の

大きな鍋から湯気が立ち上り、

割烹着を来た料理人が長い木の棒で、

そうめんをすくい上げているのが見えた。

白くて細い、絹のような束は

店の柔らかいオレンジの照明に反射して、

黄金色に輝いて見えた。

 

私は焼酎の入ったグラスを傾けながら、

 

私『ナスタの髪も、あんな感じだったね。』

千秋『やめてよ、せっかくシメで頼んだのに

              食べづらくなるでしょ?』

 

私はそのまま、厨房の奥で湯気を巻き上げる

優しいナスタの面影を見つめた。

 

 

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                       〜ナスタへの手紙〜

 

『ナスタ、久しぶり。元気にしてますか?

   今年の日本は6月なのに雨も降らないで、

   夏みたいに暑いよ。

   きっと、梅雨が遅れてきてるんだね。

   

   ロシアはどう?

   きっと日本よりずっと涼しいだろうね。

   君が前に見せてくれたロシアの故郷の写真。

    たまに思い出して懐かしくなるよ。

    あの時は言えなかったけど、

    遠くに見える山の形とか、木の色とか、

    家と家の間隔とか、

    俺が生まれた所にすごく良く似てるんだ。

   きっと、山から吹いてくる風も似てるんだろうね。

 

    君が新宿駅前のガードレールに腰掛けてさ、

    確か俺は、その横で缶コーヒーか何かを

    飲んでたと思うんだけど、

    東から吹いてくる風に君のブロンドの髪が

    ふわっとなびいたんだ。

    俺、その時ね?

  『あっ、黄金の風が吹いた』と思ったんだよ。

     

    それがさ、ゴージャスとかじゃ全然なくて、

    それどころか、どこか懐かしいんだ。

    柔らかい手触りでさ、

    傷ついた心にまとわりつくように

    しっとりと俺を濡らすんだよ。

 

    たまに君のことを思い出して、

    あの新宿 駅前のガードレールに座ってみるんだ。

    夕方に、缶コーヒーを開けて

    ひとりで目を閉じて東風を待つんだけど

    あの『黄金の風』は、もう吹かないんだ。

 

    (中略)

    

    ねぇナスタ、俺はどうやって死ぬと思う?

    病気かな?それならまだいいな。

    誰かに殺されるのかな、嫌だな。

    きっと俺のことだから、自殺もあるだろうね。

 

   君はむかし、俺のことを

   『優しい人』だって言ってくれたよね。

   

  今でも自分がそうだって信じてる。

  でもね、俺はたまに、

  自分が誰だかわからなくなるよ。

  自分は何をしにこの街にいて、

  誰を愛していて、誰を憎んでいて

  自分が何をしたいのかも分からないんだ。

  自分の優しさを押し通す『強さ』みたいなものが、

  もう俺には、無くなっちゃったのかもしれない。

 

  不安にさせる事ばっかり言ってごめんね。

  でもどうか安心してほしい。

 

  俺は、何も変わってはいないから。

  君もどうか、あの日のままで。

 

 

                ブログ『from Russia with love』を参照

 

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ボーッとカウンターの向こうを見つめる私を

千秋がイラついた様子で小突く、

私はそれで我に返って、

また氷で薄まった焼酎に口をつける。

どうもこの焼酎『青鹿毛』の味は苦手だ。

 

私『たまに、生きてるのが不思議な時ってない?

      なんていうか、実感がないっていうか、

       理由もないままに、空虚っていうか…』

千秋『なに?辛気くさい話?

          やめてよね、こういう所でそんな話。』

私『…そうだね、ごめん。』

 

彼女はそう言って

氷で薄くなった焼酎を飲み干すと

黒いプラダの財布からカードを取り出し、

会計を済ませた。

 

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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私たちは割烹『中嶋』を後にして

アテもなく歌舞伎町を奥に、

区役所方面へと歩いていった。

 

靖国通りの交差点で信号につかまる。

タクシーは右へ左へと走り抜け、

その奥のビル群に目をやると

ミスタードーナツカラオケ館など、

チェーン店のライトばかりが眩しく光る。

 

千秋は少し機嫌が悪いようだ。

たぶん、ナスタの話をしたからだと思う。

 

信号が青になって、私たちは歩き出す。

 

千秋『次は?どこいく?』

私『うーん、おまかせするよ。俺の金じゃないし』

千秋『あんたの誕生祝いなんだから、

          あんたが決めてよね。』

私『うーん、とりあえずHUBでさ、

      ビールでも飲みながら考えてみない?』

千秋『えー、HUB?うるさいじゃん…』

 

千秋は文句を言いながらも、

ヒールをコツコツと鳴らして私より前を歩いた。

 

区役所通りのHUBの店の前に着くと、

入り口の階段が目に留まった。

 

高いヒールを履いている彼女に

また階段を上らせてしまう、そう思った。

 

でもすぐに、そんなに紳士ぶる必要もないな。

と開き直った。

 

彼女は期待通り、

HUBの階段を大股でずんずん登っていく。

 

店内はやはり、大音量のBGMと

酔っ払った人々の声でガヤガヤと賑わっていた。

 

彼女の耳元で『俺、先に行って席とってるから』

と言い残し、ちょうど開いていた

樽で出来たテーブルの2人席に座る。

 

バーカウンターで飲み物を買う千秋を尻目に

天井から吊るされたテレビで

エンゼルスの試合を眺めていた。

 

同郷の同級生、大谷翔平

また今日もホームランを打ったらしい。

確か彼の誕生日は7月6日、

私の誕生日と半月も離れてない。

随分と差をつけられたものだと落胆する。

 

ドリンクを持ってきた千秋の姿を見て驚いた。

パイントグラス2つとタワービールを持っている。

 

私『そんなに飲むの?』

千秋『だって、あんたが何飲みたいとか、

         考えるのめんどくさかったんだもん』

 

千秋からタワービールを受け取り、

彼女のグラスに注ぐ、

タワービールの一杯目はこの時、必ずこぼれる。

これはある種、HUBでの『ご愛嬌』である。

 

彼女と再び乾杯して、

しばらくはお互いに黙って、

店内に流れるガヤガヤとした雑踏の中に、

身を任せていた。

 

彼女がタバコの箱から一本取り出して咥える。

私はライターでそれに火をつけた。

 

私も自分のタバコを咥える、

すると彼女がそれに火を付けてくれた。

 

2人の煙は混ざり合って、

茶色い木目の店内をゆらゆらとのぼり、

天井の1番暗いところまで行くと、

そこから先は見えなくなった。

 

千秋『生きてるのが不思議に感じる時

          私もあるわね、確かに』

 

私『な?千秋もあるだろ?

       生きてるなんて、誰に言われたからって

       納得するもんでもないしさ。

       だからさ、俺らたぶん実感が欲しいんだ。

       それは例えば、痛みとか罪悪感とか』

 

千秋『好きでもない男と寝たりした時なんて

          うわぁ気持ち悪いとか、そういう嫌悪感で

          最高に生きてる感覚があったりするわね。』

 

私『そうなんだよ、

      まるで痛みや嫌悪感を味わうために

      生きてるんじゃないのかってたまに思うよね。』

 

千秋『だからって、死ぬ意味も分からないの。』

 

私『そうなんだよ、だから俺、時々ふと

       あいつらを殴ってやりたい時があるんだ。

      『なんで死んだんだ!』って、

       思いっきり殴ってやりたい時があるんだ。』

 

千秋『松田なんかは、

          もう一回轢き殺してあげたい気分よ。』

 

私『ほんとだよね、』

 

気づけばタワービールはもう半分無くなっている。

さすがの千秋も少し酔っ払ってきたようで、

私の足を台がわりにヒールを乗せて

くつろいでいるのだが、これが少し痛い。

私もだいぶ酔いが回ってきたのか、

なんとか黙って耐えていた。

むしろ、朦朧としてきた意識を、

その痛みで覚ましていたのかもしれない。

 

私『ねぇ千秋、俺はね?

       とにかく、死にたくないんだよ。

       どんなに痛くても、辛くても、苦しくても、

       それでも生きていたいんだよ。』

 

千秋『うん、分かってる。』

 

私『そう、ならいいんだけど。』

 

彼女は椅子の下にある足掛け用の金具に

ヒールを叩いてカンッカンッと鳴らしている。

 

これは彼女が酔っ払ってきた合図なのだが、

それは蛇の威嚇にも似ている。

 

前から思ってた。

彼女、きっと前世は蛇なんだ。

 

愛するものを絞め殺すまで抱きしめて

動かなくなったそれを哀しい顔で丸呑みにする。

最後には、何を愛していたのかも忘れて。

 

私もいつか、丸呑みにされて

忘れられてしまうのだろうか。

 

私が『酔ってきた?』と聞くと、

彼女は、また蛇のように細い舌を

ベェーと出してごまかした。

 

その後も取り留めもない話や

収集のつかない精神的な話をしながら

タワービールをなんとか飲みきった。

 

彼女は座っていた丸椅子を私の方に寄せて、

私の右肩にもたれ掛かかると

ビールがこぼれたままの

私の太ももをさすっていた。

 

 

 

2人で席を立ち、店の玄関を抜けると、

彼女はヒールをぐらぐらさせながら、

ふらつく足で、下り階段の方へ歩いていく。

 

私が『千秋、危ないよ』と後ろから呼び止めると、

彼女はくるりとこちらに向き直り、

私の首に両腕を回してもたれるように

抱きついてきた。

 

階段前の踊り場にたむろしていた

酔っ払いの外国人グループに

囃し立てられながら、彼女を受け止め

ワイシャツ越しに彼女の胸の膨らみ感じていた。

 

『大丈夫?歩ける?』と私が聞くと

彼女は何も言わず、頷いた。

 

彼女が階段で転ばないように、

腰に手を回して身体を支えながら

ゆっくりと階段を降りた。

 

ちょうど空車のタクシーが来たので、

それに彼女と乗り込んだ。

 

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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

時刻はすでに12時を回っていた。

タクシーの車内で、

『ねぇ千秋、どうする?帰る?』と私が聞くと

『どこに?』と彼女が言う。

 

どこにも何も、家に帰るしかないだろう。

それかホテルに泊まるか、

彼女はどっちがいいだろうと考えていると突然、

 

『やっぱり降ります』と彼女が言った。

 

タクシーのドアが開く、

車内のフロントミラーの奥からは

タクシーの運転手が迷惑そうな顔で

こちらを睨んでいた。

私は『すみません』とだけ言ってタクシーを去る。

 

千秋はさっきまでの酔いが嘘のように、

歌舞伎町を奥へ奥へと進んでいく。

 

私『待ってよ千秋、

       どこか行きたいところでもあるの?』

 

彼女はそれでも何も答えず、

ヒールをぐらつかせながら、

職安通りの坂もまっすぐ進んでいく。

 

私も半ば呆れながら、

ポケットに両手を突っ込んで、

彼女の5メートルほど後ろをついて行った。

 

私『本当に、昔から勝手だよねあんたは。』

 

つい、ぽろっと出てしまった。

でも彼女は気づいていないみたいだ。

たまに『ねぇ千秋!』と呼んでも

彼女はコツコツとヒールを鳴らして歩くだけで、

こちらに返事もしない。

 

一方的に私が呼びかけてるうちに、

いつのまにかそれは、心の中の独り言になった。

 

『ねぇ千秋、そのワンピースいいね。

   ちょっと短すぎるけど、どこで買ったの?』

 

『髪色かえた?その色の方が似合ってるよ。』

 

『今度さ、ディズニーの映画、あれ観にいこうよ』

 

『そういえば、太もものタトゥーの事だけど、』

 

『最初に出会った日のこと、本当にもう忘れた?』

 

『ねぇ千秋、あんたもいつか、俺に飽きるの?』

 

『ねぇ千秋、いつまで俺と一緒にいてくれる?』

 

心の声は彼女に伝わるだろうか。

いや、伝わらない方がいい。その方がいい。

そんな事を心の中で思いながら

振り返らない彼女の後を付いていった。

 

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突然、彼女が振り返ってこちらを見る。

 

『どうしたの?』と聞くと、

彼女は何も言わずに、

そのまま雑居ビルの中へ入っていった。

 

仕方なく私もついていくと、

彼女はエレベーターに乗り込み

五階のボタンを押した。

 

梅雨のムッとしたエレベーターの中は、

呼吸するのがもったいないくらい

歌舞伎町の淀んだ空気が充満していた。

 

こうして2人で立っているだけで、

ジメッと汗をかきそうだ。

 

エレベーターを上がると、

髭の生えた黒人が頰を膨らませながら

年季の入ったサックスを咥え、

ほわんと丸い音でジャズを奏でていた。

店内は暗く、間接照明が照らす先には

多種多様の酒瓶が棚に並んでいた。

そこは確かにバーのようだった。

 

彼女はカウンターの奥から2番目の席に座った。

私も彼女の左側に並んで座った。

バーテンダーが近づいてきて

『お飲み物は?』と私たちに尋ねる。

 

千秋『マティーニを』

私『じゃあ、バランタイン12年。』

 

私たちのカウンターの前に並べられた

その二つは、もうそれだけでいかにも

『男』と『女』の酒といった感じだ。

 

千秋はバーに来てマティーニを飲むのが、

『いい女』だと信じて疑っていないらしい。

 

だから私も必要以上に男くさい酒で応戦した。

本当はジンとかが飲みたかったのだが。

 

千秋は何をイライラしているのか、

『なんか話して?』といった感じで、

バーカウンターに片肘をついて、

片目でこちらを見ている。

 

私『そのワンピースどこで買ったの?』

 

千秋『…。』

 

私『髪色、暗くした?そっちの方が似合うよ。』

 

千秋『…。』

 

私『これからどうしたい?』

 

千秋『…これから?』

 

私『そう、これから。

      今晩のこれからもそうだけど

      もっと先のこれからのこととか話したいな。』

 

千秋『知らないわよ、成り行きでしょうね。

          いつもみたいに。』

 

私『うーん、成り行きねぇ。』

 

千秋『なに?まずい事でもあるの?』

 

私『最近ね?思うんだ。その成り行きってヤツで、

      今度はあんたまでいなくなったらって考えると、

      もう不安なんだよ。ごめんね、変だよね。』

 

千秋『…別に、どこにも行ったりしないわよ。

          なに?もしかして結婚のお誘いとか?

          こんな酔っ払ってる時はやめてよね。』

 

私『そういうんじゃないんだけどさ、』

 

千秋『そもそも付き合ってるの?私たち』

 

私『あんたにそれ言われると、弱っちゃうな。』

 

千秋『なんか不安でもあるの?最近。』

 

私『だってみんな、いなくなっちゃうから

      ミッキーも松田も、ナスタも、リリィだって…』

 

千秋『うーん、確かにね。

          でも前半の2人は死んじゃったけど、

          後の2人はまだ世界のどこかにいるのよ?

           別に一生会えないって訳でもないでしょ。』

 

私『そうだけど、でも俺から離れていったよ。』

 

千秋は『バカバカしい』と言わんばかりに、

マティーニの中に入っていた

オリーブの実をガブッとかじった。

 

私もアーモンドを一つかじって、

ウイスキーを勢いよく飲んだ。

 

そこで自分がだいぶ酔った事に気が付いた。

 

最近、どうも酒に逃げてしまってだめだ。

『言いようのない不安』から逃げたくて、

ワケが分からなくなるまで酒を飲んでしまう。

でも、そうやって飲めば飲むほど、

その不安は鮮明になって浮かび上がり

その不安は巨大になって、私を押し潰そうとする。

 

今日はそうなりたくなかった。

千秋が隣にいてくれるから、大丈夫な気がした。

 

でも、それももう遅いかもしれない。

 

 

私が恐れていた『耳鳴り』がやってきた。

 

 

近頃、こいつによく悩まされる。

最初は『ポーー…』という具合に、

放送を休止した深夜のテレビみたいな音なのだが、

その音がだんだん大きくなる。

徐々に、確実に、無限に、

その音は大きくなっていく。

最後はもう、港で大型客船の汽笛を

至近距離で聴いてるみたいな暴力的な音量で、

周りの音は、なにも聞こえなくなる。

 

ふと隣を見ると、

千秋が何やら心配そうな顔で

何かを私に話しかけているが、

もはや私の耳には何を言っているのか分からない。

 

突然、眼球に黒い幕が貼られたみたいに、

目の前が真っ暗になった。

 

まだ目は開いているはずなのに

私にはもう、何も見えない。

 

バーカウンターに突っ伏した。

 

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気がつくと私はまだ、さっきと同じバーにいた。

少しの間、カウンターに突っ伏して

眠ってしまっていたらしい。

 

むくっと身体を起こすと、

隣の席では千秋がスマホを観ながら

赤ワインを飲んでいる。

 

私『少し寝ちゃってたみたいだね』

 

千秋『そうよ、大丈夫?お水もらっといたから』

 

私の前にはグラスに入った水が置かれていた。

それを少しずつ飲みながら、

私『千秋は、赤ワインにしたの?』

千秋『そう、女はワインなの。』

 

彼女はそう言うと白い歯を見せて笑った。

しかし、その目の奥には若干の曇りがあった。

やはり彼女は、さっきの私の姿に、

何かを感じ取ってしまったようだ。

 

私は話題を変えた。

 

私『女はワイン。っていうけどさ、

      ドイツ語ではワインは男性名詞だよ?』

 

千秋『あらそうなの?だったら尚更、

        つじつまが合うじゃない?

        女だから、ワイン(男性)を求めるのよ。 』

 

私『…そんなこと言い出したら、

      なんでもありになっちゃうじゃん。』

 

千秋『バーカ。私の勝ちね。』

 

彼女は笑いながらワインを飲み干した。

私を気遣って、無理に明るく振舞ってくれていた。

 

ふと、カウンター正面のボトル棚に目を向ける。

 

世界中から集まった色とりどりのボトル、

その中でも今日はなぜか、

『Maker’s Mark 』のボトルに目がいく。

 

いや、正確にはそのボトルではなく、

赤いキャップの部分に目がいく。

 

赤いキャンドルを溶かして

ボトルキャップにフタをしてある

あの赤いキャンドルのドロっとした滴りが、

今日はどうしてか、何度見ても怖い。

 

私の中で眠っていた

『赤黒い記憶』を呼んでくる。

 

幼少期にレイプされた記憶は、

精神の発達に障害をもたらすらしい。

 

私の場合、それほど当時の記憶に

固執しているわけではないが、

それでも『年上』の『女性』から出る

あの『黒い悪意』と『赤い性欲』が

煙のように混ざって彼女らの顔や身体から

立ち上っていたのを、ぼんやりと覚えている。

 

これが私の『赤黒い記憶』の正体である。

 

今はとにかく、『Maker's Mark』の

赤いキャップが怖かった。

 

赤ワインすら、もう見たくなかった。

そんな時に千秋がバーテンダー

『赤ワイン、同じものを!』と言ったものだから

私はたまらず『もう出よう。』と言い残して

そのバーをあとにした。

 

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私は近くのローソンで、

IWハーパーの小瓶を買い、

店の前の青い蛍光灯の下でタバコを吸っていた。

 

今は何故か、青が優しく見えた。

自分の蒼白さを隠すためだったのかもしれない。

 

バーの支払いを終えた千秋が

ヒールをコツコツ鳴らして、こちらへ歩いてきた。

 

千秋『もう、どこ行ったのかと思ったじゃない!』

 

私『あぁ悪かったよ。でも、よく見つけたね。』

 

千秋『大体予想はつくわよ。またお酒買ったの?』

 

私『あぁ、少しね。飲む?ウイスキーだけど』

 

千秋『いらない。ウイスキー嫌い。』

 

彼女はそういうと店の中に入り、

スミノフのグレープを買ってきた。

 

私も革靴の裏でタバコを消して、小瓶を片手に

歌舞伎町の繁華街の方へ歩き出す。

 

彼女もスミノフを飲みながら

私に追い付いて、しばらくは腕を組んで歩いた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ホスト街の坂を下って、

叙々苑『幽玄亭』まで来たあたりで、

何やらガヤガヤと人だかりができていた。

 

ふと私たちが空を見上げると、

自殺の名所『第6トーアビル』がある。

 

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西洋のお城をイメージして作られた

このラブホテルは、毎晩ホストと

その客の女で賑わっている。

 

有り体に言えば『痴情のもつれ』だが、

やはり飛び降り自殺も後を絶たない。

 

ホストに騙された女たちは着飾り、

このホテルの屋上に上がる。

『最後は綺麗な格好で死にたい』

そんな思いで、あの屋上から飛び降りる。

 

蝶のように、ひらりと宙を舞って…

 

だが私の知る限り、

そんな綺麗な飛び降り方をした女は1人もいない。

 

足が離れるまでは、どの女も気丈だが

問題は、体が宙に浮いた瞬間だ。

死への恐怖と、生への執着で

手足を蛾のようにバタバタさせながら

そうやって醜く落下していくのが常だ。

 

我々が考えるほど『美しい死』は甘くない。

 

今日も1人の女が、

歌舞伎町の大観衆が見上げる先にいた。

 

白のネグリジェ姿に、

ひらひらとしたシースルーの白い羽織。

 

私から言わせれば、あれはもう完璧に

『飛ぶまでは蝶だと思ってる』パターンである。

 

私『あぁ毎年、梅雨の時期は自殺が多いもんな』

千秋『ほんとやだ、見たくない。』

 

屋上でその女の後ろにいる

パンツ一丁のホストらしき髪型の男は、

かろうじて立ってはいるが、

足がすくんで動けない。といったところだ。

 

屋上には警官も2人ほど待機して、

彼女の激情を煽らないよう、

穏やか且つ大きな声で、必死の説得を試みていた。

 

千秋『どう思う?あの女』

私『んーまぁ、ホストに騙されて、

      金が払えなくなったから自殺なんだろ。』

千秋『そうじゃなくて、

          本当に飛び降りると思う?』

私『あぁ。んー、どうだろ。』

千秋『なんか、本気っぽいわよ?見た感じ。』

 

確かに、こういう現場は何度か見てきたが

結局、飛び降りないと言うパターンも半々である。

しかし今回に関しては

千秋の言うとおり、あの女は本気らしく思えた。

 

観衆全員が顔を空に向け屋上を眺めている最中、

私は何故か、足元が気になった。

 

そこには一匹の『蛾』がいた。 

先ほどの飛び降り女達の例えなどではなく、

 

灰白色をした、本物の気持ち悪い蛾がいた。

 

片羽を鳥にでもついばまれたのだろうか、

羽が生えていたところからは液が漏れ、

ドロっとした臓器らしきものが飛び出している。

 

これはもう助からない。

この人混みの中で、誰かに踏まれて終わりだ。

 

蛾はそれでも、生きようとしていた。

華奢な手足を必死に動かして、

仰向けになった状態を何とか立て直そうとするが、

もはや自力では起き上がれない。

 

憐れだった。

もう見ていられなかった。

 

私は持っていたウイスキーの小瓶を傾け、

『もうおやすみ』と言って、

アルコール40度の燃えるような茶色い液体を、

足元の蛾にかけた。

 

ウイスキーまみれの蛾は、

少しの間ジタバタともがいた後、

それっきり動かなくなった。

 

そうして私は、蛾を殺した。

生きようと強く望んでいた、蛾を殺した。

 

いつか、子供の頃に読んだ

ブラック・ジャックの言葉を思い出す。

 

『あんた、人間が人間を裁くと言ったね、

   果たして人間は、動物を裁く権利があるのかね。』

 

確かに、この蛾を放っておいたところで、

助かる見込みは、万に一つもなかっただろう。

 

でも蛾を殺したのは私だ。

まだ生きようと強く願い、もがいていた蛾を、

『苦しんでる姿を見たくない。』

という身勝手な理由で、殺した。

 

蛾は、自分の死因を理解しているだろうか。

 

浴びせられた液体の味を覚えているだろうか、

 

そもそも、自分の羽をもいでいった

鳥の姿すら忘れているかもしれない。

 

きっとこの蛾は、

自分が何に殺されたのか分からぬままに死んだ。

 

ただ、死んだのだ。

 

私は今この瞬間に罪を背負った。

そして、この罪を一生引き受けていこうと思った。

 

俺はこの蛾のようには死にたくない。

同時に、強く心に思った。

 

私はそうして、自分自身に誓うように、

蛾にかけたウイスキー

同じだけの量を自分の口に流し込んだ。

 

口からウイスキーが溢れて、鼻の奥に入る。

脳髄に激痛が走る。

蛾も、こんなに痛かったんだろうかと思った。

 

千秋『ちょっと、大丈夫?』

私『うん、あーいってぇ…。でも大丈夫だよ。』

 

再び屋上を見上げると、

飛び降り女はまだ自分が蝶だと

思いこんでいるようで、

屋上の端にとどまっている。

 

千秋『ねぇ、どうなると思う?』

 

私『うーん…』

 

千秋『なんか私、あの女、

         本当に飛び降りそうな気がしてきた。』

 

私『きっと助かるさ』

 

千秋『はぁ?『助かる』?助かるって何よ、

          あの屋上、何メートルあると思ってんの?』

 

私『恐らく飛び降りると思う。でも…』

 

千秋『でも…?』

 

私『きっと助かるよ』

 

千秋『…どうして?』

 

私『絶対に死んでほしくないから。』

 

千秋『バカじゃないの?

          答えになってないわよ。』

 

その瞬間、歌舞伎町の全体に

どよめきにも似た嬌声が上がった。

 

私たちが屋上を見上げると、

シースルーの羽織は、ひらりと宙を舞っていた。

 

千秋はとっさに、私の胸元に顔をうずめる。

私も彼女の頭を胸に抱き寄せた。

 

女は確かに飛び降りた。

 

が、屋上からワンフロア下で

警察官が用意していた緑色のネットに

絡まって、辛くも助かった。

 

虫取り網にかかった女蝶が暴れている。

そのまま警察官に窓の中へと引きずりこまれ、

そこから先は見えなくなった。

 

刺激に心を毒された周囲の若者達からは、

『なんだよ、つまんねぇな』や

『余計なことすんなよ!』などの

心ない罵声が第6トーアビルに浴びせられる。

 

千秋はやっと私の胸元から顔を上げて、

『助かった…の…?』と私に聞く。

 

私『あぁ、助かったよ。』

 

千秋『そう…よかった。』

 

私『な?だから俺は言ったんだ。

      あの女は「助かる」って。』

 

千秋『たまたまでしょ?威張んないでよね。』

 

私『確かにそうかもね、でもね千秋?

      誰かが強く、助けてあげたいと願ったから、

      あの女は助かったんだよ。そういうもんなんだ』

 

千秋『はいはい。』

 

私はまた、足元の蛾に目をやった。

やはりビクとも動かない。

 

悲しい気持ちになった。

 

そうして私は、

半分残ったウイスキーを一息に煽った。

同時に、ガツンという衝撃が頭に走る。

 

遂に酒が限界量を超えたのだろう。

 

またあの『耳鳴り』がやってきた。

 

千秋は少しホッとしたのか、

笑みを浮かべて私に何かを話しかけている。

 

でも、私にはもうそれが分からない。

見えない大型客船の巨大な汽笛の音に遮られ、

今は何も聞こえない。

 

歌舞伎町の見慣れた景色が波打って見えた。

 

体の芯は凍えるように寒いのに、

皮の下一枚のところが、焼けるように熱い。

人間が電子レンジに入れられたら、

きっとこんな感じなんだろうか。

 

排気ダクトから出る、汚い温風に耐えられない。

 

遂に、完全な酩酊状態に陥ってしまった。

今日はこうなりたくはなかったのに、

 

私『千秋、俺はどこか森へ行きたいよ。

      涼しいところへ行きたいんだよ。』

 

彼女は怪訝そうな顔で、

私に何かを言っているのだが、

やはり私には分からない。

 

私『千秋、俺は涼しいところがいいよ。

      きっと俺はそこで生まれたんだ。

       そこに帰りたいよ。』

 

耳の中で絶え間なく鳴り続ける汽笛の暴音の中で

心配した彼女が手を差し伸べてくる。

 

彼女の手が私の手に触れる。

 

私には、その手が熱くてたまらない。

 

彼女の手を振りほどいて、

歌舞伎町を東へ、花園神社がある方角へと

大股でずんずん歩きだす。

 

彼女は追いかけてくるだろうか、

いや、もう追いかけてこなくてもいい。

そろそろ彼女の愛想も尽きる頃だろう、

みんなそうやっていなくなればいい。

とにかく私はもう、涼しいところへいきたかった。

 

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気がつくと、ゴールデン街付近の

新宿遊歩道『四季の路』まだきていた。

 

新宿のビル群の中でここだけ、

澄み切った空気とまではいかないが、

静かで涼しい。

 

確か、近くに小さな川があったはず、

そこにいこうと思った。

 

やはり記憶は確かで、

足元まで浸かれる小さな川があった。

 

私は革靴のまま、その中へ入っていく。

もう服が濡れようが関係なかった。

両膝をついて、両手もついた。

 

梅雨の時期を流れる小川の水は冷たく、

焼けるように熱かった私の手足を

ゆっくり冷やしてくれた。

次第に洗面台で顔を洗うみたいに、

手で水を救っては、顔にかけていた。

 

遂にはそれだけで我慢できず、

流れる水に直接、顔をつけるようになった。

 

私の中の『怪物』が、

もう既に、目を覚ましていた。

 

昔から、自分の中には怪物がいると思っていた。

他人に言われたことさえある。

 

生まれてからずっと、

何をやっても周りの人間より出来た、

大した努力をしなくても、成功を手にしてきた。

 

確かに、それなりに厳しい環境に身を置いてきて

それなりに努力もしたように思うが

周りの連中より努力したかと聞かれると、

とてもじゃないが恥ずかしくて答えられない。

 

その『怪物』も尋常時には、

私を大いに助けてくれたが、

もし、本当に大事な時がきたら、

何も助けてくれないのではないか?

という不安が子供の時からずっとあった。

 

私がもし大人物になれないとしたら、

それはきっと、この『怪物』のせいだろう。

 

この怪物が、私の成功への努力を妨げる。

この怪物が、小さな喜びだけを

私に与えて甘やかすものだから、

いつまでたっても大きな喜びにたどり着けない。

 

その怪物を窒息死させるように、

しばらくは顔を川の水につけていたが、

やはり息が苦しくなって顔を上げてしまった。

 

だいぶ川の水を飲んでしまったのだろう、

うまく呼吸ができない。

 

ゼェゼェと荒い息をしながら呼吸を整える。

 

目の前にあった水の波紋も、

徐々に穏やかになってきた。

 

私は破裂しそうなアルコール頭痛と、

鳴り止まない耳鳴りのなかで、

 

遂に、生まれて初めて

その怪物の顔と向き合った。

 

 

水面に映った『怪物』は、

悲しいほどに、自分と同じ顔をしていた。

 

 

ふと、奥の排水パイプの穴が気になる、

目を凝らすと、その暗い水の先に、

死んだはずのミッキーがいた。

 

その後ろには松田もナスタも、リリィもいた。

 

何か硬そうなものが、石だろうか、

私の近くに飛んできて、

ピチャっとしぶきをあげ、水の中に沈む。

 

誰かが小石でも投げたのだろう。

何が飛んでこようと知ったことか、

私は再び、排水パイプにいる彼らに近づいていく。

 

私はとにかく嬉しかった。

彼らのところに行きたかった。

 

しかし、流れる水の奥に見えるミッキーは、

悲しそうな目で黙ってこちらを見てるだけで、

笑ってはくれない。

後ろの3人に目をやっても、笑ってはくれない。

 

その瞬間、私は後ろから

カバンらしきもので頭を叩かれた。

私を殺しにきているような凄い力だ。

 

頭を抑えながら振り向くと、千秋がいた。

 

彼女はヒール靴のまま、小川の中に入ってきて

仁王立ちのまま動かない。

 

彼女の真珠の耳飾りは片方だけになっていた。

どこかで落としたのだろうか。

 

ふいに、耳鳴りが止んだ。

 

私『だいぶ怒ってるね?』

 

千秋『…何してんのよ…』

 

千秋の声が震えている。

彼女が可哀想だと思った。

まだそんなつまらないところにいるのかと思った。

 

私『見ろよ千秋、ミッキーがいるんだよ!

       ナスタも松田も、みんないるんだよ!』

 

千秋『何わけのわからないこと言ってんのよ…、

          もういい加減にしてよ!

          そんなのいるわけないでしょ!』

 

私『本当なんだよ、ほら!みんないるだろ?

      ここだよ!千秋!お前、見えないのか?!

       俺はあそこに行くよ。この奥に…』

 

『パンッ!』と大きな音がした。

 

続けざまに、ジーンとした鈍痛が頬に込み上げた。

 

彼女が私の頬をぶったらしい。

 

彼女は何も言わずに、もう一回、二回と

何度も何度も私の頬をぶった。

 

彼女の指輪で、口の中を切ったようで

口の中から、痛みと赤い血の味が広がっていく。

彼女の手の指輪をよく見ると、

私がいつかのクリスマスにあげた指輪だった。

 

千秋『もういい加減にしてよ!!

          ねぇリョウ、言いたくないけどね。

          あなた、とっくに病んでるのよ…、

          それが分からないの?!

          もうすっかり狂っちゃってるのよ!

          可愛そうに…こんなに震えてるじゃない!

         あれから色んな人があなたから離れていって…

         自分では大したことないって思ってるくせに、

         心の中では、もう耐えられなくなってるの!

         あなた…ずっと前から、もうボロボロなのよ!

          可愛そう…あなたが可愛そうなの…』

 

千秋は握りこぶしで私の胸を叩きながら、

頭をうなだれて、遂に泣き出してしまった。

 

私『どうして千秋が泣くんだよ…。

       悲しいのはこっちなんだよ…?

       俺は殴られたところだって痛いのに、

      どうして、殴った千秋が泣くんだよ…

      俺が、女のあげる金切り声が一番嫌いだって

      あんたもよく知ってるだろ?

      分かんないよ、昔からずっと分かんない。

      何考えてんのか分かんない女だなぁって、

      俺、いつもそう思ってる…。

         

         でも…、なんでだろ。

        そうやって泣いてるあんたを見てると、

        なんだかこっちまで泣きたくなるんだよ…』

 

千秋『ねぇリョウ。あなた、もう限界なのよ…

          だからこれ以上強がっちゃダメ。

          これ以上、強いふりしたり、

         自分を大きく見せようとしちゃダメなの。』

 

私『わかったよ…悪かった。

      ねぇ千秋、泣かないでよ。』

 

私がそう言ったのを聴くと、

彼女は握った両拳をそっとほどいて、

私の両手を握った。

 

焼けるように熱かった身体はとっくに冷めて、

彼女の暖かい手も、もう不快には感じなかった。

 

私『ごめん、もらったネクタイ。濡れちゃった、

      千秋もヒール、濡れちゃったよね。ごめんね。』

 

彼女は黙って涙を拭くと、

そのまま私の手を引いて、小川の外に出た。

少し歩いたところにあった、

派手な衣料品を売っている店で

彼女は新しくヒールを買った。

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びしょ濡れのままの私は、

そのまま店の外に突っ立って、

不恰好におりた前髪を、後ろにかきあげていた。

 

千秋に促されるまま、タクシーに乗せられ

近くのホテルへと向かった。

 

その間も、彼女はずっと

私の右手を握っていてくれた。

 

この夜。

ずっと見ないふりをしてきた、

私たちの間の『何か』が壊れてしまった。

これから先はもう、どうなるか想像もつかない。

 

私は冷房の効き過ぎたタクシーの窓に額を付けて、

流れていく歌舞伎町の白々しく灯ったネオンを

ただ、ボーッと眺めているだけだった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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南国リゾート風のカーテンが、

エアコンの風にたなびく部屋で、

気がつくと私は2人がけソファに座っていた。

千秋はどこに行ったのだろう。

 

彼女が最後の頼りだったのに…

 

そう思った瞬間、彼女がバスルームから出てきた。

鏡で化粧を直していたらしい。

口紅のルージュはまだ油っ気をもって、

スイートルームの間接照明に照らされている。

 

さっき遊歩道で見てた時より

なんだか綺麗になったような気もする。

 

『化粧でも直したの?』

 

私がそう聞くと、彼女は口を尖らせた。

彼女はいつの間に買ったのか、

ペットボトルの水を持って

私の座っているソファに来た。

 

千秋『ほら、お水。飲みたいでしょ?』

私『うん、ありがと』

 

彼女からペットボトルをもらって

自分で飲もうとするが、

まだ酔いが残っていて手元が震える。

 

ワイシャツに水をこぼしてしまった。

 

千秋『もう、何してんのよ…まだ冷めてないのね』

 

彼女は私の胸元に手をかけ、

ワイシャツのボタンを一個ずつ外していく。

私の胸元を広げ、近くにあったタオルで拭いた。

ついでに私の口元を拭いた時、

タオルからは南国の香水の匂いがした。

 

千秋『ベルトもはずすよ?お風呂入るでしょ?』

私『うん』

 

千秋に促されるまま、

私はパンツだけを残して裸になってしまった。

 

そのままソファに座って、

ぼんやりホテルの室内を眺める。

 

部屋の中央には

クイーンサイズはありそうな大きなベッド。

その上には、千秋の黒いバッグが

投げ捨てるように置いてある。

 

ベッドの上には南国リゾートでよく見かける

シースルーの天蓋がついてあり、

ゆらゆらとエアコンの風に揺れていた。

 

窓の外に目をやると、少し遠くに

TOHOシネマズのゴジラタワーが見えた。

 

千秋はバスルームの方に行ってしまって、

そちらでは何やら蛇口をひねる音がする。

どうやら風呂を沸かしてくれているらしい。

 

私はソファに座って

ペットボトルの水を飲みながら

彼女のことを考えていた。

 

千秋は、一体いつから

私の異変に気付いていたのだろう。

 

彼女、本当はお金が大好きなはずなのに、

どうして、金のない俺なんかのそばに

ずっといてくれるんだろう。

 

唐突に、彼女に会いたくなって、

『ねぇ、千秋』と小声で呼びかけるが、

バスルームの水音で私の声は届かないらしい。

 

彼女が風呂場から戻ってきた。

 

千秋『お風呂、沸かしておいたから。

           あと2、3分で入れると思う。』

 

私『ねぇ千秋…俺のことどう思ってる?』

 

千秋『どうしたの急に?』

 

私『俺いままで、

      あんたのこと避けてたんだと思う。

      なんか、心の底を見られるのが怖くて…

       たしかに頻繁に会っていたけど、』

 

千秋『表面的にしか接してこなかったって?』

 

私『そう…ごめんね』

 

千秋『いいのよ、私もあんたのこと

          でっかいワンちゃんぐらいにしか

           考えてなかったから。』

 

私『でっかいワンちゃん?』

 

千秋『そう、お財布ちらつかせれば

       いつでも一緒にお酒飲んでくれるワンちゃん』

 

私『それもひどいな』

 

千秋『でもね?誰でもいいわけじゃなくて…』

 

私『うん』

 

千秋『誰でもいいわけじゃなくて…』

 

私『どこかで俺のことが好きなんでしょ?』

 

千秋『そう、なんだ分かってるじゃない。』

 

私『分かるよ。俺も、そうだから。』

 

恐らく千秋もそうなんだろうが、

世の中には、

『自分が好意を向けなくとも

   自然と異性から好意を向けられてきた。』

という人種が必ず存在する。

 

彼ら彼女らは、ボクシングでいうところの

ヒットアンドアウェイのスタイルで立ち回る。

 

クールに交わして無愛想に振舞って、

これは絶対に決まるというところで

必殺の一撃をお見舞いする。

 

それが一番ラクで、なおかつ勝てる。

それは生きていく中で自然と身についてくる。

 

しかし、そういったタイプの人間に

例外なく言えるのは、

打たれ弱い』ということである。

 

本当は相手のパンチが

怖くて怖くて仕方がないのだ。

 

自分のエリアに入ってきて、

カウンターも恐れずに強打を連打してくる

インファイターが怖くてたまらない。

 

私も千秋も、打たれ弱いアウトボクサーだろう。

 

そんな2人だから、

これまでずっと

お互い興味ないふりをしてきたし

たまにどちらかが踏み込んできても、

上手く交わして、すぐに距離を取る

そんな事を、もう何年も繰り返してきた。

 

世の中の人はすぐ『恋愛巧者』だとか

そんな言葉を持ち出すが、

我々のような人間から言わせれば、

恋愛巧者などという人種は存在しなくて、

『真っ直ぐに勝負できる人間』と

打たれ弱い臆病な人間』がいるだけだ。

 

臆病者2人が立つ恋愛のリングは、

観客からも見るに耐えなかっただろう。

 

そうだ『リング』で思い出した。

 

私『さっきあんたの指輪で、

       口の中切っちゃったよ。』

 

千秋『あらそうなの?ごめん。』

 

私『いいけどさ、まだつけてたの?その指輪。』

 

千秋『なに?気付いてたの?

           もう忘れてるかと思ってた。』

 

私『覚えてるよ。2014年のクリスマスにあげたんだ

       新宿のマルイで買った。

       確か2万円もしなかったと思う。

      安物で悪かったね。

      あの頃はなんも知らなくてさ』

 

千秋『いいのよ。言わなきゃ誰も分かんないし』

 

千秋はティッシュで指輪を拭いている。

白いティッシュには、

うっすらと血の赤が見えた。

 

ふと彼女の全体に目を向けると、

さっきまで来ていたワンピースを脱いで、

上半身はブラジャーだけになっている。

パンツはたぶん履いているみたいだ。

 

千秋『ごめんね。口の中切っちゃった?

           痛かったでしょ。』

 

彼女の声色が急に色っぽくなる。

私の左肩に胸の膨らみ押しつけながら、

白い手を私の赤みを帯びた口元へ伸ばす。

 

キスしようとしてるのが、すぐに分かった。

私はすぐに自分を守るように

 

私『お風呂、もう沸いたんじゃない?』

千秋『…そうね。お先にどうぞ?』

 

また彼女が距離を詰めてくるのを

かわしてしまった。

せっかく彼女が歩み寄ってきてくれたのに、

 

脱衣所でパンツを脱ぎ、

シャワーも浴びず、バスタブに浸かった。

 

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恐る恐る、口元をお湯につける。

やっぱり。電気が走ったように痛い。

 

何度か同じことを繰り返して、

やっと頭の先まで湯船に浸かった。

 

湯船の中、鼻から息をぶくぶく吐きながら

少しの間『怪物』のことを思い出していた。

 

あの怪物は、結局何なんだろうか。

『周りからの期待』と『不甲斐ない自分』との

軋轢によって生じた『何か』

 

うーん、なんか違う気がする。

 

自分の心の奥にある、『自己愛』と

『努力したことがないコンプレックス』が

お互いに矛盾しあって、酒に引火して爆発した。

 

こっちの方が近いような気がする。

 

湯船からザパッと顔を出すと、

裸にタオル一枚の千秋がいた。

 

彼女も驚いたようにこちらを見ている。

 

千秋『なにしてんの?潜水の練習?』

 

私『あ、いや別に。

       千秋こそ、どうしたの?一緒に入るの?』

 

彼女は何も言わず軽くシャワーを浴びて、

同じ湯船に入ってくる。

昔より少しだけ女性らしい丸みを帯びた

彼女の身体を新鮮な気持ちで眺めた。

 

あと彼女の下半身には毛がない。

脱毛にもかなり金をかけたと聞いた事がある。

 

薔薇のタトゥーはやはり、彼女の右腰にあった。

 

 

大人2人が入っても充分な広さの

スイートルームのバスタブは、

横にあるボタンひとつで

色とりどりのライトに切り替わる。

 

バスルームの明かりを落として、

プラネタリウムのような風呂に2人で浸かる。

 

酔っ払っているのもあって、

今日は一段と幻想的に見えた。

 

千秋とくるのは初めてではないが、

いつもシャワーで済ませるので、

こうして湯船に入るのは初めてだった。

 

最新式のバスルームは音楽まで流せるらしく

千秋はボサノバのMIXをチョイスした。

 

彼女が背中からもたれかかってくるので、

私も彼女を後ろから抱きしめた。

 

千秋は比較的スリムな体型だが、

どうしてこんなに柔らかいのだろう。

 

適温に保たれた湯船の中にあっても、

彼女の体温が一番心地よいのが不思議だった。

 

2人とも、しばらくは無言で、

暗闇で極彩色に光るプラネタリウム

流れるボサノバに身を預けていた。

 

私は彼女の腹から胸へと手を伸ばし、

その無防備な耳元に軽くキスをした。

 

彼女は耳を責められるのに耐えきれず、

顔をこちらに向けてくる。

 

息遣いの荒くなった千秋と

少しの間 目を合わせ

いよいよ彼女の口元にキスをしようと思った瞬間、

ボサノバとプラネタリウムが消え、

『ピンポーン』とドアの呼び鈴が鳴った。

 

千秋『あっ、』

私『え?なに?誰か来た?』

 

千秋はそそくさとバスルームから出て体を拭き

バスローブを羽織って玄関へ行ってしまった。

 

私1人だけになってしまったバスタブで、

再びプラネタリウムとボサノバが流れ出す。

 

30秒ぐらいして、

千秋が裸でバスルームに戻ってきた。

赤ワインの入ったグラスを2つもっている。

 

千秋『ルームサービスに

         お誕生日ワイン頼んでたの忘れてた!』

 

私はしばらくあっけにとられていたが、

ようやく状況を理解し『ありがとう』と言った。

 

彼女はいつのまにか髪をほどいていたらしく、

ウェーブした髪が胸のあたりまで降りている。

そして両手にワイングラスを持った

一糸まとわぬ姿の彼女は、

この街の全ての官能を

168センチに詰め込んだようだった。

 

彼女はバスタブの中へと戻る。

ワイングラスを受け取り乾杯する。

 

千秋『飲みすぎちゃダメだからね?』

私『分かってるよ』

 

ワインの飲み口は果実味が豊かで、

舌に程よくタンニンの渋みを感じるような

飲み応えのあるシラーだった。

 

千秋『美味しい?』

私『美味しいよ。』

 

さっきの続きが気になった。

ほんのキスの手前までいったのに。

 

彼女はワインを一口ふくむと、

目を閉じて口移しでそれを飲ませてきた。

 

ワインは少しだけ口から溢れて、

私の首筋を通って乳白色の湯の中を漂う。

 

彼女の長い睫毛が私の鼻先にこすれて

少しくすぐったい。

 

目を開けた彼女はすっかり

その気になってきたらしく、

その後も何度もキスを迫ってきた。

 

吸血鬼に襲われる時はこんな気持ちなのだろうか、

私の首筋には、絶え間なく赤ワインが流れる。

 

彼女が密着させていた身体を少し離す。

不意に彼女の胸に目がいった。

それはオスの抗えない習性だろう。

 

彼女の胸元には、溢れた赤ワインが漂っている。

乳白色のお湯に浮かぶ彼女の髪は、

水分を含んだせいか、黒々としている。

 

赤ワインと黒い髪

 

少し嫌な感じがした。

私はその不安を取り払おうと、

千秋の髪の毛をじっと見つめた。

 

しかし私がいくら目を凝らして

バスタブに漂う髪の黒を微分しようとしても、

のっぺりとした黒はどこまでも続くばかりだ。

 

私の背中の奥の方から

『赤黒い記憶』がまた蘇ってきた。

 

私はまるで注射を我慢する子供のように、

目を閉じて硬直してしまった。

 

彼女が私の頬に手を当てる。

 

千秋『…怯えてるの?』

 

私『ちょっと嫌なことを思い出しただけ。』

 

千秋『大丈夫…?』

 

彼女は再び私の肩を抱き寄せ、

二人の間に漂う『赤と黒』を

その柔らかな白い胸で埋めてくれた。

 

千秋『ところで最近、ヒゲ伸ばしてるの?』

私『ん?あーいや、剃り忘れてただけ』

千秋『私が剃ってあげようか?』

私『えぇ、こわいなぁ』

千秋『大丈夫だから。待ってて、』

 

彼女は洗面台からT字のカミソリと

シェービングフォームの缶を持ってきた。

 

彼女がシェービングフォームの缶から

きめ細かい泡を手に取り、

私の口元に優しくあてがう。

 

消毒成分が口元の傷に触れて、ピリッとした。

 

裸の彼女は湯船の中で、

真剣な顔で私の髭を剃る。

なんだかそれが妙におかしかった。

 

千秋『なに笑ってんの?』

私『いや?別に、』

千秋『言っておくけど、あんたの方が

          よっぽど面白い顔してるわよ。

          カールおじさんみたい。』

 

彼女は一通り私のヒゲを剃り終えると、

シャワーで残った泡を洗い流した。

 

千秋『ほら!やっぱりこっちの方がいいよ!

          3歳ぐらい若く見える。』

私『そう?やっぱり髭は似合わないのかな。』

千秋『そういうのはね、

         もっとオジサンになってからでいいの。』

 

湯船から上がると、

バスタオルで身体を拭く。

こういう時はどうしても男の方が早く拭き終わる。

千秋はまだ、濡れた髪の先を念入りに

タオルで拭いていたので、

私はその間に歯磨きをしてベッドへ向かった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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真っ白なシーツの上にひとり寝転がると、

しばらくはベッドの上でたなびく

透けるような天蓋を眺めていた。

 

少し身体が疲れていたのもあって、

ベッドの上で思いっきり伸びをした。

 

さすがにスイートルームのベッドは広く、

私が大の字になっても、まだまだ余裕があった。

 

いいホテルに来ると、私は毎度のように

このバスローブというものに悩まされる。

 

つまり、バスローブの下は何を着てたら正解なのか

という他愛もない悩みである。

 

本当は何も着ないのが正解なのだろうが、

田舎出身の私には、どうもその文化が馴染まない。

だからパンツだけは履くようにしてる。

 

バスローブ姿の千秋が部屋に戻ってくる。

彼女は入口のところで、部屋の明かりを落とし

間接照明だけがポワンと灯るベッドの中へと

入ってきた。

 

暗くなった部屋では耳がやけに冴える。

外は雨が降っているらしい。

 

私『雨がふってるね』

千秋『そうね、やっと梅雨が始まるのかも』

 

私の右側に並んで寝そべる千秋が、

サラサラのベッドシーツの上で

ゆっくりと手を繋いできた。

 

しばらく手を繋いだまま、

2人で雨の音を聞く。

 

少しして、私の方から

彼女の猫みたいに狭いおでこに唇を寄せた。

 

彼女が私の口の端の辺りにキスを返してくる。

 

お互いに髪を撫でたり、

腰のくびれをさすってみたり。

 

彼女のバスローブに手を伸ばし、腰紐をほどく。

彼女は困ったように小さな声で

『いや、』とは言ったものの、

私は構わずに腰紐を解いてしまった。

 

彼女のバスローブの下は、

まったくの裸だった。

 

やはり彼女は都会の女なんだと思った。

 

そういえば、彼女がどこの出身なのかも

一度も聞いたことがない。

 

こんなに長く一緒にいるのに、

知らないことばかりだ。

 

よく考えれば、何も知らないし、分からない。

 

どうして彼女が私と一緒にいてくれるのかも、

なんで出会った時、ハイヒールを投げてきたのかも

彼女の右腰にタトゥーがある意味も、

きっと、私は何も知らない。

 

『知らない』というのは、怖いことだ。

そしてそれも、特に彼女のことになると

知らないという事が、いつも悲しくなる。

 

千秋『ねぇ、』

 

私『なに?』

 

千秋『いま、なに考えてるの?』

 

私『別に、』

 

千秋『あなた、ポーカーフェイス気取ってるけど

          ちゃんと眉毛で分かるんだからね』

 

私『えっ、そうなの?』

 

千秋『悲しいこと考えてる時は特にね』

 

私『悲しいことか、』

 

千秋『悲しいこと考えてた?』

 

私『うーん、自分でもよくわかんないだよ。』

 

千秋『あなた本当は、女が怖いんでしょ』

 

私『え、いや。まさか、』

 

突然の彼女の鋭い言葉に面食らってしまった。

とっさにごまかしたが

千秋には、とっくにバレていたらしい。

 

千秋『ずっと思ってたの。

          あんたは男同士でいる時の方が

         よっぽど強気で…なんていうか傲慢なの』

 

私『それは、俺が女に慣れてないからだよ』

 

千秋『そんなわけないでしょ。』

 

私『でもね?千秋。』

 

千秋『なに?』

 

私『いや、なんでもない。』

 

千秋『何それ。』

 

確かに、私は女が怖いのかもしれない。

それは過去の経験のせいなのかもしれないし、

そもそも私が男である以上、

女に対しては必ず未知であるわけで、

私の単なる『未知への恐れ』なのかもしれない。

 

『でも、千秋のことは好きなんだよ』

本当はそう言いたかった。

淀みなく、はっきりそう言いってあげたかった。

 

彼女は暗闇の中で私を見つめながら、

まだ、私の返答を黙って待っている。

 

私『でもね?千秋。』

 

千秋『うん』

 

私『俺にもわからないんだ。 女が怖いとか、

       確かに、それはそうなのかもしれない。』

 

千秋『うん、それで?』

 

私『でも、もしそうだったとしても

      俺はそんな風には生きたくないんだ。』

 

千秋『…』

 

私『誰かを本当に好きになった時に、

      そんな逃げ方をしたくはないんだよ。』

 

千秋『大丈夫、わかってる。』

 

私『あのね、千秋…』

 

また言葉が詰まる。

そんな私の怯えた手を

彼女がきつく握りしめてくれた。

 

『がんばれ』って彼女に言われた気がした。

 

 

私『あのね、千秋』

 

千秋『うん、なに?』

 

私『千秋のことは、好きなんだよ。』

 

千秋『うん、それもわかってる。

          だから大丈夫。』

 

彼女は握りしめていた手を優しく解いて、

私の頭を、その胸に抱き寄せてくれた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その後、私たちは多くの恋人たちがするように

それなりの愛撫をして、それなりのキスをして、

 

いつものようにお互いを貪り合うだけの

ドライなセックスではなく。

心が少しだけ通い合ってる特別感を

ふたりで楽しんだ、

 

束の間の幸せな時間が流れる。

しかし、彼女は許してくれなかった。

 

正確にいうと、彼女の渇いた欲望が、

こんなありふれた恋人たちのような

セックスを許してはくれなかった。

 

千秋は普通の幸せを少しだけ味わったあと、

また、どこか厭世を帯びたような

『正気』の眼差しに戻っていた、

 

彼女のために最初にことわっておきたい。

千秋は、本当に優しい女だ。

興味ない冷めたフリをしながらも、

他人のことを気にかけてあげられる

彼女はそんな優しい女だ。

 

でも彼女の正気は、どこか狂っている。

仕方ないんだ。

だって正気が狂ってるんだから。

 

『ねぇ、ぶってよ。』

 

千秋は私を見つめながら、

うっすら笑みを浮かべて、

淡々と言った。

 

そんな私は、というと

『祖父との約束』を思い出していた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

私が高校を卒業した18歳の3月。

 

いよいよ、地元を離れなくてはならなかった。

 

私の両親は共働きで、

家での食事や送り迎えなど

祖父や祖母と過ごす時間が多かった。

 

雪の降り積もる新幹線のホームには、

両親ではなく、祖父と祖母が来た。

 

祖母は私のことを、

まるで自分の生き写しのように溺愛していた。

 

私がどんなに悪いことをしても、

『あんたはずっとここにいなさい。』

と言ってくれた。

 

私の兄弟は既に、大学受験を経て上京しており

おじさん達もみんなそうだった。

一族の末っ子である私は

家族にとっては地元に残ってくれる

本当に最後の頼みの綱だった。

 

それでも私は東京へ行くことを決めた。

 

出発の日、雪の降る新幹線のホームで

祖母が札束の入った茶封筒を私に渡して

 

『お前はひとりで生きてるんじゃないよ?

   みんなに迷惑がかかるんだからね?

   でもね、あんたはひとりじゃないんだよ』とか

 

『困った時は誰かに助けてもらえるように、

   普段は誰かを助けるように生きなさい。』など

 

出発までの時間を惜しむように、

私の手を握りながら話してくれた。

 

一方、祖父は、黙ってベンチに座っていた。

 

ズボンのポケットに手を突っ込んで足を組み、

少しアゴを引いて、黙って座っていた。

 

祖母が『おじいさん、この子が行きますよ?』

とベンチの祖父に向かって言うと、

祖父は大きな身体をムクッと起こして立ち上がる。

 

何を言うのかと思ったら、

 

『飯は残すな。あと、女は殴るな。』

 

たったその2つだけを私に言った。

それだけを、大真面目に言った。

 

プシューという空気音とともに

新幹線のドアが閉まる。

私は慣れ親しんだ故郷の

冷たい空気と遮られてしまった。

 

ドアの窓ガラスに手を当てる。

冬の東北を走る新幹線の窓ガラスは、

今にも凍りそうなほど冷たい。

この優しい冷たさとも、もうお別れだった。

 

動き出した新幹線の窓から

雪の降るホームに目をやると、

祖母が顔をおさえて泣いていた。

 

祖父は、脚を揃え、背筋を伸ばして凛と立ち。

右手で軽く敬礼をしたかと思うと、

すぐにポケットに手を突っ込んで

改札の方へと歩いて行った。

 

『戦争を生き抜いた男は強い』と思った。

 

それは祖母の心が弱いと言いたいのではない。

あの時は私だって泣き出しそうだった。

 

男の旅立ちを、黙って見送る祖父を

素直にカッコいいと感じた。

 

そんな威厳ある祖父の姿を、

私も敬意をもって見送った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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『飯は残すな。女は殴るな。』

 

私がそんな昔の約束をボーッと思い返していると、

千秋が私を見つめて言う。

 

千秋『どうしたの?ねぇ、はやくぶってよ。

         なんだか今日は、そういう気分なの。』

 

私『いやだよ、』

 

千秋『どうしてよ、たかが遊びよ?』

 

私『千秋だって知ってるだろ?

       俺が女には手を上げないようにしてるの』

 

千秋『あんた、やっぱりただの臆病なのよ。

          私のこと好きっていいながら、

          本当はやっぱり女が怖いんでしょ?』

 

私『そんなことないよ、』

 

千秋『じゃあ、はやくぶってよ。』

 

私は、はぁ、とため息をついた後

右手で彼女の左頬を平手で打ち抜いた。

 

私は千秋の頬をぶった。

あんなに大切にしていた『祖父との約束』を破り、

利き腕の右手で、目の前の彼女を平手打ちにした。

 

クールな女の頬の温度は、思いのほか熱い。

私の手に弾かれた千秋の顔が、

青白い月明かりに照らされて少しだけ見える。

 

何か、うすら笑いのような、

悔しいのを我慢して笑っているような、

今まで私が見たことのない、

彼女の不安定な表情だった。

 

それでも彼女の下半身は

今までにないほど良い反応を示し

スラっとした脚を私にからめ

恍惚のため息を漏らしているようだった。

 

私の性癖も大概、褒められたものではないが

彼女のそれは、なんだかもっと可哀想に思えた。

 

『幸せを拒む性癖』とでも言えばいいのか。

 

彼女はきっと、何かの恐怖を追体験したいのだ。

それは例えば、柔道で言うところの

『受け身』みたいなもので、

恐怖を自発的に掴み取りに行くことで

その恐怖に抗おうとしているのだ。

 

そして、その状況からくる

『痛み』と『侮辱感』に至上の快楽を求めている。

 

あのなんとも言えない、不安定な表情を

私はあの時、そう読み取った。

 

千秋『どうしたの、もっとやってよ。

           私がやめてって言っても続けてね』

 

私の中で、また何かが壊れてしまった音がした。

それは幼い頃に家でピアノ弾いていて、

高音の細い弦が切れた時の

『ピキンッ』という音にも似ていた。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

『祖父との約束』だろうか、

あれはとても大切なものだった。

あの約束さえ守ってれば、

この大都会でも大きく道を踏み外すことはない。

根拠なくそう思えるほど、大切なものだった。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

『千秋との関係性』だろうか、

思えば、お互い便利な関係だった。

本性を暴くことなく、

都合のいい時だけふたりで会って、

得体の知れないお互いの身体を貪り合って、

そうやって寂しさを紛らわしてきた。

 

いずれにしても、

弦が切れてしまったピアノは

もはや何度強く押そうとも、音が出ることはない。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

いや、別に考えるほどのことじゃない。

もう既に壊れていたのだ。

ボロ屋のトタン屋根が、

次の台風に怯えながらパタンパタンと軋むように。

もう、ずっとずっと前から、壊れていたのだ。

 

壊れてしまったものは何だろう。

 

彼女の頬を打ち抜きながら、

私は何度もそう問い続けていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その後も、彼女に頼まれるままに

何でもやった。

 

男の冷たくて、硬い手が、

彼女の温かくて柔らかい肌をぶっている。

 

千秋をぶっている、この冷たくて硬いこの身体が

本当にこれが自分の身体なのかと思った。

無責任だが、信じられなかった。

 

仰向けでベッドに横たわる彼女の顔は、

ベッドシーツや月の光に照らされてよく見えた。

 

あの不安定な表情から、

一瞬、何かに怯えた表情を見せると

すぐにまたあの不安定な表情に戻り、

恍惚の余韻を貪る。

彼女はずっと、その繰り返しだった。

 

私も、見られているのだろうか。

不意にそんな不安がよぎった。

行為の最中、私はどんな顔をしているのだろう。

 

冷たい笑いを浮かべて、

筋力の劣る女を痛めつける男の

恍惚の表情だろうか。

 

あるいは色欲ボケした中年のような

あの、いやらしい鼻息を垂れ流しているのか。

 

いや、最悪の場合。

私が泣いているという可能性すらある。

それも、比較的高い確率で。

 

そのぐらい、私は自分が見えなくなっていた。

 

これが私の取るに足らない杞憂であり、

彼女はこのセックスに、ただ没頭している。

そんな事を願うばかりだった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

どのくらい時間がたったのか、

やっとセックスが終わった。

 

激しいセックスだった。

 

赤々とズルむけた心をタワシで擦るような

生々しくて、痛みのあるセックスが終わった。

 

乱れた呼吸を整えた私は、

ベッドに横たわる彼女に布団をかける。

 

掛け布団を高く上げ、

せめてもと、千秋に優しくかけてあげた。

 

私もそのサラサラのベッドに戻る。

彼女は少しの放心の後、

意識を取り戻したかと思うと

ふふっと鼻で笑って私に軽くキスをする。

 

ベッドの中で、汗ばんだお互いの身体を寄せ合う。

 

上質なシャンプーの匂いとタバコの匂いが

ないまぜになった彼女の髪の匂い。

 

先ほどより、少し温度が落ち着いてきた。

彼女の身体が冷えないように抱き寄せる。

 

不規則な生活を繰り返す私たちは、

だいぶ疲れてしまっていたのか。

手を繋いで、そのまま寝てしまった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

その晩、私は夢を見た。

 

あれはどこだったのだろう。

薄暗い部屋だった。

 

そこに千秋がいた。

とは言っても普段知っている千秋ではなく、

まだほんの小学校低学年ぐらいだろうか。

彼女は畳の部屋の隅で小さな脚を囲い込んで、

体育座りで小さくなっていた。

知らない少女だとは思わなかった。

はっきり千秋だと分かった。

 

辺りは夕方らしく、彼女の小さな体から

長い影が伸びている。

 

そこで彼女は泣いていた。

すすり泣くように、しくしくと、

静かに泣いていた。

 

私が『千秋?千秋なのか?どうしたんだ?

          どうして泣いてるんだい?』と聞いても

 

彼女は答えない。

どうやら私の声は聞こえていないらしい。

 

部屋に誰かが入ってきた、

しかし真っ黒で顔や服は分からない。

背が低くてずんぐりとした体型で

人間の男の形をしているようだが、

人間じゃないと言われれば、そうも見える。

 

『そいつ』は大きな音をたてて、

近くにあった机を叩いたり、

その上にあったものを彼女に投げつけたり、

椅子を蹴り上げたりしていた。

 

『そいつ』が怯える千秋の近くへ歩み寄り

彼女の頭に手をかけようとしたので、

 

私は『おい!やめろ!』と声をあげ、

『そいつ』を引き剥がそうとした。

その時に一瞬だけ触れたのだが、

『そいつ』に触れた手触りが、

なんとも言えぬ、嫌に汗ばんだような。

悪意に満ちた手触りだったのを覚えている。

 

私はそのあまりに不気味な手触りに、

うわっ!っと逡巡し、慌てて手を離した。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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夢はそこで終わった。

 

私が目を覚ますと、千秋のタバコの匂いがした。

周囲はまだ暗く、夜はまだ明けていない。

 

千秋が裸のまま窓際のテーブル近くに立って

ペットボトルの水を飲んでいた。

 

私『やぁ、起きてたの?』

 

千秋『うん、さっき起きたとこ。』

 

私『いま何時?』

 

千秋『さぁ、』

 

私が枕元に置いていた腕時計を見ると

夜中の3時半を示していた。

 

私は千秋のいない広いベッドに横たわりながら

左手のタバコに火をつける。

 

白い煙は窓の換気扇の方へ流れていく。

その煙の向こうでは、裸のままの千秋が

乱れた髪を手櫛で戻していた。

 

私はベッドに寝そべったまま、千秋に話しかける。

 

私『ねぇ千秋、』

 

千秋『ん?なに?』

 

私『さっき俺ね、夢を見たんだよ。』

 

千秋『ふーん。』

 

私『あれは千秋がまだ小さい頃だったと思う。

       狭くて暗い畳の部屋でさ、

      そこで千秋が泣いてたんだ。』

 

千秋『やめてよね。そんな夢の話。』

 

私『それでね?うまく思い出せないんだけど、

       男がいたんだ。黒くて背の低い…』

 

千秋『もう!やめてってば!』

 

彼女は突然、取り乱したように声を荒げて

持っていたペットボトルを私に投げつけてきた。

 

私『どうしたんだよ。急に怒鳴って、』

 

千秋『私も見たの、夢。』

 

私『え?同じ夢を?

      それは、なんだか不思議だね。』

 

千秋『そうじゃない。もっと不思議なの。』

 

私『どういうこと?』

 

千秋『あなたの、夢を見たのよ。』

 

私『俺の…夢?』

 

彼女はそのままテーブルに腰掛けて、

あとは何も言わなかった。

 

寝ている時に千秋と繋いでいた右手が、

気付けば、じっとり濡れている。

 

まさか、と思った。

 

いや間違いない。

私たちは、この短いひと眠りの間に、

 

夢を交換してしまったのだ。

 

私『千秋は、俺の夢を見たの?』

 

千秋『……』

 

私『どんな、どんな夢だった?』

 

千秋『あまり言いたくない。』

 

私『そう…、わかった。』

 

もはや説明されるまでもなかった。

千秋はおそらく、

私の『赤黒い記憶』を見たのだろう。

 

ということは同時に、私が見た千秋の夢も

あれもきっと、単なる夢ではないのだ。

 

私はゆっくりベッドから起き上がると、

タバコを持って彼女が腰掛けるテーブルへ行き、

その上にあった灰皿にタバコを置いた。

 

彼女も、同じように灰皿にタバコを置いた。

 

灰皿の上で、

2人のタバコから出た煙が混ざり合って

窓の換気扇に吸い込まれていく。

 

千秋のことが心配になって、

裸の彼女を抱き寄せる。

 

彼女は少しの間、声を出して泣いた後、

窓の方へ行き、レースのカーテンを開けた。

 

彼女は裸のまま、

窓の端から端までカーテンを開いて

眼下に広がる歌舞伎町を眺めている。

 

私も裸のまま、そちらへ行き

彼女の横に立って、眠らぬ街の雑踏を眺めた。

 

なんとなく、彼女の気持ちがわかる気がした。

いやむしろ、私も同じ気持ちだった。

 

私たちは、誰かに見て欲しかったのだ。

若く美しい身体の奥で、

もはや治すことが出来ない程に

ボロボロに傷付いてしまった私たちの心を、

この街の誰かに見て欲しかった。

 

南国リゾートホテルの最上階からは、

人や店が小さく見えるだけだった。

その他は、何も見えなかった。

 

私たちを見てくれる人も、誰もいなかった。

 

私達はそうして2、3分ほど

月明かりの下で黙って窓辺に立ち尽くしていた。

 

千秋が風邪をひかないように。

バスローブをかけてあげる。

 

彼女の雄弁な沈黙が、

この広いスイートルームを満たしていた。

 

千秋が重い口を開いた。

しかし、その言葉は意外なものだった。

 

千秋『ねぇ、リョウ』

 

私『なに?』

 

千秋『ねぇ、クラブにいかない?

          なんかね。踊りたいの。』

 

私『いまから?もう夜中の3時半だよ?』

 

千秋『閉店まであと1時間はあるでしょ?』

 

私『そうだけど、』

 

千秋『ねぇお願い。もう疲れた?』

 

私『いや、大丈夫。付き合うよ。』

 

私たちはそそくさと着替えを済ませ、

チェックアウトをしてホテルを出た。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

さっきまでザーッと降っていた雨は

霧のような小雨に変わっていた。

 

ホテルのエントランスを出て、

新宿5丁目の方面へ向かう。

 

私と千秋は、

ガラにもなく手を繋いだりなんかして

足早に目的のクラブへ向かう。

 

その途中、

 

千秋『あっそうだ、さっきの洋服屋寄っていい?』

 

私『え?なんか忘れ物でもしたの?』

 

千秋『ううん。もう服とかも全部変えたいの。

   なんなら今からヘアサロンにでも行きたいくらい』

 

私『え?洋服買うの?

      じゃあそのワンピースはどうするの?』

 

千秋『もう捨てる。3回も着たら飽きちゃった。』

 

私『あぁ、そう。』

 

千秋『ねぇ、いいでしょ?すぐ終わるから。

           外でタバコでも吸って待っててよ。』

 

私『分かった。でもあまり時間は無いからね?

       あんたの買い物が長いのは有名なん…』

 

千秋『分かってるって!じゃ、行ってくるね。』

 

千秋はそう言って店の中へ入っていった。

 

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私は霧のように降る小雨の中、

タバコに火を付けて、

手をポケットに突っ込んで待っていた。

 

少し待ってもまだ千秋の洋服選びは

決まらないようなので、

 

近くにあった自販機で缶コーヒーを買う。

 

私は雨で濡れた冷たいガードレールに座って、

静かに目をつぶった。

 

なぜか今なら、できる気がした。

私はナスタの『黄金の風』を待ったのである。

 

すると、ほんの少しだけ風が吹いた。

 

その風は、

歌舞伎町に降り注ぐ霧雨の水分を含んで

ナスタのブロンズの髪がなびいた時のような

あの優しい柔らかさをそのままに

私の傷ついた心を、しっとりと濡らした。

 

私の待ちわびた『黄金の風』が

遂に吹いたのだ。

 

その風が完全に消えて無くなるまで、

私は目を閉じたまま、

黙って彼女の手触りに思いを馳せていた。

 

閉じていた目を開ける。

朝が近づいているのか、

先程まで街を覆い尽くしていた深夜の暗闇は

ほんの僅かではあるが、明るくなっていた。

 

千秋が洋服店から出てきて、こちらに歩いてくる。

 

彼女は『どう?』といった具合に

こちらに近付きながら、くるりと回ってみせた。

 

彼女が着ていたのは

紺色に近いミッドナイトブルーをした

ノースリーブでミニ丈のワンピースドレス。

胸元にはシャンパンゴールドのビジューが

夜の街の光を控えめに反射していた。

 

私『なんだ、気分変えたいって言ってた割には

       ずいぶんと落ち着いてるね。』

 

千秋『いいのよ。私なんでも似合うから。』

 

私『今まで見てきたあんたの中では、

       1番落ち着いてるかも。でも似合ってるよ。』

 

千秋『でしょ?本当はあのマネキンが着てる

          赤いワンピと迷ったんだけど…』

 

私『おぉ、あれね?

      いかにも千秋が好きそうじゃん。

       どうして?なんか問題でもあったの?』

 

千秋『あなた、今日は赤が嫌でしょ?

          私なりに気を遣ってあげたのよ。』

 

私『あぁ、なるほど。』

 

千秋『ね?優しいでしょ?』

 

私『うん、ありがと。』

 

私と千秋は歌舞伎町の地下一階にある

ナイトクラブへと向かう。

 

私『そういえば、俺たちが

      7年前に初めて会った時もクラブだったね』

 

千秋『そうね、渋谷のT2。

          確か薬物かなんかの取り締まりで

          今はもう店の名前は変わっちゃったけど。』

 

私『あの時あんたさ、』

 

千秋『『いきなり履いてたヒール投げた』でしょ?

           あの時はごめん。酔っ払ってたの。』

 

私『いや、いいんだよ。そのお陰で

     今もこうして千秋と一緒にいられるから。』

 

千秋は歩いてる途中で、

私の左腕に胸の膨らみを当ててくる。

彼女が甘える時のやり方だ。

 

そのまま、クラブのエントランス前にいた

大きな身体の黒人のセキュリティに挨拶して

地下一階にあるクラブへと降りていった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

エントランスで荷物を預け、

重い革張りのドアを開けると

腹を打つような重低音のビートに合わせ、

極彩色のレーザーライトが暗い店内を

所狭しと走り回っていた。

 

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閉店の1時間前、

花の金曜日の夜はとうに過ぎ、

朝4時のダンスホールの客たちは意外にも

盛り上がりのピークを迎えていた。

 

この店はとにかく黒人が多い。

昼は歌舞伎町の路上で客引きをしてる外国人が、

夜はここで馬鹿騒ぎをしている。

この街にもナイトクラブは多くあるが、

ここだけは、まるでアメリカの

ニューオーリンズと間違うような黒人の多さだ。

 

ちなみに、店員も黒人だ。

 

バーカウンターの黒人に話しかける。

彼とは顔見知りで、

ベタベタした黒人英語を何とか聞き取って

近況を報告しあった。

 

私はヒューガルデンを注文した。

 

黒人の彼が千秋を指差して

『その女、お前の彼女?』と言うので

『まぁ、そんな感じ』と伝えると、

彼は白い歯を見せてスミノフの瓶を

彼女にひとつサービスしてくれた。

 

私と千秋は、小さな丸テーブルに腰掛けると

乾杯して小瓶をグイッと煽った。

 

その後すぐに

踊りたいのを我慢出来ない千秋に手を引かれて、

人混みをかき分け、ダンスホール

真ん中あたりに2人で立った。

 

『クラブといえば海外アーティストのEDM』

それはある種の偏見で、

始発が近付いたクラブ内は意外にも

日本人の誰もが知るJ-POPを

DJがEDM風にアレンジして流すのだが、

実はこの時間帯が最も盛り上がる。

 

いかに洋楽好きを気取った若者だろうと、

J-POPの持つ、あの聴き慣れたフレーズが流れると

みんな、水を得た魚の様に踊り出す。

 

ダンスホールには

椎名林檎の『長く短い祭』が流れていた。

 

千秋も大好きな曲らしく、

彼女は音に合わせて頭を揺らす。

その長い髪が華奢な腰つきと重なり合う。

 

彼女は一瞬で『クラブの女』になっていた。

 

少しその勢いに置いていかれた私も、

曲が進むに連れ自然と身体が動く様になった。

 

椎名林檎の媚びているようで、

どこかトゲのあるあの声が

爆音でダンスホール内に響く。

 

『ちょいと、女盛りをどうしよう、

   このままじゃ行き場がない。』

 

まさに千秋のための歌だと思った。

私の目の前で、千秋が女盛りを燃やしている。

 

『少し疲れたからテーブルで酒飲んでる』

そう彼女に言って、先ほどのテーブルに戻る。

 

彼女はまだまだ踊り足りないみたいで、

髪を振り乱して踊りながら、

周りにいた男たちにちょっかいをかけている。

 

そんな彼女をぼんやり遠くに眺めながら、

持っていたヒューガルデンの小瓶に口を付ける。

 

少し目を離した隙に、

彼女の周りには

下心を隠しきれない男たちが4、5人群がっていた。

 

彼女は女王様にでもなった気分でいるのか、

楽しそうに笑いながらその男たちと

交互にダンスの相手をしている。

 

知らない男の手が、彼女の腰に伸びる。

彼女の露出した白い肩を触ったり、

尻や胸まで触っているようにも見えた。

 

もし私が千秋の彼氏だとしたら、

彼女のもとへ行って男達を引き離すだろう。

 

でも私はなぜか行く気にならなかった。

 

そのまま丸い木の椅子に座って、

テーブルの上に肘をかけて

その乱痴気騒ぎを眺めていた。

 

私はやはり、千秋の彼氏ではないようだ。

 

じゃあ何なのか。

 

私にも分からない。

むしろ、誰かに教えてほしいくらいだ。

 

たとえ尻や胸を触られたからといって、

そんな事で傷付くような彼女じゃないし、

それでヤキモキするような私でもない。

 

現に千秋だって、

あんなに楽しそうに踊っている。

 

もうそんな、ヤワな傷付き方じゃ足りないんだ。

彼女の美しく見えるその顔の奥は、

ボロボロに傷付いている。

もう、取り返しがつかないほどに。

 

誰も触れてはくれない。

どれだけ彼女の尻や胸に触れようと、

そのボロボロに傷付いた心だけは

誰も触ってはくれない。

 

ベタベタと触っていた男の1人を

千秋が何の脈絡もなく、笑いながら突き飛ばす。

追い討ちをかけるように蹴りも一発入れた。

 

周りの男達は『こいつイカレ女だ、』

というような顔でその場を立ち去って行った。

 

それを遠くで見ていた私の口からは、

渇いた笑いが溢れた。

 

それでも彼女は構わず、踊り続ける。

その白い華奢な肩に

ビームライトの極彩色を宿して

見果てぬ混沌の中を踊り続けている。

 

彼女は一体、何のために

誰のために、踊ってるんだろう、

そして何のために生きているんだろう。

 

ふと今日の千秋の言葉を思い出した。

 

『だからって、死ぬ意味も分からないの。』

 

本当にその一言に尽きると思う。

過去、どれほどボロボロにされて傷付いても、

大切な仲間たちが死んで行こうと、

彼女はそれでも生きようとしていた。

 

『生きようとしていた』なんていう

そんな能動的なものではないのかもしれない。

淡々と、粛々と、

少しのドライな熱情だけを残し、

目の前にあるものをそのまま瞳に映して

それ以上のことは何も思わず、

繊細な心を、あえて鈍感に慣らして

彼女はただ、踊るように生きているのだ。

決して死なないように。

決して、死なないように。

 

そういう気概の部分ではやはり、

私の方がまだまだ甘えていて、なんだか幼くて、

彼女の方がよっぽど強く大人びて見えた。

 

彼女に聞きたい事がたくさんあった。

 

 

『ねぇ千秋、今どんな気持ち?』

 

『ねぇ千秋、俺の眉毛で考えてる事が分かるって

   言ったけど、それってどんな形?』

 

『ねぇ千秋、ナスタの話はやっぱり嫌い?』

 

『ねぇ千秋、前から思ってたんだ。

   俺とあんたは、どこか似てるよね。』

 

『ねぇ千秋、やっぱり初めて会った時のこと

   忘れてなかったんだね。嬉しいよ。』

 

『ねぇ千秋、きっと俺の夢を見たんだよね。

   それ、誰にも言わないでほしいんだ。』

 

『ねぇ千秋、俺、あんたのこと何も知らないよ。

   どこで育ったとか、両親のこととか、

   あんたの歳だって、正確には知らないんだ。』

 

『ねぇ千秋、タトゥーのことだけど、

   いつか気が向いたらさ、教えてよ。』

 

『ねぇ千秋、俺たち付き合ってるのかな?

   悲しいけど、たぶん違うよね。』

 

『ねぇ千秋、俺、時々ね?

 愛の終わりの悲しい夢を見るよ。』

 

『ねぇ千秋、どっちかっていうと

   俺たちは家族に近いのかもしれないね。

   じゃあ千秋がお姉ちゃんで、俺が弟かな。』

 

『ねぇ千秋、ダメな弟でごめんね?』

 

『ねぇ千秋、あんた俺のこと叩いて言ったけど、

   俺はもう、すっかり狂っちゃったのかな。

   もう元には戻れないのかな。悲しいよ。』

 

『ねぇ千秋、いなくなった人達の事ばかり

    考えるのは、もうやめにするよ。』

 

『ねぇ千秋、いつまで俺と一緒にいてくれる?』

 

 

 

 

 

考えうるすべての質問を心の中で終えた後、

私はこのダンスホールの爆音の中で

聞こえるはずもないような小さな声で

 

『ねぇ千秋、』と呟いた。

 

すると彼女は、

まるで私の声が聞こえたかのように

少し驚いたような表情で振り向き、

はにかむように笑いながら

私の方へ近づいてきた。

 

ダンスホールの端っこの、

光の当たらない暗がりの中で

私たちは抱き合って、またキスをした。

 

午前4時50分。閉店間際のクラブ内は、

残った最後の電力を振り絞るように

より一層、強烈な光でダンスホールを照らす。

 

私『ねぇ千秋、』

千秋『なに?』

 

どこかの黒人が酔っ払って、

持っていたグラスを上空にぶちまけた。

 

辺りは一体水浸しになって、

私たちもびしょ濡れになってしまった。

 

ゆっくりと目を開けた彼女の長いまつ毛には

キラキラした水滴が溜まっている。

 

私はまた、彼女に呟く。

 

『ねぇ千秋、

  どんなに暗くても、

  この夜を歩いて行こうよ。』

 

もうじき、夜が明けるから。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー終ーーーー

 

         

 

         あとがき

 

私がこの話を書き始めたころ、

千秋は長い旅に出ていました。

普段は東京から出るのも億劫で、

旅行なんて絶対にしない彼女が

行き先も告げず、長い旅に出ていました。

当時、私はなんとなく

彼女がもう戻ってこないような気がしていました。

もしかすると、寂しかったのかも知れません。

だから彼女との事をこうして

文章にして残しておこうと思ったのかも。

でも書けば書くほど、彼女の事が鮮明になり、

それが鮮明になればなるほど、

彼女の事が分からなくなっていきました。

長く一緒にいる中で、

少しずつお互いの見え方が変わってくるのは

人間として当然なのですが、

私たちの場合、

それは見え方が変わるというより

どう見たらいいかが分からなくなる。

と言った方が適切でした。

 

そんな時、ふとこの曲と出会いました。

自分の作品への後付けは無粋かと思いますが、

当時、私の心の虚空を

この歌が優しく埋めてくれた事は確かです。

 

皆様の気が向いた時にでも、

この曲を聴いて頂ければ幸いです。

 

 

       『ダンスホール

          

       作詞作曲 尾崎豊

 

 

安いダンスホールは たくさんの人だかり

陽気な色と音楽とタバコの煙に巻かれてた。

 

ぎゅうぎゅう詰めのダンスホール

洒落た小さなステップ

はしゃいで踊り続けてるお前を見つけた。

 

子猫のようなヤツで、生意気なヤツ。

『小粋なドラ猫』ってとこだよ。

お前はずっと、踊ったね。

 

 

気取って水割り飲み干して

慣れた手つきで火をつける。

気の利いた流行り文句だけに

お前は小さく頷いた。

 

次の水割り手にして、ワケもないのに乾杯。

『こんなものよ』と微笑んだのは

たしかに作り笑いさ。

 

少し酔ったお前は、考え込んでいた。

『夢見る娘』ってとこだよ、

決して目覚めたくないんだろう。

 

 

あたいグレ始めたのは、ほんの些細な事なの。

彼がイカれていたし、

でも本当はあたいの性分ね。

 

学校はやめたわ、今は働いているわ。

長いスカート引きずってた

のんびり気分じゃないわね。

 

少し酔ったみたいね、喋り過ぎてしまったわ。

でも、金が全てじゃないなんて

綺麗には言えないわ。

 

あくせくする毎日に疲れたんだね。

俺の胸で眠るがいい。

今夜はもう、踊らずに。

 

 

昨夜の口説き文句も忘れちまって、

今夜も探しにゆくのかい?

寂しい影、落としながら。

 

そうさお前は、孤独なダンサー。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー