聖帝さまの小話

基本、思い出。

私の父親。

ーはじめにー

 

こんな私にも、父親という存在がいる。

 

ツイッターであまり父親について語らないのは、

私自身、『私の父親』という存在を、

うまく飲み込めていないからだ。

私はツイッターでもなんでも、

書きながら物事を整理するタイプだ。

 

これは私の父親理解のための文章でもある。

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今朝、ヤマト運輸から荷物が届いた。

それは父親からのものだった。

 

紙袋の中に入っていたのは2冊の本、

『サピエンス全史』と『ホモ=デウス

その名前は、かねがね耳にしている。

世界のインテリ層が声高に

『これが新時代の教養になる』と謳っているのが

この2冊の本である。

本と一緒に小さなメモが入っていた。

『年内に読みなさい』

 

一般的な家庭ならば、

フラフラしている大学生のバカ息子に

ちゃんと勉強しろ!という父親の叱責。

という解釈で間違い無いのだろうが、

残念ながら我が家にそれは当てはまらない。

 

しかしながら、私は父親が送ったメモの、

そのあまりに控えめな意図を汲み取って、

朝っぱらから少し笑った。

私の父親は、

コミュニケーションの下手な父親だったから。

 

父の職業は高校の国語教諭で、

今は地元の県立高校の副校長をやってるらしい。

『らしい』という言い回しで、

勘のいい人は気づくだろうが

私は父親ともう何年もまともに話をしてない。

それは理由はもちろん、

私の現在の体たらくな身分もあるが、

それよりもむしろ、父親の寡黙さに起因する。

 

私のツイッターも合わせて読んでる人は

既に知っているだろうが、

私の家系はとにかく大柄な家系で、

私が183センチに成長した今でも、

私のことを『チビ助』と呼ぶくらいだ。

ちなみに私の下の名前は『諒』であり、

もはや『チビ』でもなければ、『助』ですらない。

 

その体躯に加えて、大酒飲みの一族である。

正月に、東京や関西から一族が地元に集まると

日本酒の一斗や二斗では足りない。

地元では、その長身が目立つのと相まって、

少し有名な一族だ。

 

 

ここまで話した『一族』とは全て

私の『母方の家系』のことである。

私は生まれも育ちも、

母方の家系に囲まれて育った。

 

父は、婿養子であった。

都会であったらともかく、

私の地元のような、田舎での婿養子。

その肩身の狭さは想像に難くない。

 

去年の正月に、祖父や祖母、

更にはおじさんや従兄弟を含めた

30人ほどで温泉旅館を貸し切って

宴会を催した時の写真が残っている。

その写真を見てみると、

キリンやクマなどの大型動物が並ぶ中、

その端っこの方で、こじんまりと

眼鏡をかけたアライグマのような男がいる。

それが、私の父親だ。

 

父は、豪胆な母親の家系とは

とにかく正反対の人間だった。

 

まず酒が一滴も飲めない。

付き合いで一杯飲むとそこから2日は床に伏す。

そして他人とのおしゃべりが苦手、

宴会などというものは、最も避けたい人種だ。

 

父の趣味は読書。本が唯一の友達だった。

これは大袈裟に言っているのではない。

私は生まれてこの方、

父親の友人というものを、見たことがない。

 

生身の友人がいない分、

父の本への情熱はすごかった。

好きな作家を見つければ、作品はもちろん

まるで研究者のように、

その作家が連載してるエッセイや、

周辺の人間が思い出を語る二次文献まで、

最後は全集を買って、その作家の読書を終える。

とにかく名を知られている本で、

父が持っていない本はないと言ってもいい。

 

私も高校生までは、一緒に暮らしていたので

父に『〇〇の本ある?』と聞くと

次の日の朝には、リビングのテーブルに

その本と、関連本がどっさり積まれている。

そんな感じだった。

 

母から聞いた話によると、

と言っても私の想像通りだが

父は学生の頃からほとんど友人を作らず、

部活も帰宅部だったらしい。

その反動なのか、私や兄には

勉強よりも、部活を思う存分やらせてくれた。

まぁ、やらせてくれたと言っても

ほとんど放任で、必要な物があれば買い与える

と言ったスタンスであった。

しかし父から『勉強しなさい』と言われたことは

人生で一度もない。

 

私も兄も大学時代まで好きに部活をやったが、

家族が試合を観に来たことはほとんどない。

兄は『父さんはどうせ興味ないんだろう、

母さんは部活なんてもうやめなさい!派だし』

と言っていた。素直にそうかもな、とは思う。

 

しかし何かそう決めつけられない思いが、

私の心の、ずっと深いところにあった気がする。

 

私は、父との記憶を辿っていた。

こういう時、思い出が少ないというのは

ある意味ラクだ。

 

少年野球を始める前、8歳ぐらいだったか、

父と公園でキャッチボールをした。

無言で捕っては投げ、捕っては投げしていた。

休憩を挟んで何時間もキャッチボールをしていた。

 

キャッチボールが面白かったのもあるが、

父が動いている、というのが何より面白かった。

 

普段、まったく口を開かず。

まるで置物のようにソファーでテレビを見るか

部屋に篭って本を読むばかりの父が、

私が投げたボールを捕り、

それを投げ返してくるのである。

当時の私にはそれが面白くてしょうがなかった。

 

少年野球を始めてから、

しばらくはイチローに憧れて外野手やっていた。

 

ある日、高学年の男の子が風邪をひいたので

私が代理でキャッチャーをさせられた。

初めてなので、結果は散々だったが

家に帰ってソファに座っていた父に、

『今日初めてキャッチャーやったんだ』

と報告した。

父は『そうか、』と言うだけだった。

 

それから数分して『車にのれ』と父が言う。

どこか飯でも食べに行くのかと思っていたら、

近所の『タケダスポーツ』に車を寄せた。

私がてくてく付いていくと、

父は少年軟式グローブの前で止まり、

『どれだ?』と私に聞く。

私が『これがキャッチャーミット』と言うと

『一回はめてみろ』と言ったので

ミットをはめてみると、私からそれを受け取り

そのままレジに行って購入した。

 

あまりに突然のことで、

私は、まさか買ってもらえるとは思わなかった。

『明日からはまた外野なのに…』と

思いながら、帰りの車の中で

新品のキャッチャーミットを抱きかかえていた。

 

その後もやはり、

キャッチャーをする事はなく、

外野手として少年野球を卒業した。

 

中学に入っても野球は続く、

慣れない坊主頭をみんなで笑い合いながら

毎日練習していた。

 

そんな下積み時代のある日、

一年生からブルペンキャッチャーを出すようにと

監督から指示があった。

 

大人になった今から思えば、

ブルペンキャッチャーというのは

後々、キャッチャーになれるが、

試合にはあまり出れない難しい役回りだった。

 

しかしそんな事はつゆ知らず、

『おれ、キャッチャーミット持ってるよ!』と

あけすけに私が言ってしまったものだから、

私はその日からキャッチャーになってしまった。

 

しかしキャッチャーとしての日々は

想像以上におもしろかった。

外野手出身の私はまず、

『自分が全てのプレーに絡む』

というのが大変な衝撃だった。

 

『外野は黙ってろ』とはよく言ったもので、

実は外野手は、ほとんどの守備に関与しない。

そして『バッテリー』という名の

ちょっとした特権階級に属し、

試合のアップは野手と別で行う。

守備の時は、ピッチャーのリード、

野手の守備位置の確認、盗塁牽制、送球先の指示。

会社で言えば、総合職的な仕事。

その大変さと楽しさを知った。

キャッチャーの仕事量に比べれば、

バッターとして打席に入っている時間は、

ほとんど遊びのようなものだった。

 

そうして野球の面白さを知りながら、

選抜チームのキャッチャーまでやって

私は中学で野球を終えた。

たまに『あれ?そもそも何でオレは

キャッチャーやってるんだっけ?』

と思い返しては、

父とタケダスポーツに行った

あの日のことを思い出していた。

 

中学で野球をやめ、ハンドボールを始めた。

強豪校だったのもあり、野球部以上に厳しい

練習に明け暮れる日々は風のように流れた。

 

インターハイ出場をかけた高校生活の大一番。

岩手県大会 決勝。

集合は朝の7時、

会場は家から自転車で5分の総合体育館。

 

寝坊の私も、この日ばかりは早く起きて

しっかりと朝食を食べ、決戦に備えていた。

私にとっては高校人生の大一番でも、

世間は平日で、父は出勤の準備をしていた。

 

やがて時間になり、玄関で靴を履いていると

父が後ろから話しかけた。

『送ってこうか?』というのである。

家から自転車で5分の距離なのに、

私が振り返ると、父はネクタイを結びながら

チラチラとこっちを見ている。

『いや、別にいらないよ?近いし』と返すと

父はそのまま『そうか、』と言うだけだ。

 

『じゃあ行ってくる』

と私が玄関のドアを開けると

父は少し慌てながら『頑張れよっ、』と言った。

私が振り向くと既にドアは閉まっていた。

再びドアノブに手をかけたが、

開けるのも野暮だと思ったので

自転車のベルを二回鳴らして会場へ向かった。

 

ここまでくると一体どっちが

コミュニケーション下手なのか分からなくなる。

まったくもって調子の狂う朝だった。

でも、それが父と交わした中で

最も親子らしい行為だった。

 

大学に入ってもハンドボールは続け、

たくさんの友人に恵まれ、幸せな日々を送った。

 

私の選手としての引退試合

秋の関東リーグ決勝

決勝の相手は、名門  慶應義塾

勝手も負けても、これが最後の試合だった。

試合は前半終わって7点ビハインド、

『選手としての時間は、あと30分か』

そんな事を思いながら私は、どこかうわの空で

ハーフタイムの水分補給をしながら

チームの仲間と作戦を確認をしていた。

 

私は、ある日の兄の言葉を思い出していた。

 

『父さんは、俺たちの部活とか興味ないんだよ』

 

スポーツ人生の終了を前に、

私はその言葉が気になっていた。

たしかにそうだ、

父が試合を観に来たことなど、今まで一度もない。

そして今日、父の知らない場所で、

その最後の試合が終わる。

ふと私は、超満員の観客席に目線をあげた。

紺色と黄色のストライプが眩しい

慶應の応援団は、自分たちの優勝を目前に、

いつもに増して活気付いている。

 

教育熱心な慶應の親たちは、

一体どんな顔をしているんだろうと思い、

私は目を凝らした。

そして自分の目を疑った。

 

父がいた。

 

なぜか上智ではなく、慶應の応援席で

腕を組みながらキョロキョロと

辺りの様子を伺っている。

まぁ大方、ホームとアウェイの違いも分からず

適当に座っていたら、

慶應に囲まれてしまったという感じだろう。

 

ハーフタイムの終わりに

私はディフェンスポジョンに着くと

慶應ベンチに向かって『よっ!』と手を挙げた。

父は依然、少しも動かない。

私の隣にいた後輩が

『佐々木さん、女でも来てるんですか?』

と言うので、『可愛いやつでさ、照れてんだよ』

と適当に誤魔化しておいた。

照れていたのは私の方だったかもしれない。

 

結局、試合に勝つ事は出来なかったが

自分の競技人生を締めくくる良い試合が出来た。

 

それからしばらくして、

兄貴にこの事を話したら、

『見間違いだろ』と笑われてしまった。

あまりにあっさり言われてしまうと、

こちらとしても自分を疑いはじめてしまう。

 

あるいは本当に見間違いなのかもしれない。

あの時私は、幻覚を見たのかもしれない。

 

私のスポーツは父とのキャッチボールから始まり、

その野球が中学で開花したのも、

父があの時、唐突にキャッチャーミットを

買ってくれたからだ。

いつも、その岐路には父がいた。

 

学校が変わり、競技が変わり、

それがハンドボールになっても、

競技人生の最後に、

私の心が、父の姿が現れるのを欲した、

ただ、それだけなのかもしれない。

 

だけど、私はそれでも良いと思っている。

自分の心に『父』がいることが分かった。

寡黙で何も話さないが、

私の人生の岐路に、いつも父の存在がある。

そのことを確認できたから。

なんだか、兄貴がまだ気付いていないことに、

自分が気付けて、少し嬉しかった。

 

 

話はだいぶ戻って、今朝送られてきた本である。

ここまでいかに父が寡黙で

コミュニケーションが下手かを

分かって頂けたかと思う。

 

送られてきた2冊の本の名前は

えっと、なんだっけ?

まぁ、正直それが何の本だっていいのだ。

『年内に読みなさい』というメモはつまり、

 

年末までにこの本を読んで、

正月、実家に帰ってきたらこの本で少し話そう。

 

そういう意図なのである。

控えめで下手くそな、

父からの『おしゃべりのお誘い』だった。

 

思えば、私も文学部だ。

父があんなに本を与えてくれなかったら、

知的好奇心を伸ばしてくれなかったなら、

私は文学部はおろか、大学にも入らず、

東京にもいなかったかもしれない。

 

だから家に帰ったら父に話そう。

あの時のことや現在のこと、

そして、これからのことを父に話そう。

それがきっと何年後か、

『あっ、あの時に父さんに話したから今…』

って思う日が来るだろうから。

 

でも俺、父さんには隠し事も多いんだよなぁ。

大丈夫、都合が悪くなったら

酒でも飲ませて眠らせればいいさ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー終ーーーーー