聖帝さまの小話

基本、思い出。

無敵のR子

 

 秋の冷たい雨が、四ツ谷に降り注いでいた。

ほんの一週間前までは、まだこの街にも

夏の日差しが照りつけていたというのに、

秋物のシャツをクローゼットから出して間もなく、

また冬用のジャケットを引っ張り出さなければ

ならなかった。

 

すっかり暗くなった雨の四ツ谷には

帰路につく上智の学生が、所狭しと傘を広げて

四ッ谷駅へと急いでいた。

 

傘を忘れた冬用ジャケットの私もまた、

その中に混ざって、ひとり歩いていた。

ソフィア通りの木々から、したたり落ちる雨露と

女の子たちが傘から落とす雨粒を肩で受けながら、

降り続く雨に髪を濡らして、

私も大学生の波を流れていた。

 

私は昔から傘を持たない。

というより傘を持って家を出ない。いつも忘れる。

持って家を出ても、必ずどこかに置いてきてしまう

『今は降っていなくても、帰りには降るかも』

なんて、そんな先を見据えた行動ができないのだ。

『先のことなんか考えず、今を生きる』

そんな安い自慢をしたいのではない。

その場その場を享楽的に生きるばかりで

先のことを見ようとしない。

これは完全に私の欠点だとおもう。

成長しない自分にほとほと呆れながら

まるで懺悔にも近い気分で雨に打たれていた。

 

でも幸い、私は電車に乗る必要もない。

上智の正門を出て5.6分歩けば私の家はある。

学生の波が駅に吸い込まれて、幾ぶん広くなった

四ツ谷見附の交差点で信号につかまる。

いつもこの信号につかまるのを習慣にしている。

この長い信号待ちの時間を利用して

今晩の夕食に何を食べるかを決めるのだ。

『自分が何を食べたいのか』

『今日は何曜日で、どこが定休日』だとか、

自分の欲と正直に向き合い。答えを出し、

それを社会のしきたりに擦り合わせていく。

自己と世界の調和を保つために大事な時間なのだ。

昔からそうしている。これが私のルーティンだ。

 

しかしそんな私の黄金のルーティンは、

不意に後ろから聞こえた女性の声で破られた。

 

『あれ?りょう君?えー!久しぶりー!』

この東京で、私を下の名前で呼ぶ人間は多くない。

声がした方を振り返ると

華奢な体にウェーブのかかった深い茶色の髪

高いヒールの靴に

ハイウエストのロングスカート(グレーチェック)

薄手のハイネックのニット(ワインレッド)

その上には黒のレザージャケットを羽織っている。

目がしらから鼻にかけてすーっと伸びたラインは

彼女の朗らかな雰囲気を引き締める。

端正な顔は笑うと少しだけ歯茎が見える。

そこには、前より一層大人っぽくなった

良子(りょうこ)が立っていた。

(詳細は『三軒茶屋 梨の木の思い出』にて)

 

『なんだ良子かぁ、びっくりしたよ。』

久しぶりの再会に、なんだか安心した私は、

先ほどの『黄金のルーティン』の事など忘れて、

彼女の方に向き直った。

良子は私より2つ年上で、私が一年生の時には

大学のミスコンに出ていた。

なぜ彼女の方が年上なのに

『良子』と呼び捨てなのかと問われると

私は弱ってしまうのだが、

とにかく彼女とは古い仲である。

 

『傘持ってないの?』良子が訝しげに聞く、

『そう、朝は晴れてたから』

『天気予報で夕方から降るって言ってたじゃん』

『そうなんだけどさぁ、』

『りょう君は昔からそうよね』

『昔からねぇ、』

まずいところで返事を切ってしまった。

昔のことを話されると困るのは私の方なのだ。

 

『今からご飯?』良子が言う。

『うん、そうだよ。いま考えてたとこ』

『ふーん。ひとりで?』

『俺はいつもひとりさ』

『えー、かわいそ』

この会話が、これから一緒に夕飯を食べに行く

流れだというのは誰の目にも明らかなのだが、

私たちの場合、それを自分から言い出すのは難しい

忘れがたい『昔のこと』がある。

 

信号待ちでの二人の沈黙を、雨がなだめてくれた。

『濡れちゃうよ?』

良子はそう言って傘を私に寄せてきた。

『このままご飯いくの?』良子が重ねて聞く。

『そうだね、さすがに家に帰ってシャワーかな』

『じゃあ家まで送ってくよ?』

『いいよ、付き合ってもらうの悪いから』

『家もうすぐなんでしょ?いいよ送ってくよ』

昔からこんな調子で言いくるめられてしまう。

 

青になった横断歩道を渡りながら、

私たちは傘の持ち手を交代した。

良子のさす傘は、私には少し低すぎる。

右手で受け取った彼女のビニール傘には

まだしっかりと彼女のぬくもりが残っていた。

私の右側に彼女を置いて、

彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩く。

昔からこのスタイルが1番だと良子も分かっていた。

昔のように、私は左肩を濡らしながら帰った。

 

四ツ谷の住宅街の細い路地に入ったところで、

彼女は自動販売機に立ち寄った。

『えーなんかりょう君の部屋行くの久しぶり』

そう言いながらつい一週間ほど前に

『つめたい』から『あったかい』へと切り替わった

BOSSのカフェオレを買っていた。

『りょう君は?なんかいる?』

 

まったく、相変わらず上手い女だと感心する。

それまで『部屋まで送る』約束だったものを

カフェオレを買うことで『部屋に入る』へと

鮮やかに進路変更させてみせたのだ。

そこに少しの不自然さも、不快感もない。

計算され尽くした手を、直感的に打ってくる。

彼女にはそんな、ある種の『無敵さ』があった。

 

良子の『なんかいる?』の問いかけに

『俺はコーヒー淹れるからいいよ。』と答えると

『えーもうそれ早く言ってよぉ!

私カフェオレ買っちゃったじゃーん』

と良子は拗ねた。

 

すぐに家の前に着いた。

アパートの門を開け、良子を屋根の下に入れてから

傘をバサバサッと振ってからたたむ。

静かなアパートの廊下に、

二人のコツコツとした靴音が響くのを聞いて初めて

自分が少しドキドキしているのを感じた。

 

部屋の前に着いて、財布から鍵を取り出す。

『あっ、そうだ合鍵!』と

思い出したように、私が良子の方を見る。

『えっ?』良子がいかにも

「バレたかっ!」って感じでニヤニヤしている。

『いい加減返してもらわないとね』

『あー、今はちょっと持ってないんですよねぇ〜』

良子がふざけてごまかそうとする。

『まぁ別にいいけどさ、』私がというと、

良子はホッとしたように

『またお邪魔するかもしれないじゃん?』

と冗談なのか本気なのか分からない事を口にして

『勘弁してよ』と曖昧な返事を私がした。

 

『上がって、散らかってるけど』

と言いつつも、本当に散らかっていたら女なんて

絶対に私は家に上げない。

今日は綺麗にしておいてよかった。

『お邪魔しまーす』と靴を脱いだ良子は、

玄関マットで足をペタペタしてから

部屋の中央にあるネイビーのソファーに座った。

『家主より先に座るなよ』と笑いながら茶化すと、

『いいじゃん別に、それにシャワーでしょ?』

『そうだけどさ、』

私はそう言い、タオルを持って風呂場へ向かった。

シャワーからでる少し熱めのお湯が、

かじかんだ手先や足先を芯から温めた。

いつもより濃く立ち込める水蒸気が、

季節はもう秋になったのを告げた。

 

しかし鮮やかな女である。

あれよあれよと、こちらが戸惑っている内に、

こんな展開になってしまった。

いったい、良子はなぜ声をかけてきたのだろう。

いや、声をかけるのは良いとして、

なぜ家まで送ってくれたのだろう。

まぁいい。彼女だって何か思うことがあったから

声をかけてきたのだろう。

それはいずれ明らかになることだ。

話したい事があるんなら、あっちがそれを

話し出すまで、こっちは悠々と構えていればいい。

そうして私はいつもの落ち着きを取り戻した。

 

突然シャワー室の扉がガチャっと開いた、

良子が半分顔を出している。

『なに?』と私が聞くと、

『コーヒー淹れときますよ?』と言う。

裸の私は背を向けながらもお尻は見せない

微妙な体勢になりながら、

『ご自由にどうぞ』と言った。

良子は無言でガチャリと扉を閉めた。

彼女は昔から覗きグセのある人だった。

覗きグセは彼女の名誉に関わるとしても、

とにかく、私がシャワーを浴びてたり、

ケータイで動画をみてたり、昼寝しようとしてたり

そういう時に限って、

どうでもいいことで話しかけてくる人だった。

 

シャワー室から出た私は濡れた髪のまま、

とりあえずそこにあったスウェットを履いて

作業用のキャスター付きのイスに座った。

 

部屋にはコーヒーの香ばしい香りが充満していた。

『あ、ソジャーだ!懐かしい〜!』

良子に言われて気がついた。

私は上下ともソフィアジャージを着ていた。

『昔はよく着てたなぁ、』

良子は昔の大学での日々を思い出していた。

容姿端麗で成績も良く、

ミスコンに出て、周りからはチヤホヤされて、

さぞ栄華を極めたであろう彼女の大学時代とは

裏腹に、彼女はたまに昔のことを思い出しては

悲しい顔をする時があった。

その悲しい顔の原因に一枚噛んでいる私としては、

その状況にいたたまれなくなり、

『まだ持ってんの?』とごまかし半分に聞いた。

『うん、でもタンスの奥』と良子。

『部屋着に最適だぜ?』と明るく振る舞うが

彼女の悲しい顔は解けないままだ。

 

良子の淹れてくれたコーヒーをすすって、

いつものようにタバコに火をつけようとしたが、

良子がいるので、途中でやめた。

手持ち無沙汰になってしまった私は、

ボーッとしたふりをしていた。

こういう時、六畳のワンルームは狭く感じる。

 

どうにかこの固まった空間から逃れないと、

と思い。イスをくるっと反転して壁の方を向き、

ケータイをチェックした。

1分も待たずに、背後から『ボロロン♪』と音がした

振り向くと良子が部屋のギターを抱え、

足を組んでベッドに腰掛けている。

艶のある赤茶色のアコースティックギター

良子が今日着ている服の色にもぴったり合う。

『けっこうサマになってるよ』と私。

でも良子はギターが弾けない。

そもそも持ち方が逆だし、

組んでる足も床に付いてない。

色々と回りくどくやってはいるが、

つまるところ、私に何か弾いてもらい。

このぎこちない空気を払拭しよう

というのが彼女の魂胆なのだ。

 

『教えてやろうか?』と言い、彼女の隣に座る。

持ち方と組む足を直してあげた後、

Cのコードを教えようとするが、

彼女のネイルが長くて、敢え無く断念した。

『はいはい』と彼女からギターを受け取って

『なに弾いてほしい?』と彼女に聞く。

『うーん、なんでも!』

『じゃあ斉藤和義な』

『メトロに乗って?』

『じゃあそれ弾くよ』

『はーい』

少し弾くだけのはずが。

結局は一曲丸々弾くハメになってしまった。

弾き終わってギターを元の場所にもどす。

気付くと良子はベッドの中に入っていた。

『寝るの?俺のベッドだけど』

私がそう聞くと、彼女は被っている毛布の端を

ペロっと返して『一緒にどうですか?』と言う。

『結構です。』と私が答えるとすぐに毛布を閉じ、

口を尖らせて目を閉じた。

『まだ6時前だよ?』と私。

良子は『……。』とだんまりを決め込んでいる。

『ご飯食べに行こうよ、久し振りに会ったんだし』

大人の妥協案で良子をベッドから起こさせる。

最初は『しょうがないなぁ、』というそぶりを

見せていた良子も遂には『どこにいく?』

と笑みがこぼれた。

 

ジャージからよそ行きの服に着替えていた私は、

『なんでもいいよ、良子の好きなところで』

といいながら髪をセットしに洗面所へ向かった。

短髪の私は比較的すぐに髪のセットが終わり、

部屋に帰って『決まった?』と良子に聞くと

予想通り『まだ』とのこと、

『じゃあとりあえず居酒屋かな』

『おっ!そうしよう!』と立ち上がった良子は

ヒールを履いてない分、ずいぶん背が低く感じた。

 

『シワになっちゃったぁ』とスカートを直す良子。

『勝手に他人のベッド入るからだよ』

『まだ雨降ってるかなぁ』と良子が話を流す。

基本的に傘を持たない私も、

さすがに今度ばかりは傘を持って家を出た。

 

金曜日の『しんみち通り』は学生よりも

会社員で賑わっている。

『あんまりうるさくないとこがいいなぁ』と良子。

『じゃあここにしよ。』

『えー赤札屋?うるさいじゃーん!』

『いいじゃん、メニュー色々あるし』

『えーピザとかがいい』

『ピザもあるって』

『ほんとかなぁ〜』

そんなこんなで、しんみち通り中ほどにある。

赤札屋という大衆居酒屋に入ることに決めた。

2人なのでカウンター席を覚悟していたが、

ちょうど2人がけのテーブル席が

空いていたようなので、向かい合って座った。

 

『赤札屋きたことあんの?』と私が聞くと

『ないね、初めて来た』

『お嬢様だもんな』

『世間知らずって言いたいんでしょ?』

『ネガティヴすぎだよ』と2人で笑って

店員に生ビールを2つ頼む。

昔はビール嫌いだった良子も、社会で揉まれて

ビールのうまさが少しはわかって来たのだろうか。

 

『ハイ生2デース』と中国人のお姉さんが

持ってきた中ジョッキで間髪入れずに乾杯する。

こういうのは勢いが大事なのだ。

お馴染みのお通し『ミニ冷奴』に醤油をかけて

それをつまみながらメニューに目を通す。

自慢ではないがこの店のメニューと値段を

ほとんど暗記している私は、

彼女ひとりにメニューを持たせて、

悠々とビールを飲んでいた。

『うーん分かんない』と良子が言うので

私はすぐ『すみません!』と店員を呼んだ。

1もつ煮込み

2肉じゃが

穴子の天ぷら

4なす一本焼き   

を注文した。既に答えは出ている。

これが間違いなくベストオーダーなのだ。

そして必ずこの順番でくる。完璧なフローだ。

 

自分の常連ぶりに満足していると、良子が

ナポリタンもお願いします。』と唐突に加えた。

そらは完全なる失策であった

そんな序盤で炭水化物のバケモノを投入されては

私の独身ゴールデンフローが総崩れである。

しかもそこはせめて『焼うどん』だろ…。

とも思ってしまった。

 

良子が私の異変を察して『ん?』と言う顔をする。

『いや、いいんじゃない?』と適当に流す。

独り身が長かったせいか、

他人の注文に違和を禁じ得ないのは悪い癖だ。

今日はせっかく1人飲みではないのだから、

他人のもたらすイレギュラーを味わうことで、

またひとつ大人になれる。そう思うことにした。

 

やはり最初はもつ煮込みから来た、

食べ慣れた味。味噌汁がわりでもあり、

かつ、独特のモツのくさみが酒のつまみとして

盤石の地位を築いている。

1番バッターは譲れない。圧倒的な出塁率だ。

 

次に肉じゃが、甘いみりん醤油の味付け、

じゃがいものボリューム感でほどよく腹を満たす。

メインの3.4番へと続く、繋ぎの2番バッター。

しかもこの肉じゃがの働きによって、

先ほどのもつ煮込みは、

いつでもつまみ直せる、箸休めとなった訳だ。

そう、既にもつ煮込みは2塁へ進塁しているのだ。

 

しかし恐れていた事態が起こった。

穴子の天ぷらとナポリタンの同時登場である。

左打ちの3番バッターと

右打ちの4番バッターが同時に打席に立っている。

 

『ヘヴィすぎる…』心の声は良子に届いただろうか

いや決して届いてなどいない。

彼女はひたすらナポリタンに高揚するばかりだ。

生ビールがなくなっている。

気を落ち着かせて二杯目をもらうことにした。

彼女は何を飲むだろう。

私は店員を呼んでビールのおかわりを注文した。

『良子は?なんか飲む?』

『あっトマトサワーで!』

 

一瞬の出来事だった。

とても正気の沙汰とは思えなかった。

確かにそれはこの店の名物である。

トマトサワー、200円。安い。

しかし我々の眼前にはナポリタンという

トマト味の海が広がっているのだ。

良子…見えていないはずはあるまい。

トマト味をトマト味で流し込むというのか?

まさに血で血を洗う。

ご丁寧に赤色までそっくりじゃないか!

いいだろう。ここまできたら、

私もジタバタせず見届けよう。

それが新時代の感性だというのなら!

良子。味オンチのその先を、俺に見せてくれ。

 

生ビールとトマトサワーが届いて

良子は感激の声を漏らす。

『わぁすごい!真っ赤!』

 

そう、もはや赤軍の登場は待った無しであった。

既にセオリーと言う名の体制派の内で楽しまれた

野球という遊びは終わり、テーブルの上では

ナポリタンとトマトサワーの連合赤軍

新たな味覚の自由と革命を求めて、

高らかにゲームセットを宣言していた。

 

もはや、もつ煮込みも 肉じゃがも去った球場で、

(いや、今はコロシアムと言うべきか。)

赤軍派の主張は過激になるばかりであった。

 

『白派』である穴子の天ぷらは、

テーブルの端で静かに息を潜め、

刻一刻と食べ頃を失っていくばかりであった。

 

許せ穴子の天ぷら。

ナポリタンのケチャップがついた箸で、

お前の綺麗な体に触れる愚行を…。

血塗られた箸で突かれた穴子の天ぷらは、

予想通り、所々に赤いケチャップが目立った。

 

泣いている。穴子の天ぷらが泣いている。

からりと揚げられた衣に、さっと塩をつけて

上品に食されるべく、このテーブルに登った

悲運の天才、穴子の天ぷら。

それがいま、赤い血の涙を流している。

なんとかこのテーブルフローを立て直さなくては。

 

テーブルの調和には穏健派が求められた。

私は頭の中のメニューをくまなく探す。

いないか、この場を治めてくれる穏健派はどこだ!

…いた!そうだ彼がいた。ホヤ刺しがいた。

外側の『赤』と内側の『白』を兼ね備えた

不動の穏健派、ホヤ刺しがいた。

しかも日本酒にもよく合う。中道ここに極まれり。

いやもう王道と呼んだっていい。

妥協案なんかじゃない。これがベストアンサーだ。

 

喜び勇んで店員を呼んだ。

なにも争う事はない。これで解決だ。

そう、人は断じて幸せにならなければならない。

『えーと日本酒2合と…』

『アツイ?ツメタイは?』

『熱燗で!あとホヤ刺し』

『ホヤ刺しオワリマシタ!』

『おっ、終わっ…た…?』

『アレ夏シカ ダシテナイヨ!』

 

ここで痛恨の品切れ。

私がかつて夢見た平和の世界は潰えた。

そうだ何で気がつかなかったんだ!

ホヤの旬は夏じゃないか!

別に特段好きでもないけど、

欲しいと思った時にいてくれないなんて。

穏健派なんて得てしてそんなもんだ。

そう考えた時、

いまここにいる者を愛そうと心に決めた。

 

『あっ、やっぱ日本酒やめます。トマトサワーで』

そうだ、もう戦争は始まっているのだ。

俺はいつまで逃げているんだ。

戦争が始まったらそれに勝利する。それだけ。

ナポリタンをトマトサワーで流し込む。それだけ。

最初からやる事はひとつじゃないか。

 

『あっ、マネした』と笑いながら良子。

あぁ、そうだよ良子。マネだ。

そもそも学びの語源は『まねぶ』だ。

模倣だってそれを極めれば、立派なカタチになる。

オリジナルとはまた違った、

もう1つの完成型が見えてくる。

聴いてくれ良子。俺はいま、お前を超えるよ。

 

『トマトサワーお待たせしましたー!』

驚いた。見たことない店員だ。

この店に日本人店員なんていたのかい。

やっぱり今まで、自分の型にこだわるばかりで、

他が何も見えてなかったのかもしれないな。

感謝するよ。ありがとう良子。

 

トマトサワーを一口飲み、

次いでナポリタンを箸で食べる。

もう一度トマトサワーを飲む。

 

ナポリタン独特のトマトのコク、

同時にその加熱によって失われたトマトの酸味。

それを熱を通さないで作った

冷たいトマトサワーの酸味が見事に補っている。

この組み合わせを直感で注文したのか良子。

参ったよ。お前はやっぱり無敵の女だ。

 

『ふつうに合うね』

『でしょー?だから言ったじゃん!』

 

しばらく食事を楽しんだあと、

きっちり割り勘で会計をして店を出た。

久しぶりに楽しい食事だった。

 

赤札屋を出ると先程までの雨はやんでいた。

 

まだ飲み足りない良子に付き合って、

しんみち通りの店を何軒か回った。

行く先々で新たな発見があった。

まるで不正解を正解にするような強引さ、

直感で思いもよらぬ最適解を導き出す

良子のそんな無敵さに振り回されながらも、

彼女がもたらす新しい楽しみ方が

心の底から楽しかった。昔みたいだった。

 

そんな無敵の良子も、酒には限界があると見えて

最後の店ではろれつが回らなくなっていた。

千鳥足で閉店間際の店から出ると、

また雨が降っていた。

 

『あっ、やばいどっかに傘忘れた』

『ばかー!昔からそういうところあるよね!』

『でも良子が持ってるからいいじゃん』

『えーじゃあおんぶして』

『おんぶ?歩けないの?』

『うーん…』

 

傘を持った良子が私の背中にもたれかかってくる。それをよっこらしょと持ち上げると、

腰が抜けそうなくらい軽かった。

良子はもう半分寝そうで、

私の肩にあごを乗せて、耳元で何か話していた。

 

雨の四ツ谷交差点。

今まで良子とは何度も一緒に帰った。

良子を右に置いて私が傘を持つような

昔のスタイルとは違う、まったく新しい

『おんぶ』スタイルで家までの道を歩いた。

 

デートの帰り道はいつも

『良子は楽しんでくれたかな?』なんて

つまらない事ばかり考えてしまう。

そうだ、良子は私に何か話したい事が

あったんじゃないか?

『話でも聞いてやろう』なんて青くさい考えで

仕方なしに付き合っていたつもりが、

結局は私が抱えていた憂鬱を

良子が和らげてくれただけじゃないか。

昔から私は何も成長していない。

また昔のように、良子に頼ってしまった。

 

自分は何も成長していないのに、

時間だけがいたずらに流れ、

そこにはもう戻れない昔だけが、

悲しい顔をして横たわっている。

 

それでも今日は良子に会えてよかった。

ひとりよがりのセオリーにこだわらず、

他人というイレギュラーを受け入れること。

それを楽しむこと。

昔を愛し、それ以上に今を愛すること。

彼女がそんな事を教えてくれた気がする。

 

私の背中の上で起きた良子は、寝ボケたような声で

『昔はよかったねぇ〜』と冗談混じりに言う。

『そう?俺は今も悪くないけどな』

本心からそう答えた。

 

飲みすぎて火照ったふたりの体を、

秋の冷たい雨が程よく冷ましてくれた。

居酒屋のテレビで見た天気予報では、

明日は久しぶりに、午前中から晴れるらしい。

まだ雨が降り続く夜の帰り道を、

彼女が風邪をひかないように

大切に家まで運んだ。

 

                                                               終

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