聖帝さまの小話

基本、思い出。

『八尺様』と芦毛の馬

 

 

東京は大都会で、毎日ふつうに生活しているだけで

無数の人の顔とすれ違う。

 

見惚れるほど美しい女性の顔もあれば、

頭の禿げている疲れた中年男性の顔も、

歯の生え揃ってない子供の笑い顔、

スマホをニヤニヤしながら見てる若者の顔。

 

数えだしたらキリがないし、

いちいちそれを覚えてもいない。

 

でもいつも不安に思っていることがある。

 

『あの顔』に会ったらどうしよう…という事。

 

正確にはその『あの顔』というのを覚えていない。

どうしても思い出せないのだ。

 

確かに過去に『それ』と会って、顔も見て、

その大まかな印象まであるはずなのだが、

頭でイメージしようと思った途端、

それ以上は想像できなくなる。

まるでイメージを途中で誰かに

無理やり遮られてるような感じだ。

 

夏になると、あの出来事を思い出す。

きっと私はこれから一生涯、

あの不思議な夏の出来事を忘れないだろう。

 

最近はうまく忘れて過ごしているが、

恐怖はいつでも私の深いところで息をしている。

 

東京の人混みの中に『あの顔』を見つけた時。

それは私の終わりなのかもしれない。

 

今年も夏が来る。

 

何も悪い記憶ばかりではない、

幸せだった頃の記憶もまた、あの夏にある。

 

あの恐怖も幸福も、私にとっては等価値なのだ。

どちらも忘れてはならない夏の記憶である。

 

あの日は熱い日差しがひと段落して、

山の方から冷たい風が吹く8月の夕方だった。

 

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私の両親は共働きで、

小学生の夏休みは、

ほとんど祖父の家で過ごしていた。

 

祖父の家は江戸の昔から続く、

東北の大地主の家で、

子供の私では遊びきれないほど、

祖父の家には色々な物があった。

 

大きな家の中を探検して、

面白そうなものを発見したり、

(屋敷の北側にある、

夏でも涼しい暗い蔵にこっそり忍び込んで、

巨大な白ヘビに会うのは、また別のお話)

広い日本庭園を駆け回って、

咲いている花の匂いを嗅いだり、

家の北側にある松林に行ってセミを捕まえたり、

とにかく飽きるという事がなかった。

 

おまけに遊び相手もいた。

家には下女が二人常駐していて、

(下女と言っても4-50のおばさんだが)

私にきちんと学校の宿題をやらせたり

泥だらけになった私の靴を綺麗にしてくれたり、

お昼過ぎにはおやつを出してくれたりした。

 

その下女の娘だったのだろうか、

私より5歳ほど年上の女の子も、

何日かに一回はこの家に来て私と遊んでくれた。

 

そして何より『小川さん』という、

私の大好きな庭師さんがいた。

 

小川さんは、

うちの庭の手入れをして生計を立てている人で、

この家の敷地内にある『東の小屋』と

呼ばれる道具小屋に住んでいた。

 

これは今でこそ分かる事だが、

小川さんは昔、大変身分の低い人で、

生まれた時からずっと名前がなかったらしい。

東北の田舎ではよくある事だったようだ。

戦争が終わって、小川さんが30歳になる時

私の祖父が今の名前を付けたそうだ。

 

それでも私の祖父と小川さんは親友で、

よく2人でお酒を飲んでいるのを見た事がある。

 

戦争で兄弟を失った祖父にとって小川さんは、

立場的には雇用関係にありながら、

一番歳の近い友達だったのだろう。

 

何より小川さんは私に優しかった。

私のことを【おんじゃ】と呼び、

《私の田舎では次男坊の事を『御次(おんじ)』

   長男のことを『兄(えな)さん』と呼ぶ》

私が祖父に叱られた時は、『東の小屋』で

泣きじゃくる私をかくまってくれたりした。

 

小川さんには奥さんも子供もいなかったので、

私のことを孫のように可愛がってくれた。

 

熱い日差しの中、小川さんが南の畑に植えた

ナスやらジャガイモやらを2人で収穫するのが、

何より楽しかった。

 

小川さんは庭師の他にも、東の小屋にいる

馬や牛、あとニワトリやキジの世話をしていた。

 

私が動物好きなのは、この頃から相変わらずで

暇があると、馬や牛をなでなでしに、

よく東の小屋に遊びに行った。

 

『おんじゃはな、べこだのんまだのの気持ちが

分かるすけ、中さえっでもくられねでいんのよ。』

(次男(私)は牛や馬の気持ちがわかるから、

小屋の中に入っても彼らが暴れないんですよ)

 

あの頃、確かに動物と心が繋がっていた気がする。

言葉は話さないが、

あっ…暑くて大変なんだな。とか

あっ…子牛のことが心配なんだな。とか

今よりもはっきり分かっていたと思う。

 

たまにこの広い庭に迷い込む、

タヌキやカモシカの不安な気持ちも、

あの時は確かに感じ取れた。

 

小屋の大きな馬が出荷される日の前夜は、

その馬と一緒に藁の上で寝て、

馬が涙を流して泣いているのに寄り添った。

 

『動物さ好かれるわらすは、

八尺様に手っこもっでかれるって

はなすきぐべ?それでおらい、むじぇくてよ。

まんずおんじゃ、けない顔してるおん…。』

(動物に好かれる子供は、八尺様に手を引かれる

という噂を聞くでしょ?だから私は不安で、

それに何と言っても貴方、儚げな顔をしてるから)

 

『八尺様』という存在を聞いたのは、

この時が初めてだった。

 

というよりこの時は『はっしゃくさま?』程度の

理解だったと思う。

 

小川さんは東の小屋のすぐ前にある水場で

鎌や鋤(すき)など、農具の手入れをしながら、

私にそう言い、今まで私があまり見たことのない、

浮かない顔をしていた。

 

ふいに沈黙した小川さんと、

何のことか分からない私との間に流れた静寂を、

8月の蝉が騒々しく埋め合わせていた。

 

 

 

 

 

夏休みも終盤に差し掛かった頃。

屋敷の北側にある松林が涼しい

長い杉板で出来た縁側で、

おやつとジュースをちびちび食べていた。

 

この辺りは松の間から吹く風と、

屋敷の影になって早めに陽が遮られることから、

他の場所より涼しくて、

お昼寝やおやつを食べるのに

お気に入りの場所だった。

 

うちの敷地のずぅーっと向こう、

100メートルは奥の方だろうか、

松林の中に白い人影が見えた。

 

『お客さんかな?』と思っていると、

その人はこちらに会釈するようにして、

首をかしげた。

 

『あっ、やっぱりお客さんだ!』と思い。

屋敷の中の方に向かって、

大きな声で、下女の一人の名前を呼んだ。

 

でもなかなか来ない。

もう一度松林の方をみると、

その人は少しこちらに近づいているように感じた。

 

どうやら女の人のようだ。

白い和服をきている。

(当時は『昔の服』と思った記憶がある)

 

下女が来ないようなので、

今度は『小川さーん』と屋敷に呼びかけた。

 

『はいよー』と小川さんが奥の廊下から

こちらに歩いてきた。

 

『お客さんだよー』私は松林の方を指差す。

 

白い人影は、消えていた。

 

小川さんは『おんじゃ寝ぼけたんだべ?』と

笑いながら屋敷の中に帰っていった。

 

もう一度松林の方を見ると、

松の後ろに隠れて、やはり白い人影が居た。

 

『あっ、ほらいた!小川さーん!』

私が再び屋敷に呼びかけるが、

今度は返事がない。

 

また松林の方を見ると、

その人はもう東の小屋の柵を越えて、

20メートルぐらいだろうか、

だいぶ近くまで来ていた。

 

近くまで来て初めて分かった。

 

変な人だ。

 

やけに体が細長い。

手足も異常に長く、

身長は2メートル近くありそうだ。

 

白い和服を着て、黒々とした長い髪。

頭にはつばの広い、

これまた白い帽子を被っている

靴は…裸足…だろうか?よく見えない。

 

何より年齢が分からない。

若くて綺麗なお姉さんのような感じもするし、

少し背中の丸まった老婆のような気もする。

 

不気味だった。

 

こちらに笑いかけている様だったが、

感情がまるで分からない。

 

私は怖くなって、

縁側の外に放り出していた足を中に入れ、

体育座りになって、近づいてくるその人を

ヒザの間から薄目を開けて見ていた。

 

屋敷のほうから、

廊下の床板がきしむ音が聞こえた。

 

そちらに目をやると、

祖母が近くを通りかかったのが見えたので、

『おばあちゃん!!』と叫ぶように呼んだ。

 

『なにしたえ?』と祖母が訝しげに

こちらに歩み寄る。

 

私はすぐに祖母の足にしがみ付き、

暗い松林の方に目をやった。

 

白く長い人影は、居なくなっていた。

 

私には、まだそれを説明する力がなく

『誰かいた』とだけいって、その日は終わった。

 

子供の時分というのは恐ろしいもので、

『不思議に慣れている』とでもいうのか、

次の日には何事も無かったかのように

また、松林の見える縁側で

おやつを食べるようになっていた。

 

その後も同じような事が何度かあった。

私も少しずつ慣れてきて、

対処の仕方が何となく分かってきた。

 

祖父や小川さん。

つまり男性に助けを求めた時は

あの白い人影は松の影に隠れている。

男性が去ると、また姿を現して近づいてくる。

 

一方で祖母や下女。

つまり女性に助けを求めた時、

白い人影はフッといなくなって、

その日はもう現れない。

 

私がそうして対処出来るようになってから

2、3日。あの白い人影は姿を現さなかった。

 

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ある日、不思議な事が起こった。

朝起きてから、祖父も祖母も、

小川さんも下女の二人も、

隣街からこの屋敷に来たお客さんまで、

誰一人として、私に気がつかない。

 

無視されてる。というのも違う。

気が付いていないのだ。

 

でも当たり前のようにお昼ご飯は

私の分も用意されてるし、

昨日汚した靴も、

すっかり綺麗になって玄関にある。

 

でも、誰も私に気がつかないのだ。

 

下女に話しかけても、『えぇ、はいはい』と

返事はするが、これといった会話をするでもない。

 

小川さんに『今日は何を手伝えばいい?』と

尋ねても、『今日は何もない』という。

 

確かにみんな普通に暮らしているのだが、

誰も私に意識を向けないのだ。

 

私はその時『変だ』とも確かにおもったが、

むしろ『つまんないの』という感じだった。

 

呆れた私は家の南にある正門を出て右、

つまり家の西側にある

小さな菓子店に行こうと決めた。

 

そこには『プリン大福』というお菓子があり、

プリンをクリームで覆い

それを大福餅の皮で包んである私の好物だった。

 

私は何も言わず、祖父の書斎にある

小銭がジャラジャラと入った大きな瓶から

300円を抜き取り、ポケットに入れた。

 

誰も何も言わない。

 

普段、私が家の外に出る時は

誰かと一緒でなくてはならないのだが、

南門のところまで行っても誰も来ない。

 

振り返っても、誰も家から出てこない。

 

私は家の門を出て右に曲がり、

西の方角にある小さな菓子店を目指した。

 

一人での外出に多少なりともワクワクしていた。

菓子店まで車なら2分もかからないところを、

7歳の足では15分ほど歩いたように思う。

 

菓子店に着くと、

三角巾を被ったいつものおばちゃん達が

『あら泥乃松さんところの!チビちゃん!

   今日は一人で来たの?大変だったでしょ?』

 

『泥乃松』とは、我が家の屋号なのだが、

そんなことより菓子店のおばちゃん達が

自分に意識を向けてくれたのが嬉しかった。

 

私は老人ばかりの田舎にあって、

しかも多少なりとも美少年だったので

どこへ行ってもチヤホヤされた。

 

300円をおばちゃん達の1人に渡すと、

『プリン大福ね?』とすぐに分かってくれた。

お店の前のベンチに案内され、

プリン大福の他に『ガンヅキ』や

『きりせんしょ』など郷土では定番のお菓子、

それにぶどうジュースまで出してくれて、

『お婆様は元気?』とか

『お盆は皆さん帰ってきた?』とか

ひっきりなしに私を質問ぜめにして

至れり尽くせりだった。

 

何よりおばちゃん達3人全員が

私1人に付きっきりだったので、

今朝、屋敷で家族から受けた、

なんとも言えない『無視』みたいなものに

疑問を感じていた私にとっては、

とても安心できる待遇だった。

 

おばちゃん達からの暖かいもてなしを受け、ふと

『いま何時なんだろう』という事が気になった。

 

あまり遅くなっては屋敷の者が心配するだろう。

と考え、ぼちぼち切り上げなくてはと

『いまなんじ?』とおばちゃん達に聞いた。

 

おばちゃん達は『いいのよ いいの!ここにいて?』

とニコニコしながら言う。

 

でもとりあえず『今が何時なのか』だけでも

知りたい私は、もう一度『いまなんじ?』と聞いた

 

すると少し引きつった顔をしながら、

『そうねぇ、何時なのかねぇ?』とはぐらかす。

 

少し変な感じがした。

 

その後、私が何度同じことを聞いても

『気にしなくていい』や『大丈夫だから』と

はぐらかすばかりで、教えてくれない。

 

やっぱり何かが変だった。

 

私はある事に気がついた。

セミが、鳴いていない』

 

普通、夏の昼下がりともなればセミ

ミンミンと鬱陶しいぐらい鳴いているものだが、

今日は一匹も鳴いていない。

 

一回そこに気がつくと、

続けざまにおかしな事に気がついた。

 

『カラスもスズメも、虫の一匹すら見当たらない』

『おばちゃん達は、いつもは2人しかいない』

『このベンチの場所は自動販売機があった』

 

何かが微妙に違うのだ。

 

辺りを見回してからおばちゃん達の顔に

目を向けると、背筋に寒気が走った。

 

『知らない人だ…』

 

いつものおばちゃん達によく似てはいるのだが、

まるで双子の片割れのように、

確かに似てはいるが、別人なのだ。

 

『どうしよう、どうしよう』

私は不安でいっぱいだった。

 

とにかく屋敷に帰らなきゃ、と思った。

まだ残っているぶどうジュースもそこそこに、

 

『そろそろ帰る』とまっすぐ前を見ながら言った。

もう一度おばちゃん達の顔を見るなんて

とても出来なかった。

 

もしもう一度おばちゃん達の顔を見たら、

次はもっと違う顔をしているような気がした。

 

おばちゃん達は、

私が店の敷地を出る最後の最後まで、

『本当に帰るの?』『ここにいていいんだよ?』

と気持ち悪いぐらい引き止めて来た。

私はその呼びかけに対して

『うん、うん、』と適当な相槌を打ちながら

店の敷地を出て、屋敷へ続く道路を歩き始めた。

 

店を出てから急に怖くなって、

自分が早足になっているのが分かった。

 

怖いから、とにかく早く逃げたくて、

家族のところに帰りたくて、

半分走るぐらいの気持ちでスタスタ歩いた。

 

それにしてもおかしい。

 

絶対におかしいのだ。

 

もう、屋敷についてしまった。

 

屋敷を出て店に行く時は、

私がのろのろ歩いたとはいえ

少なくとも15分は歩いただろう。

 

今、店を出てからほんの30秒ぐらいだろうか、

私はもう、屋敷の正門まで来ていた。

 

自分でもそんなはずはない!と思い、

歩いてきた道を振り返った。

おばちゃん達の菓子店は遥か遠くにかすみ、

辺りは見慣れた田園が広がるのみである。

そこは確かに祖父の屋敷であるようだった。

 

『そんなに早く歩いたのか、』

不思議ながらも納得して屋敷の正門に立った。

屋敷の庭に誰か1人ぐらいいるだろうと思い、

『ただいまー』と少し大きめに言ってみた。

 

誰もいない、セミも鳴いていない。

東の小屋にいるはずの牛や馬は、

小屋の中に入っているのだろうか?

見渡す限り、よく手入れされた庭園と屋敷が

正面から覆い被さるように私を待っていた。

 

『なーんか、変なんだよなー。』

そう思いながら庭の中を進んで行く、

玄関の前で、鎌やくわなど、

道具の手入れをしている小川さんを見つけた。

 

私はすぐ小川さんに話しかけた。

『あのね?おばちゃん達の店行ったらね?

なんか変だったよ、ちょっと違うっていうか、』

 

小川さんは、何も話さずカシャ、カシャ、

と鎌を石で研いでいる。

 

少し待っても、小川さんは何も言わない。

『何か知っている、隠してる』そう感じた。

 

『だってね?いつもお店にベンチなんてないし、

おばちゃん達もね、時間教えてくれないんだよ?

ずっとここにいろって…なんか変だったよ。』

今まで起きた奇妙なことを説明するように、

何も答えないままの小川さんに一方的に話した。

 

やっぱり小川さんは黙っている。

私は不安と沈黙に耐えかねて、遂に

 

『ここも…そうなの、?』と聞いてしまった。

 

何も話さずにうつむいていた小川さんの顔が、

ゆっくりとこちらに向いてきた。

 

小川さんが完全にこちらを見る前に、

私は振り返って正門の方に走り出した。

 

小川さんじゃ、なかった。

よく似た誰か。いや、よく似た『なにか』だった。

 

私は恐怖で動かない足を必死で動かして、

半ば転ぶように正門まで走っていた。

もう顔は涙でぐしゃぐしゃだったと思う。

 

でもどこに行けばいいのだろう。

辺りに家はほとんどなく、

また菓子店に戻ったところで、そこには

おばちゃん達によく似た『なにか』がいるだけだ。

 

後ろから寒いほどの強烈な視線を感じる。

 

あいつだ…』

 

すぐに『八尺様』だとわかった。

屋敷の松林の奥から、

ぎこちない動きで、手を上下させ

『戻ってこい』と手招いている。

 

どうしたらいいかわからない私は、

正門のところにある大きな松の木に手をつくと、

ひとり、うずくまって泣いていた。

 

すると遠くから、

 

『カポ、カポ、カッポ、』

下駄を鳴らすような音が道路の方から聞こえた。

 

誰なのか気になったが、

恐怖と涙で顔を上げられない。

 

大きな影が、うずくまった私の前で止まった。

生暖かい風が、上から私の髪を揺らす、

どこかで感じた暖かい『息』だった。

 

見上げるとそこには、

美しい灰色の大きな芦毛の馬が立っていた。

 

それは先日、

東の小屋で息を引き取ったばかりの老馬だった。

 

長いまつ毛が夏の光をたくわえて、

時折見せる静かな まばたきが懐かしい。

私の不安な心に寄り添う、優しい目をしていた。

 

『お前…生きてたのかい?

またここに帰ってきたんだね?』と私が聞くと、

馬は悲しそうに、首を横に振った。

 

『そう…』

私は彼女の事情をなんとなく飲み込んで、

 

『でも、また会いに来てくれたんだね?』

と尋ねると彼女は、嬉しそうに、少し目を閉じた。

 

彼女は先日確かに、

涼しい夏の朝に死んでしまった。

でもいま彼女はここにいて、

不安で動けない私に会いにきてくれている。

 

なにも不思議なことはなかった。

それほどに子供の心というのは、

不思議をそのまま受け入れられるような

柔らかさがある。

 

私は彼女の大きな顔を両手で抱き寄せ、

目を閉じて、彼女の息づかいを感じた。

 

死ぬ間際の彼女は、身体が痩せ細り、

目にも力が無かったのだが、

いまここにいる彼女は少し若返ったように感じた。

 

『もう行きましょう。ここにいてはいけない』

確かに彼女がそう言った気がした。

 

でもどこへ行くというのだろう。

周りには一件も家なんてないというのに、

 

でもひとつだけ確かに分かっていたことがある。

いま私がいるこの世界の中で、

彼女だけが『本物』だった。

 

『行くって…どこに?』

と私が聞くと、彼女は脚をたたんで低く座り込み

背中に乗るように促してきた。

 

『連れてってくれるの?』

そう言って彼女の背中に跨ったその瞬間、

 

松林の木々は一斉に低い唸りを上げ、

屋敷全体はガタガタと音を立ててきしみ、

奥にいた『あいつ』が髪を振り乱して

こちらにむかってもの凄い勢いで走ってきた。

 

異様に長い手足をタカアシガニのように

ぎこちなく動かし、目は爛々と光って、

とてもこの世のものとは思えない形相で

奇声にも似た呻き声を上げながら近づいてくる。

 

これまでとは比べ物にならない寒気が走った。

 

同時に私を乗せた美しい芦毛の馬体は、

大きく空へ前脚を蹴り上げたかと思うと、

飛ぶような速さで家の前の道路を駆け出した。

 

振り返ると『あいつ』が門のすぐそばまで来て、

大声で何かを叫びながら、悔しそうに

松の木を爪でガリガリ引っ掻いているのが見えた。

 

風を切って走る美しい芦毛の馬体は、

最初のうちは『パカラッ、パカラッ』と

地面のアスファルトに蹄の音を響かせて

走っていたが、

どのくらい走っただろうか、

気がついた頃には、全く音がしなくなっていた。

 

蹄の音がしなくなった代わりに、

声が聞こえるようになった。

 

私たちは本当に風となって

田園の緑の中をかけていた。

 

私は彼女の大きな首につかまり

風に優しく揺れるたてがみに顔をあて、

彼女の声に耳を傾けていた。

 

『もう大丈夫』彼女が優しく言う。

『さっきの「アレ」は何だったの?』

『捕まったら、連れてかれていた』

『どこへ?』

『分からない。でも二度と戻れなくなる』

『また出るかな?』

『しばらくは出ない。でも消えない。』

『ぼくだけを連れてこうとするの?』

『気に入った子供だけ、連れて行く。』

『怖いね』

『近づいてはいけない』

『ねぇ、君は死んだの?』

『そう、死んだよ』

『苦しかった?』

『苦しかった。でもいつもそばにいてくれた』

『そうだね、あの時はきみ苦しそうだった』

『ありがとう』

『今は?苦しくない?』

『何も、』

『死んだら楽なのかな?』

『そうね、楽かも。でも、あなたは生きて』

『また会える?』

『それは分からない』

『会えたらいいよね?』

『それはそうね』

 

田園の緑の中で、

風の音と私たちの声だけが聞こえる。

彼女の脚の方に目をやると、

少しずつ消えているのが分かった。

 

『もうさよなら?』

『あと少しでね』

『そうなんだ…』

『悲しいことじゃないよ』

『どうして?』

『また逢えたから』

『そうだよね。ありがとう』

 

彼女の脚はもうほとんど消え、

やがて彼女の背中はだんだんと低くなり、

私の脚がやっと地面に届いた頃にはすでに、

彼女はいなくなっていた。

 

気がつくと私はセミの鳴き声が時雨のように

降り注ぐ道路を、家に向かって歩いていた。

 

もう辺りはすっかり夕暮れだった。

屋敷の正門の大きな松から、

小川さんがこちらに手を振ってるのが見えて、

私は駆け出した。

 

遠くからでも分かる。

間違いなく本物の小川さんだった。

 

『だあれ!おんじゃ!どこさが行ってさんたど

思っておらい気ぃ狂いそうだったもんや!』

(次男坊がどこかへ行ってしまったと思って

私は気が狂いそうでしたよ)

 

小川さんの話によると、

私はお昼頃から急に屋敷から居なくなり、

みんなで隣町まで探しても見つからず

もちろんおばちゃん達の菓子店にも居なかった。

これは『八尺様』の仕業ではないか、

と噂になり。祖母にいたっては、

ショックでめまいを起こし部屋で寝ているとの事。

 

『八尺様』というのは、

この地方に伝わる祟り神のようなもので、

白い服を着た、背の高い女の姿をしており、

可愛い男の子に目をつけてはさらって行く。

『八尺様』を見た子供は、数日のうちに

神隠しにあったように居なくなり、

そのまま二度と帰ってこないという。

 

そんな小川さんの話もそこそこに、

東の小屋の方を見た。

やはりもう、芦毛の馬はいない。

『馬のお墓は?』

『じゃっ!こないだ死んだ馬のだか?』

『そう、ないの?』

『おらいが石っこで作ってすけるべし!』

『そうなんだね、ぼくも一緒に作るよ』

『まんず、おんじゃは心の優しい童だおんじぇ』

 

私は小川さんのゴツゴツした手に引かれ、

いつもの屋敷の中へ帰って行った。

 

屋敷の松林は夏の終わりを静かに覗かせ、

その木々の間には、どこか懐かしい感じのする、

生暖かい夏風が優しく吹いていた。

                                                        終わり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

無敵のR子

 

 秋の冷たい雨が、四ツ谷に降り注いでいた。

ほんの一週間前までは、まだこの街にも

夏の日差しが照りつけていたというのに、

秋物のシャツをクローゼットから出して間もなく、

また冬用のジャケットを引っ張り出さなければ

ならなかった。

 

すっかり暗くなった雨の四ツ谷には

帰路につく上智の学生が、所狭しと傘を広げて

四ッ谷駅へと急いでいた。

 

傘を忘れた冬用ジャケットの私もまた、

その中に混ざって、ひとり歩いていた。

ソフィア通りの木々から、したたり落ちる雨露と

女の子たちが傘から落とす雨粒を肩で受けながら、

降り続く雨に髪を濡らして、

私も大学生の波を流れていた。

 

私は昔から傘を持たない。

というより傘を持って家を出ない。いつも忘れる。

持って家を出ても、必ずどこかに置いてきてしまう

『今は降っていなくても、帰りには降るかも』

なんて、そんな先を見据えた行動ができないのだ。

『先のことなんか考えず、今を生きる』

そんな安い自慢をしたいのではない。

その場その場を享楽的に生きるばかりで

先のことを見ようとしない。

これは完全に私の欠点だとおもう。

成長しない自分にほとほと呆れながら

まるで懺悔にも近い気分で雨に打たれていた。

 

でも幸い、私は電車に乗る必要もない。

上智の正門を出て5.6分歩けば私の家はある。

学生の波が駅に吸い込まれて、幾ぶん広くなった

四ツ谷見附の交差点で信号につかまる。

いつもこの信号につかまるのを習慣にしている。

この長い信号待ちの時間を利用して

今晩の夕食に何を食べるかを決めるのだ。

『自分が何を食べたいのか』

『今日は何曜日で、どこが定休日』だとか、

自分の欲と正直に向き合い。答えを出し、

それを社会のしきたりに擦り合わせていく。

自己と世界の調和を保つために大事な時間なのだ。

昔からそうしている。これが私のルーティンだ。

 

しかしそんな私の黄金のルーティンは、

不意に後ろから聞こえた女性の声で破られた。

 

『あれ?りょう君?えー!久しぶりー!』

この東京で、私を下の名前で呼ぶ人間は多くない。

声がした方を振り返ると

華奢な体にウェーブのかかった深い茶色の髪

高いヒールの靴に

ハイウエストのロングスカート(グレーチェック)

薄手のハイネックのニット(ワインレッド)

その上には黒のレザージャケットを羽織っている。

目がしらから鼻にかけてすーっと伸びたラインは

彼女の朗らかな雰囲気を引き締める。

端正な顔は笑うと少しだけ歯茎が見える。

そこには、前より一層大人っぽくなった

良子(りょうこ)が立っていた。

(詳細は『三軒茶屋 梨の木の思い出』にて)

 

『なんだ良子かぁ、びっくりしたよ。』

久しぶりの再会に、なんだか安心した私は、

先ほどの『黄金のルーティン』の事など忘れて、

彼女の方に向き直った。

良子は私より2つ年上で、私が一年生の時には

大学のミスコンに出ていた。

なぜ彼女の方が年上なのに

『良子』と呼び捨てなのかと問われると

私は弱ってしまうのだが、

とにかく彼女とは古い仲である。

 

『傘持ってないの?』良子が訝しげに聞く、

『そう、朝は晴れてたから』

『天気予報で夕方から降るって言ってたじゃん』

『そうなんだけどさぁ、』

『りょう君は昔からそうよね』

『昔からねぇ、』

まずいところで返事を切ってしまった。

昔のことを話されると困るのは私の方なのだ。

 

『今からご飯?』良子が言う。

『うん、そうだよ。いま考えてたとこ』

『ふーん。ひとりで?』

『俺はいつもひとりさ』

『えー、かわいそ』

この会話が、これから一緒に夕飯を食べに行く

流れだというのは誰の目にも明らかなのだが、

私たちの場合、それを自分から言い出すのは難しい

忘れがたい『昔のこと』がある。

 

信号待ちでの二人の沈黙を、雨がなだめてくれた。

『濡れちゃうよ?』

良子はそう言って傘を私に寄せてきた。

『このままご飯いくの?』良子が重ねて聞く。

『そうだね、さすがに家に帰ってシャワーかな』

『じゃあ家まで送ってくよ?』

『いいよ、付き合ってもらうの悪いから』

『家もうすぐなんでしょ?いいよ送ってくよ』

昔からこんな調子で言いくるめられてしまう。

 

青になった横断歩道を渡りながら、

私たちは傘の持ち手を交代した。

良子のさす傘は、私には少し低すぎる。

右手で受け取った彼女のビニール傘には

まだしっかりと彼女のぬくもりが残っていた。

私の右側に彼女を置いて、

彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩く。

昔からこのスタイルが1番だと良子も分かっていた。

昔のように、私は左肩を濡らしながら帰った。

 

四ツ谷の住宅街の細い路地に入ったところで、

彼女は自動販売機に立ち寄った。

『えーなんかりょう君の部屋行くの久しぶり』

そう言いながらつい一週間ほど前に

『つめたい』から『あったかい』へと切り替わった

BOSSのカフェオレを買っていた。

『りょう君は?なんかいる?』

 

まったく、相変わらず上手い女だと感心する。

それまで『部屋まで送る』約束だったものを

カフェオレを買うことで『部屋に入る』へと

鮮やかに進路変更させてみせたのだ。

そこに少しの不自然さも、不快感もない。

計算され尽くした手を、直感的に打ってくる。

彼女にはそんな、ある種の『無敵さ』があった。

 

良子の『なんかいる?』の問いかけに

『俺はコーヒー淹れるからいいよ。』と答えると

『えーもうそれ早く言ってよぉ!

私カフェオレ買っちゃったじゃーん』

と良子は拗ねた。

 

すぐに家の前に着いた。

アパートの門を開け、良子を屋根の下に入れてから

傘をバサバサッと振ってからたたむ。

静かなアパートの廊下に、

二人のコツコツとした靴音が響くのを聞いて初めて

自分が少しドキドキしているのを感じた。

 

部屋の前に着いて、財布から鍵を取り出す。

『あっ、そうだ合鍵!』と

思い出したように、私が良子の方を見る。

『えっ?』良子がいかにも

「バレたかっ!」って感じでニヤニヤしている。

『いい加減返してもらわないとね』

『あー、今はちょっと持ってないんですよねぇ〜』

良子がふざけてごまかそうとする。

『まぁ別にいいけどさ、』私がというと、

良子はホッとしたように

『またお邪魔するかもしれないじゃん?』

と冗談なのか本気なのか分からない事を口にして

『勘弁してよ』と曖昧な返事を私がした。

 

『上がって、散らかってるけど』

と言いつつも、本当に散らかっていたら女なんて

絶対に私は家に上げない。

今日は綺麗にしておいてよかった。

『お邪魔しまーす』と靴を脱いだ良子は、

玄関マットで足をペタペタしてから

部屋の中央にあるネイビーのソファーに座った。

『家主より先に座るなよ』と笑いながら茶化すと、

『いいじゃん別に、それにシャワーでしょ?』

『そうだけどさ、』

私はそう言い、タオルを持って風呂場へ向かった。

シャワーからでる少し熱めのお湯が、

かじかんだ手先や足先を芯から温めた。

いつもより濃く立ち込める水蒸気が、

季節はもう秋になったのを告げた。

 

しかし鮮やかな女である。

あれよあれよと、こちらが戸惑っている内に、

こんな展開になってしまった。

いったい、良子はなぜ声をかけてきたのだろう。

いや、声をかけるのは良いとして、

なぜ家まで送ってくれたのだろう。

まぁいい。彼女だって何か思うことがあったから

声をかけてきたのだろう。

それはいずれ明らかになることだ。

話したい事があるんなら、あっちがそれを

話し出すまで、こっちは悠々と構えていればいい。

そうして私はいつもの落ち着きを取り戻した。

 

突然シャワー室の扉がガチャっと開いた、

良子が半分顔を出している。

『なに?』と私が聞くと、

『コーヒー淹れときますよ?』と言う。

裸の私は背を向けながらもお尻は見せない

微妙な体勢になりながら、

『ご自由にどうぞ』と言った。

良子は無言でガチャリと扉を閉めた。

彼女は昔から覗きグセのある人だった。

覗きグセは彼女の名誉に関わるとしても、

とにかく、私がシャワーを浴びてたり、

ケータイで動画をみてたり、昼寝しようとしてたり

そういう時に限って、

どうでもいいことで話しかけてくる人だった。

 

シャワー室から出た私は濡れた髪のまま、

とりあえずそこにあったスウェットを履いて

作業用のキャスター付きのイスに座った。

 

部屋にはコーヒーの香ばしい香りが充満していた。

『あ、ソジャーだ!懐かしい〜!』

良子に言われて気がついた。

私は上下ともソフィアジャージを着ていた。

『昔はよく着てたなぁ、』

良子は昔の大学での日々を思い出していた。

容姿端麗で成績も良く、

ミスコンに出て、周りからはチヤホヤされて、

さぞ栄華を極めたであろう彼女の大学時代とは

裏腹に、彼女はたまに昔のことを思い出しては

悲しい顔をする時があった。

その悲しい顔の原因に一枚噛んでいる私としては、

その状況にいたたまれなくなり、

『まだ持ってんの?』とごまかし半分に聞いた。

『うん、でもタンスの奥』と良子。

『部屋着に最適だぜ?』と明るく振る舞うが

彼女の悲しい顔は解けないままだ。

 

良子の淹れてくれたコーヒーをすすって、

いつものようにタバコに火をつけようとしたが、

良子がいるので、途中でやめた。

手持ち無沙汰になってしまった私は、

ボーッとしたふりをしていた。

こういう時、六畳のワンルームは狭く感じる。

 

どうにかこの固まった空間から逃れないと、

と思い。イスをくるっと反転して壁の方を向き、

ケータイをチェックした。

1分も待たずに、背後から『ボロロン♪』と音がした

振り向くと良子が部屋のギターを抱え、

足を組んでベッドに腰掛けている。

艶のある赤茶色のアコースティックギター

良子が今日着ている服の色にもぴったり合う。

『けっこうサマになってるよ』と私。

でも良子はギターが弾けない。

そもそも持ち方が逆だし、

組んでる足も床に付いてない。

色々と回りくどくやってはいるが、

つまるところ、私に何か弾いてもらい。

このぎこちない空気を払拭しよう

というのが彼女の魂胆なのだ。

 

『教えてやろうか?』と言い、彼女の隣に座る。

持ち方と組む足を直してあげた後、

Cのコードを教えようとするが、

彼女のネイルが長くて、敢え無く断念した。

『はいはい』と彼女からギターを受け取って

『なに弾いてほしい?』と彼女に聞く。

『うーん、なんでも!』

『じゃあ斉藤和義な』

『メトロに乗って?』

『じゃあそれ弾くよ』

『はーい』

少し弾くだけのはずが。

結局は一曲丸々弾くハメになってしまった。

弾き終わってギターを元の場所にもどす。

気付くと良子はベッドの中に入っていた。

『寝るの?俺のベッドだけど』

私がそう聞くと、彼女は被っている毛布の端を

ペロっと返して『一緒にどうですか?』と言う。

『結構です。』と私が答えるとすぐに毛布を閉じ、

口を尖らせて目を閉じた。

『まだ6時前だよ?』と私。

良子は『……。』とだんまりを決め込んでいる。

『ご飯食べに行こうよ、久し振りに会ったんだし』

大人の妥協案で良子をベッドから起こさせる。

最初は『しょうがないなぁ、』というそぶりを

見せていた良子も遂には『どこにいく?』

と笑みがこぼれた。

 

ジャージからよそ行きの服に着替えていた私は、

『なんでもいいよ、良子の好きなところで』

といいながら髪をセットしに洗面所へ向かった。

短髪の私は比較的すぐに髪のセットが終わり、

部屋に帰って『決まった?』と良子に聞くと

予想通り『まだ』とのこと、

『じゃあとりあえず居酒屋かな』

『おっ!そうしよう!』と立ち上がった良子は

ヒールを履いてない分、ずいぶん背が低く感じた。

 

『シワになっちゃったぁ』とスカートを直す良子。

『勝手に他人のベッド入るからだよ』

『まだ雨降ってるかなぁ』と良子が話を流す。

基本的に傘を持たない私も、

さすがに今度ばかりは傘を持って家を出た。

 

金曜日の『しんみち通り』は学生よりも

会社員で賑わっている。

『あんまりうるさくないとこがいいなぁ』と良子。

『じゃあここにしよ。』

『えー赤札屋?うるさいじゃーん!』

『いいじゃん、メニュー色々あるし』

『えーピザとかがいい』

『ピザもあるって』

『ほんとかなぁ〜』

そんなこんなで、しんみち通り中ほどにある。

赤札屋という大衆居酒屋に入ることに決めた。

2人なのでカウンター席を覚悟していたが、

ちょうど2人がけのテーブル席が

空いていたようなので、向かい合って座った。

 

『赤札屋きたことあんの?』と私が聞くと

『ないね、初めて来た』

『お嬢様だもんな』

『世間知らずって言いたいんでしょ?』

『ネガティヴすぎだよ』と2人で笑って

店員に生ビールを2つ頼む。

昔はビール嫌いだった良子も、社会で揉まれて

ビールのうまさが少しはわかって来たのだろうか。

 

『ハイ生2デース』と中国人のお姉さんが

持ってきた中ジョッキで間髪入れずに乾杯する。

こういうのは勢いが大事なのだ。

お馴染みのお通し『ミニ冷奴』に醤油をかけて

それをつまみながらメニューに目を通す。

自慢ではないがこの店のメニューと値段を

ほとんど暗記している私は、

彼女ひとりにメニューを持たせて、

悠々とビールを飲んでいた。

『うーん分かんない』と良子が言うので

私はすぐ『すみません!』と店員を呼んだ。

1もつ煮込み

2肉じゃが

穴子の天ぷら

4なす一本焼き   

を注文した。既に答えは出ている。

これが間違いなくベストオーダーなのだ。

そして必ずこの順番でくる。完璧なフローだ。

 

自分の常連ぶりに満足していると、良子が

ナポリタンもお願いします。』と唐突に加えた。

そらは完全なる失策であった

そんな序盤で炭水化物のバケモノを投入されては

私の独身ゴールデンフローが総崩れである。

しかもそこはせめて『焼うどん』だろ…。

とも思ってしまった。

 

良子が私の異変を察して『ん?』と言う顔をする。

『いや、いいんじゃない?』と適当に流す。

独り身が長かったせいか、

他人の注文に違和を禁じ得ないのは悪い癖だ。

今日はせっかく1人飲みではないのだから、

他人のもたらすイレギュラーを味わうことで、

またひとつ大人になれる。そう思うことにした。

 

やはり最初はもつ煮込みから来た、

食べ慣れた味。味噌汁がわりでもあり、

かつ、独特のモツのくさみが酒のつまみとして

盤石の地位を築いている。

1番バッターは譲れない。圧倒的な出塁率だ。

 

次に肉じゃが、甘いみりん醤油の味付け、

じゃがいものボリューム感でほどよく腹を満たす。

メインの3.4番へと続く、繋ぎの2番バッター。

しかもこの肉じゃがの働きによって、

先ほどのもつ煮込みは、

いつでもつまみ直せる、箸休めとなった訳だ。

そう、既にもつ煮込みは2塁へ進塁しているのだ。

 

しかし恐れていた事態が起こった。

穴子の天ぷらとナポリタンの同時登場である。

左打ちの3番バッターと

右打ちの4番バッターが同時に打席に立っている。

 

『ヘヴィすぎる…』心の声は良子に届いただろうか

いや決して届いてなどいない。

彼女はひたすらナポリタンに高揚するばかりだ。

生ビールがなくなっている。

気を落ち着かせて二杯目をもらうことにした。

彼女は何を飲むだろう。

私は店員を呼んでビールのおかわりを注文した。

『良子は?なんか飲む?』

『あっトマトサワーで!』

 

一瞬の出来事だった。

とても正気の沙汰とは思えなかった。

確かにそれはこの店の名物である。

トマトサワー、200円。安い。

しかし我々の眼前にはナポリタンという

トマト味の海が広がっているのだ。

良子…見えていないはずはあるまい。

トマト味をトマト味で流し込むというのか?

まさに血で血を洗う。

ご丁寧に赤色までそっくりじゃないか!

いいだろう。ここまできたら、

私もジタバタせず見届けよう。

それが新時代の感性だというのなら!

良子。味オンチのその先を、俺に見せてくれ。

 

生ビールとトマトサワーが届いて

良子は感激の声を漏らす。

『わぁすごい!真っ赤!』

 

そう、もはや赤軍の登場は待った無しであった。

既にセオリーと言う名の体制派の内で楽しまれた

野球という遊びは終わり、テーブルの上では

ナポリタンとトマトサワーの連合赤軍

新たな味覚の自由と革命を求めて、

高らかにゲームセットを宣言していた。

 

もはや、もつ煮込みも 肉じゃがも去った球場で、

(いや、今はコロシアムと言うべきか。)

赤軍派の主張は過激になるばかりであった。

 

『白派』である穴子の天ぷらは、

テーブルの端で静かに息を潜め、

刻一刻と食べ頃を失っていくばかりであった。

 

許せ穴子の天ぷら。

ナポリタンのケチャップがついた箸で、

お前の綺麗な体に触れる愚行を…。

血塗られた箸で突かれた穴子の天ぷらは、

予想通り、所々に赤いケチャップが目立った。

 

泣いている。穴子の天ぷらが泣いている。

からりと揚げられた衣に、さっと塩をつけて

上品に食されるべく、このテーブルに登った

悲運の天才、穴子の天ぷら。

それがいま、赤い血の涙を流している。

なんとかこのテーブルフローを立て直さなくては。

 

テーブルの調和には穏健派が求められた。

私は頭の中のメニューをくまなく探す。

いないか、この場を治めてくれる穏健派はどこだ!

…いた!そうだ彼がいた。ホヤ刺しがいた。

外側の『赤』と内側の『白』を兼ね備えた

不動の穏健派、ホヤ刺しがいた。

しかも日本酒にもよく合う。中道ここに極まれり。

いやもう王道と呼んだっていい。

妥協案なんかじゃない。これがベストアンサーだ。

 

喜び勇んで店員を呼んだ。

なにも争う事はない。これで解決だ。

そう、人は断じて幸せにならなければならない。

『えーと日本酒2合と…』

『アツイ?ツメタイは?』

『熱燗で!あとホヤ刺し』

『ホヤ刺しオワリマシタ!』

『おっ、終わっ…た…?』

『アレ夏シカ ダシテナイヨ!』

 

ここで痛恨の品切れ。

私がかつて夢見た平和の世界は潰えた。

そうだ何で気がつかなかったんだ!

ホヤの旬は夏じゃないか!

別に特段好きでもないけど、

欲しいと思った時にいてくれないなんて。

穏健派なんて得てしてそんなもんだ。

そう考えた時、

いまここにいる者を愛そうと心に決めた。

 

『あっ、やっぱ日本酒やめます。トマトサワーで』

そうだ、もう戦争は始まっているのだ。

俺はいつまで逃げているんだ。

戦争が始まったらそれに勝利する。それだけ。

ナポリタンをトマトサワーで流し込む。それだけ。

最初からやる事はひとつじゃないか。

 

『あっ、マネした』と笑いながら良子。

あぁ、そうだよ良子。マネだ。

そもそも学びの語源は『まねぶ』だ。

模倣だってそれを極めれば、立派なカタチになる。

オリジナルとはまた違った、

もう1つの完成型が見えてくる。

聴いてくれ良子。俺はいま、お前を超えるよ。

 

『トマトサワーお待たせしましたー!』

驚いた。見たことない店員だ。

この店に日本人店員なんていたのかい。

やっぱり今まで、自分の型にこだわるばかりで、

他が何も見えてなかったのかもしれないな。

感謝するよ。ありがとう良子。

 

トマトサワーを一口飲み、

次いでナポリタンを箸で食べる。

もう一度トマトサワーを飲む。

 

ナポリタン独特のトマトのコク、

同時にその加熱によって失われたトマトの酸味。

それを熱を通さないで作った

冷たいトマトサワーの酸味が見事に補っている。

この組み合わせを直感で注文したのか良子。

参ったよ。お前はやっぱり無敵の女だ。

 

『ふつうに合うね』

『でしょー?だから言ったじゃん!』

 

しばらく食事を楽しんだあと、

きっちり割り勘で会計をして店を出た。

久しぶりに楽しい食事だった。

 

赤札屋を出ると先程までの雨はやんでいた。

 

まだ飲み足りない良子に付き合って、

しんみち通りの店を何軒か回った。

行く先々で新たな発見があった。

まるで不正解を正解にするような強引さ、

直感で思いもよらぬ最適解を導き出す

良子のそんな無敵さに振り回されながらも、

彼女がもたらす新しい楽しみ方が

心の底から楽しかった。昔みたいだった。

 

そんな無敵の良子も、酒には限界があると見えて

最後の店ではろれつが回らなくなっていた。

千鳥足で閉店間際の店から出ると、

また雨が降っていた。

 

『あっ、やばいどっかに傘忘れた』

『ばかー!昔からそういうところあるよね!』

『でも良子が持ってるからいいじゃん』

『えーじゃあおんぶして』

『おんぶ?歩けないの?』

『うーん…』

 

傘を持った良子が私の背中にもたれかかってくる。それをよっこらしょと持ち上げると、

腰が抜けそうなくらい軽かった。

良子はもう半分寝そうで、

私の肩にあごを乗せて、耳元で何か話していた。

 

雨の四ツ谷交差点。

今まで良子とは何度も一緒に帰った。

良子を右に置いて私が傘を持つような

昔のスタイルとは違う、まったく新しい

『おんぶ』スタイルで家までの道を歩いた。

 

デートの帰り道はいつも

『良子は楽しんでくれたかな?』なんて

つまらない事ばかり考えてしまう。

そうだ、良子は私に何か話したい事が

あったんじゃないか?

『話でも聞いてやろう』なんて青くさい考えで

仕方なしに付き合っていたつもりが、

結局は私が抱えていた憂鬱を

良子が和らげてくれただけじゃないか。

昔から私は何も成長していない。

また昔のように、良子に頼ってしまった。

 

自分は何も成長していないのに、

時間だけがいたずらに流れ、

そこにはもう戻れない昔だけが、

悲しい顔をして横たわっている。

 

それでも今日は良子に会えてよかった。

ひとりよがりのセオリーにこだわらず、

他人というイレギュラーを受け入れること。

それを楽しむこと。

昔を愛し、それ以上に今を愛すること。

彼女がそんな事を教えてくれた気がする。

 

私の背中の上で起きた良子は、寝ボケたような声で

『昔はよかったねぇ〜』と冗談混じりに言う。

『そう?俺は今も悪くないけどな』

本心からそう答えた。

 

飲みすぎて火照ったふたりの体を、

秋の冷たい雨が程よく冷ましてくれた。

居酒屋のテレビで見た天気予報では、

明日は久しぶりに、午前中から晴れるらしい。

まだ雨が降り続く夜の帰り道を、

彼女が風邪をひかないように

大切に家まで運んだ。

 

                                                               終

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三軒茶屋 梨の木の思い出。

  三軒茶屋にはちょっとだけ縁がある。

大学1年の頃に付き合っていた彼女が、

ここ三軒茶屋に住んでいた。

私は当時住んでいた文京区本郷の部屋で

ガス、水道など公共料金の支払いを滞らせては、

一週間ほどの荷物をまとめて、

三軒茶屋にある彼女の家に転がり込んでいた。

 

夜型の私は、彼女が寝静まってから

そーっと部屋を抜け出し、缶コーヒー片手に

夜の三軒茶屋を散歩する。

彼女はきっかり12時に寝て、

朝日が昇るまで絶対に起きない

シンデレラのような女性だったので、

私が夜中に部屋を抜け出している事を

気付かれたことはない。

 

世田谷区三軒茶屋

おしゃれに敏感な若者が多く、

隠れ家的なカフェが点在するイメージの街だが、

首都高沿いは、夜中にもかかわらず、

車はひっきりなしに轟音を立てて流れていく、

とてもじゃないがうるさくて落ち着かない。

周りを見渡しても、

大手飲食チェーンが軒を連ねるばかりで、

三軒茶屋らしさなど、どこにもない。

 

通りには、お酒をおぼえたばかりの

昭和女子大と駒沢大の学生が大手を振って

24時間営業の魚民へ入っていく。

だいたいそんな感じだ。

 

私も例に漏れず、営業終了間際の天下一品に

滑り込んで、カウンターでこってりとした

豚骨らーめんを食べていた。

 

店員に『すみません、閉店です』と言われ、

水を一杯飲み干し、店を出る。

どうやら一駅ぶんぐらいは歩いたようで、

気がつくと駒沢大学駅まで来ていた。

 

秋の風が、首都高の機械熱と混じり合い

らーめん後の私には少し物足りない涼しさで

店のドアを吹き抜けていく。

 

来た道とは違うルートを通って帰った。

住宅街の細い路地を一本入ると、

先ほどまでの首都高の喧騒とは一転して、

もの静かな通りに入った。

 

夜中で灯りこそ付いていないものの、

昼は営業していそうなカフェが何軒もあった。

『あーこっちが本当の三軒茶屋なんだな〜』と

思いながら、ブラブラと角を曲がる。

 

どこを見渡しても、同じような顔をした

小綺麗なマンションか

立派な一軒家が続くばかりだ。

 

その中に1箇所だけ不思議な区画があった。

昔ながらの灰色のブロック塀で囲われた、

古い木造の民家だ。

広い庭には、小さな畑だろうか、耕した跡がある。

中ぐらいの木が3、4本生えていて、

その木を下から見上げると、

満月の明かりに照らされて

何か実のようなものが

ぶら下がっているのが見えた。

 

それにしても古い家だ。木造の家の板は倒れかかり

屋根のトタンは一枚完全にはがれている。

周りの小綺麗なマンションから比べて、

明らかにその区画だけが取り残されていた。

 

三軒茶屋にもこういう家があるんだなぁ』

田舎育ちの私は少し嬉しくなった。

どれも同じような建物じゃつまらない。

こういう都市開発に置き去りにされた

区画があったっていい。そう思った。

 

家に帰り、ドアをそーっと開け

小さな声で『ただいま』と言って部屋に入り、

シンデレラの寝姿を確認してから

私は床に就いた。

 

次の朝、デートの予定を決めていなかった私たちは

家を出てから、あてもなくブラブラと住宅街の中を

歩いて行った。

当時、女子の間では一眼レフが流行っていて、

彼女もまた、首からNIKONの一眼レフを

ぶら下げていた。

歩いているうちに、あの古い民家にたどり着いた。

『あっ、ここ昨日きた』と私が言うと

『ん?昨日?きたっけ?』と彼女が首をかしげる

そうだ、夜中に散歩してるのは秘密だった。

『ん、あー昨日じゃないか、もっと前に見た』と

適当にごまかして、チラッと彼女の方を見ると、

シャッターチャンスとばかりに

パシャパシャと民家の写真を撮っていた。

 

一安心した私は、ひとりごちに

『でもさ、こんな一等地なんだから、

土地を売ったらもっと綺麗な所住めそうなのにね』

と言うと。彼女は

『うーん、なんか好きなんじゃない?』

とテキトーな返事をしながらシャッターを切る。

『ほら、そこに立って、』と言われ、

しぶしぶ木の前に立つ。

『はい!こっち向いて!撮るよー。』

私はどうも、こういう女子のハイチーズ!的な

写真文化が苦手だ。

たぶん、写真の私は眩しいのか、めんどくさそうな

よく分からない表情をしていたと思う。

 

『これ梨の木なんだね!』と彼女が言う。

そうか、昨日の夜に月明かりで見たあの『実』は

梨だったのか。確かに、もう秋だもんな。

 

周りを見渡すと、街のいたるところに、

秋を感じさせるものがあった。

近くのカフェの看板にも

『コーヒーセット ショートケーキorモンブラン』 

って書いてあるし、

紅葉こそまだだが、夏の青々とした木々の緑は

少し寂しい色合いになっている。

彼女が着ている真珠のビジューがついた

バーガンディのニットも、

チェックのフレアスカートも、

スエード調が美しい、落ち着いた深緑のパンプスも

何もかも、よく見たら周りは秋になっていた。

『髪色かえた?秋っぽくていいね。』

今朝、私を待たせて

ずいぶん長いこと鏡の前で巻いていた

彼女のピンクブラウンの髪が、

秋の陽気と一緒に、フワリと彼女を包んでいた。

東京で迎える、初めての秋だった。

『いま気付いたの?おそーい』

少し不機嫌なふりをしつつも、

髪色を褒めてもらえたことに関して

まんざらでもない彼女は、

照れ隠しのようにシャッターを切りながら

民家の庭の方へ入って行った。

 

『ちょっと、ここ他人の家だよ?』と

彼女を引き止めると、奥の方の小さな畑で

何やら土いじりをしている、

これまた小さなおじいさんに見つかってしまった。

『ほら、見つかったじゃん!早く出ようよ』

と彼女の腕を引くが、彼女は続けざまに

そのおじいさんまでカメラで撮ってしまった。

『バカ!怒られるぞ!』と私が言うや否や、

おじいさんが近づいてくる。

 

心配したが、おじいさんは怒る様子もなく

私たちに話しかけてきた。

『古い家でしょ?この辺はもうマンションばっかりで、畑なんてあるのはウチだけになっちゃった。』

作業着に長靴を履いて、白い髭をたくわえた

優しいおじいさんの頬は、かなりコケていた。

『写真ならお好きに撮って、もう長くないから』

長くないのは家なのか、自分の事なのか、

でも推し量るに、おじいさんは何かの病気なのだ。

 

おじいさんは東京五輪の時からここに住んでいて、

先祖からあるこの家を残すため

都市開発が進むこの世田谷区三軒茶屋で、

なかなか土地を手放さない厄介者なのだそうだ。

毎日のように区の職員や不動産屋が訪ねてくる。

おじいさんには子供が出来なかったらしい。

この家は、おじいさんを最後に途絶えてしまう。

おじいさんは顔では笑いながら話しても、

やはりどこか悲しい表情をすることがあった。

 

少しの時間だったが、おじいさんの話に付き合ったお礼として、梨を2つもらった。

別れ際、梨の木に手を置くおじいさんの写真を

彼女が一枚撮って、私たちは家を後にした。

 

私は梨をむしゃむしゃ食べながら、

『どこ行こっか?』と彼女に聞く。

彼女は手のひらに梨を乗せて写真を撮ったあと、

その梨を預けてきた。

『え?食べないの?』と聞くと

『うん、衛生面とか不安だし』という。

『この都会っ子め』と私は二個めの梨をかじる。

私が梨をかじるむしゃむしゃとした音が、

彼女のヒールが『こつ、こつ、』と鳴る音と

重なり合い 秋の高い空の中に吸い込まれていった。

 

ポケットからイヤホンを取り出して、音楽を聞く。

ほどなくして、彼女に片方のイヤホンを奪われ、

仕方なくお互い片耳で聞く。

黒いレザージャケットのポケットに

手を突っ込んで、イヤホンが引っ張られないように彼女の歩幅に合わせて歩く。

身長182センチの男が女の子の歩幅に

合わせて歩くのはかなり神経を使う。

『ん、これ聞いたことある!』と彼女

東京メトロのテーマソングだよ』と私。

 

斉藤和義の『メトロに乗って』

大学一年生、私が上京して間もない頃の東京には

いつもこの歌が流れていた。

 

《連れてってあげよう、君が知らない街へ

   コートは置いて行こう、風はもう春

 

   改札抜けて階段を駆け上がる

   振り向いた君の顔、まるで、少女

 

    『いつかそのうちに』口癖になっていた

    明日が来るなんて、誰も分からないんだ

 

   メトロに乗って、変わりゆく街へ出よう

  ここは東京、僕ら出会った街

 

   旅人になって、もう一度恋をしよう

   浅草へ行って、おみくじを引こう

 

   大吉が出るまで、100回でも、1000回でも  》

 

『渋谷はいつも行くから、違うとこがいい』

彼女がそういうので渋谷から銀座線に乗った。

渋谷始発の車内は比較的空いていて、

まだ出発まで時間がありそうだった。

 

『なんで銀座線って地下鉄なのに

渋谷の駅だけ地上にあるんだろうね?』

彼女はたまに誰も気にしていなかった事を言う。

『さあね、でも景色良くていいじゃん』

 

イヤホンコードの30センチで頭を寄せ合う

二人を乗せて、秋の東京メトロが走り出す。

 

歩いている時は恥ずかしくて手を繋げない。

そんな私を気遣ってか、

電車で隣に座ったときだけ、彼女は何食わぬ顔で

私のポケットの中に手を繋ぎにくる。

 

秋の澄んだ空気と、彼女の柔らかい匂い。

窓から差し込む黄色い光が、

私の革ジャンの肩を温める。

 

銀座線の黄色い車体は眠りについた二人を乗せ

表参道を過ぎ、赤坂見附を抜け、

とうとう上野広小路まで来たところで

彼女に起こされた。

『ん、そろそろ降りるか』と言いながら、

ポケットの中で繋いでいた手をほどいて、

上野広小路駅で降りた。

 

秋の上野は観光客でごった返していた。

人混みを縫うように二人で歩き、

すれ違う人の匂いと、アメ横独特の雑多な雰囲気に

少し疲れた私たちは、

何かスッキリしたものを欲していた。

アメ横の屋台でフルーツを売っていた。

でもなんだか気が進まない。

その時、2つも梨を食べたのを思い出した。

彼女だけパインの棒を買って、

それを食べながらまた歩き出す。

アメ横の衛生面もあの梨と同じようなもんだと

思ったが、彼女には言わないでおいた。

 

当時、私の故郷が舞台の朝ドラ

あまちゃん』の賑やかなメロディが

流れていたアメ横センタービルに入り、

珍しいスニーカーを見たあと、

屋台で焼き小籠包を食べた。

その後、西洋美術館のラファエロ展を見て、

ロビーでコーヒーを飲んだ。

上野動物園にも行く?』と私が聞くと

『今日は疲れた』と彼女が言うので、

『体力ないなぁ、』と笑って

 

その日は確か、不忍池(しのばずのいけ)が

よく見える安価な旅館に泊まったと思う。

新宿あたりに沈む夕日が、池を照らして

池を埋め尽くす巨大な緑の蓮の葉が、

そのオレンジ色の夕日によく映えていた。

 

『ご飯は?どうする?』と彼女。

『んー俺は別に食べなくてもいいけど、』

『えー!食べないのー?』

彼女は1日3食必ず食べないと寝られない人だった。

夜は必ず12時に寝るし、お酒もあんまり。

そういう変に背伸びしないところが好きだった。

 

旅館を降りて、近くの韓国焼肉の店に入った。

ビールとウーロン茶で乾杯して、

二人で初めてサムギョプサルを食べた。

『肉を焼いてからハサミで切るのか』

『肉を焼くまえにハサミで切るのか』

という他愛もない論争を繰り返し、

彼女はお腹いっぱいになって眠たそうだった。

 

時刻はそろそろ夜の11時半というあたりだった。

彼女の就寝の定刻はまだではあるが、

その日の彼女は相当お疲れのご様子で、

ほとんど会計の時には眠っていた。

 

旅館に帰ると彼女は『はー』『ふんー』と言って

むにゃむにゃしながら下着姿のまま早々と寝た。

彼女の意外に大人っぽい下着に

少しどきっとした私は

不忍池が見えるベランダで一服した後、

部屋の明かりを消して、早々と床に就いた。

 

19歳の秋。東京。

三軒茶屋、古い民家、梨の木、東京メトロ

そして、可愛い彼女がいた。

私は今より出来ることは遥かに少なかったが、

あの頃が一番幸せだったようにおもう。

 

                                                           現在へ続く

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あれから四年が経った。 

あの頃とは比べ物にならないぐらい成長した。

出来なかった事も、一つ一つ克服した。

当時のような純朴さも持ち合わせてないし、

変に都会に擦れてしまったようにも思う。 

 あの頃あれだけ欲していた『都会っぽさ』を

手に入れた反面。

一番幸せだったあの時代を考えると、

幸せからは遠のいた気がする。

好きだった彼女も今は遠くへ行ってしまった。

彼女だけじゃない、無数の出会いと 

辛い別れを経験して大人になるうちに、

孤独を愛するなんていう変な癖が付いてしまった。

 

私はまた、三軒茶屋にきている。

彼女はもうここにはいないが、

今夜は全く別の女の家に泊まっている。

渋谷で飲んで、終電がなくなると、この家を頼る。

いつの間にか女性を『女』と呼ぶようになった。

そうなったのは彼女と別れてからだろうか、

彼女のために『カッコよく』なろうとしたのも、

全て逆効果だった。

彼女のために自分を磨いて、洗練させ、

知識を、能力を、センスを高めようとした。

そうしてせっせと大人になっていった。

そして彼女は離れて行った。

果てに、『磨かれた自分』だけが残る。

なんと滑稽な話だろう。

結局いまは『磨かれた自分』という貯金で

孤独な夜を、その場しのぎで埋めているのだ。

何もかもがあの頃とは違う。

変わってしまった。

いや、自分で変えようとした結果だから仕方ない。

 

しかし変わらないこともある。

『夜中の散歩グセ』だ。

台風も過ぎて、雨も上がったことだし、

しばらく記憶の隅にやっていたあの古い民家に

寄ってみようとおもった。

 

私は一度通った道は忘れない。

子供の頃からそこには自信があった。

でも今回ばかりはおかしい。

道を間違えたのだろうか、確かにこの道の

この駐車場あたりで合っているはずなのだが、

三軒茶屋の入り組んだ住宅街の小道が

そうさせるのか、

目的のあの古民家になかなか着かない。

 

小一時間は歩いただろうか、

見つからない古民家の謎は悲しいかたちで解けた。

あの古い民家は跡形もなく壊され、

その跡地は、財閥系の子会社が管理する、

ただの駐車場になっていた。

 

どこの誰とも知らないおしゃれな車が、

20台ほど所狭しと駐車してある。

 

駐車場の隅に、あの梨の木を見つけた。

近くに行ってみると、雨上がりの駐車場、

根元をアスファルトで固められて、息苦しそうに、

でもしっかりと、梨の木が立っている。

 

どうしてこの梨の木だけが残ったのだろう。

おじいさんは亡くなって、その遺言だろうか。

どうせなら跡形もなく駐車場になってくれれば

よかったのに。

 

この梨の木があるから、あの頃を思い出してしまう

この梨の木だけが、あの頃をそのままに残してる。

おじいさんに貰った梨の味がこみ上げてくる。

どこからか彼女の声が聞こえてくる。

斎藤和義の『メトロに乗って』が鳴っている。

梨の木から、雨のしずくが一粒、

ポタっとアスファルトに落ちた。

私も目を閉じて、しずくを一粒落とした。

止んだと思った雨は、また本降りになって

周りを隔離し、私と梨の木だけの世界を演出した。

 

 

今夜も東京は開発されていく、

人の想いなんてつゆ知らず、

素早くアスファルトで固めていく。

よく街を見よう。細かいところをもっと見よう。

この東京の一つ一つに、

誰かの残したい『想い』がある。

塗り潰されていく街角の一つ一つに、

誰かの忘れられない『時代』がある。

 

 

私は雨の中、しばらく梨の木に手を当てて、

あの幸せな秋の日の残り香に、想いを馳せていた。

 

                                                                      終

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